スイーツ王子の溺愛はケーキよりもなお甘い

雪野宮みぞれ

第1話


 石蕗結乃つわぶきゆのが生まれ育ったのは、都心から電車で三十分ほどの距離にある小さな街だ。

 どこか懐かしい情緒を感じさせる商店街の真ん中に、西洋洋菓子店『ノエル』は、ひっそりと軒を構えている。

 フランス語で『クリスマス』を意味する名前の通り、茶色の屋根の上に掲げられた看板は赤と緑のクリスマスカラー。

 外壁は赤い煉瓦調のタイルで統一され、店舗の入口は丸太を積み上げたような木製の扉が嵌められている。


(今日も良い匂い……)


 フィナンシェを陳列していた結乃は作業の手をとめ、フラップ扉の向こうにある作業場から漂ってくる甘い匂いを鼻から吸い込んだ。

 店の外にも漏れ出すこの匂いは、聖夜にプレゼントを配るサンタクロースのように、今日も通りがかる人たちに幸せをお裾分けしていた。


「結乃、入口のプレート変えてきてー」

「はーい!」


 結乃は母からの指示に従い、入口に下げたプレートを『クローズ』から『オープン』へと変えた。

 ノエルの開店時間は朝十時。

 ノエルには喫茶スペースとして四人がけのテーブル席がふたつ、二人がけのテーブル席がひとつ設けられている。

 プレートを裏返してから数分後には、暇を持て余したマダムたちが来店する。ノエルは彼女達の憩いの場なのだ。



 母とお揃いのプラックエプロン、襟にフリルのついたブラウスとタイトスカートを身に着けた結乃が、ノエルで働き始めるようになったのは今から三年前のこと。

 パティシエだった亡き父、販売員として働く母、父と同じパティシエの道を進んだ兄に倣うように、専門学校でフードビジネスを学んだ。

 卒業後は迷うことなく家業を手伝うことに決めた。

 大手のチェーン店やコンビニエンスストアでも手軽にスイーツが購入できるこの時代、洋菓子店の家族経営は決して楽ではない。

 そういった世間の流れの中で、今日まで営業を続けてこられたのは、ノエルが地元の人から愛されているからに他ならない。

 ――結乃は両親が作り上げたノエルを誰よりも誇りに思っていた。


「いらっしゃいませ~!」

 

 入口の扉に取り付けられたカウベルが鳴ると、結乃は条件反射のように歓迎の挨拶を口にした。

 そして、見覚えのあるシルエットだということに気がつくと、はっと息を止める。

 上下グレーのスウェット。目深にかぶったフードからチラリと覗く黒縁のボストン型の眼鏡フレーム。センター分けの長めの前髪。

 ツンと上を向いた鼻先と薄くて形のよい唇。


(『彼』だ……!)


 結乃はにわかに色めき立った。

 彼はショーケースに目もくれず、真っ直ぐレジ前にいる結乃へと近づいてきた。


「シュークリームとブレンドコーヒーひとつ。店内で」

「はい、かしこまりました。合計で九百八十円です」

 

 会計金額を告げるやいなや、あらかじめはかったように千円札がトレーの上に置かれる。

 先にお会計を済ませお釣りを返すと、お釣りごとポケットの中に手が乱暴に突っ込まれた。



「お好きなお席でお待ちください」


 結乃がそう言うと、彼は窓際のテーブル席に腰掛けた。マダム達がおしゃべりに興じる中、そこだけが別の世界のように静謐としていた。

 注文されたブレンドコーヒーとシュークリームを準備しながら、結乃は心の中でそっと独り言ちる。

 

(いつもシュークリームで飽きないのかな?)


 ショーケースの中には、亡き父から店を受け継いだ兄が腕によりをかけて作る絶品のケーキが所狭しと並べられている。しかし、彼が選ぶのは決まってシュークリームだった。


「お待たせしました。シュークリームとブレンドコーヒーです」

「ありがとう」


 皿とカップをテーブルの上に置くと、彼は毎回律儀にお礼を言ってくれる。

 配膳を終えた結乃はレジ前へと戻り、それとはわからぬようにそっと彼の様子を観察した。

 窓際のテーブル席は結乃の位置からもよく見えた。

 彼はいつもシュークリームとブレンドコーヒーを頼み、店内で食していく。

 亡き父が三年の月日をかけて開発したシュークリームはノエル自慢のひと品だ。

 ザクザクとした食感のクロッカンシューで、朝焼き上げたシュー生地に、特製のカスタードクリームをたっぷり入れ、仕上げに粉砂糖が振るってある。

 甘いのに重たくなりすぎないシュークリームは、誰もが最後のひとくちまで飽きずに食べ切ってしまえるほど。

 彼が毎日のようにノエルに通い、シュークリームを頼むのも頷ける話――ではあるが、彼が他の人とは一線を画すのはここからだ。



(まだ食べないの?)


 彼は結乃が持っていったシュークリームを食べるどころか、たっぷり五分は凝視していた。

 上から、横から。果ては皿を持ち上げ、下からも。

 様々な角度でこの日のシューの焼き加減とディテールを目に焼き付けていき、ようやく気が済んだのか、シューを両手でふたつに割いていく。

 そして今度は、カスタードクリームを何分もかけて観察する。


(うーん。今日もすごい入れ込みよう……)

 

 いつしか結乃も彼のこの食べ方を固唾を飲んで見守るようになっていた。

 ノエルにひとりでやってくる男性客自体はそれほど珍しくないが、ここまで微に細に渡りシュークリームを観察する男性は稀だ。

 というか、彼しかいない。


(『シューさん』っていつも平日の朝からうちのお店にくるけど、何をしてる人なんだろう?)


 結乃はちょっと変わった客である彼のことを、『シューさん』と名付けた。

 常連客に勝手にあだ名をつけるのはよくないと思いつつも、これほどわかりやすい記号もない。

 席についてから十分後。

 彼は満足げな笑みを浮かべるとようやくアルミ箔の上にのったシュークリームを食べ始め、ブレンドコーヒーを一気に飲み干した。

 食べ終わると直ぐに席を立つのが、彼のルールだ。


(相変わらずいい食べっぷり)


 結乃は立ち去った後のテーブルをしみじみと見つめた。

 皿の上にシューのひと欠片、粉砂糖の一粒さえ残らぬよう、ものの見事に平らげられている。

 感心しながら食器を片付けていたその時、入口のカウベルが鳴った。



「いらっしゃいませー」


 後ろを振り返った結乃は、彼が現れた時とは別の意味で身構えた。

 

(うわっ……)


 店内に入ってきた男性を見るなり、げんなりしてしまう。

 ショーケースの前に立っている母が、臨戦態勢になるのを肌で感じた。

 

「こんな寂れた店によく客が来るもんだな?ああーん!?」


 いきなり喧嘩を売りつけてきたのは、この辺り一帯の地主である兵頭ひょうどうだ。

 デップリと太った身体を中途半端なサイズのスーツに押し込め、ボタンが今にも弾け飛びそう。

 額には大量の汗をかいていて、いつも髪の毛がペタリと額に張り付いているのが特徴のひとつだ。

 一ヶ月前までは優しい老爺が地主だったのだが、闘病生活の末に亡くなり、代わりに土地の管理に名乗り出たのが、このいかにも偉そうな息子だ。



「おい!立ち退きの準備は進んでいるんだろうな!?」

「何度いらっしゃっても、答えは同じです。私達はここから出て行くつもりはありません」

「ケッ!強情なババアだ!」

「他のお客様のご迷惑です。お帰りください」

「あーん!?舐めた口をきくじゃねえか!」

「そっちこそ!」

「お母さん……!」


 喧嘩腰の母をなだめようとショーケースの前まで戻ると、兵頭の目が結乃に向けられる。

 ねっとりと身体に纏わりつく視線は、やたらと結乃の胸元に集中していた。

 不愉快極まりない下品なニヤケ顔を見せつけられ、結乃は心の中でうめいた。



 兵頭はいつも結乃の身体をこれでもかと、舐めるように眺めまわしてくる。

 ブラウスからはちきれんばかりの乳房は、特に格好の餌食だ。

 結乃にとっては肩こりばかりを引き起こすにっくき脂肪の塊だが、ある種の男性達には少しばかり魅力的に映るらしい。


(ううっ!やっぱり苦手……)


 結乃は今年で二十四歳になるが、同世代の女性と比べるとかなりの童顔だ。丸顔で目が大きく、声もアニメの声優のように甲高い。

 結乃は昔から変質者に目をつけられやすく、邪な輩に道端で声を掛けられるのは日常茶飯事。

 そのため、男性に対する苦手意識が強かった。


「やっと帰った!ほんっとうに!もう!しつこいんだから!」


 皮肉の応酬の末に兵頭が帰宅すると、母は即座にショーケースにアルコールスプレーを吹きかけダスターで綺麗に拭きあげた。

 

 兵頭はこれまで幾度となくノエルに立ち退きを迫ってきた。

 結乃達が借りているこの建物を取り壊し、新しく小綺麗なビルを建てたいらしい。


「早く諦めてくれないかしら……」


 母は大きなため息をついた。

 当然ながら交渉がまとまる気配は一向にない。

 母も結乃も兵頭を苦々しく思っていた。



 ◇


「いだだだだだだーー!」


 母の叫び声が聞こえてきたのは、結乃がいつも通り、出勤前に洗濯物を干している時だった。


「お母さん!?」


 異変を感じ取った結乃はサンダルを脱ぎ捨て、ベランダから悲鳴が上がった一階まで階段を駆け降りた。


「お母さん!?どうしたの!?」

「こ、腰が……」


 母は腰を右手で押さえ、息も絶え絶えで台所のフローリングを這いつくばっていた。


「こ、腰って……。まさか……!」

「また……やっちゃった……みたい……」


 ――ギックリ腰だ。

 結乃は瞬時にそう判断すると、痛みにうめき苦しむ母を近所の整形外科へ連れて行った。

 結乃の見立て通り、母はギックリ腰と診断され、かかりつけの医師から痛み止めと湿布を処方してもらった。


「うう……。ごめんね、結乃……」

「やっちゃったものはしょうがないよ。今日は寝てて?あとで様子を見に来るからね!」


 結乃は母家に連れ帰りベッドに寝かせ、枕元に必要なものを置くと、バタバタと慌ただしく自宅から歩いて五分の距離にあるノエルへ向かった。


(急がなきゃ!)


 病院が混んでいて、十時の開店には間に合わなかった。兄とパート従業員だけで店を切り盛りするのはやはり心許ない。



「おう、結乃。母さんの具合はどうだった?」


 息せき切ってノエルにやって来た結乃をショーケースの前で出迎えたのは兄のみつぐだ。

 コック帽の脇からチラチラ見える黒と金の斑ら模様と、ヘアピンのような細眉はまるでヤンキーだ。

 派手な見た目に反して手先が抜群に器用で、パティシエとしての腕は申し分ないが、売られた喧嘩はもれなく買うのが玉に瑕。

 結乃は息を整えると、貢からの問いかけに答えた。


「また腰をやっちゃったみたい。今回も一週間は動けなさそう」

 

 半年ぶり四回目の出来事とあって、貢は驚きもしない。


「気をつけろよな、まったく……。ギックリ腰でよかったぜ。頭でも打ったんじゃないかってヒヤヒヤしたぜ」


 母の不注意にほとほと呆れる兄を見て、結乃も同意するように大きく頷いた。

 

「店番、ありがと。着替えたら、交代するね」


 バックヤードにある事務室で制服に着替え、店頭に戻って来ると、結乃はようやく異変に気がついた。


(あれ?)


 時刻は既に十一時を過ぎている。しかし、いつもの席に『シューさん』がいない。


「ねえ、お兄ちゃん。今日、男の人が来なかった?お兄ちゃんと同じぐらいの身長で、スウェットを着ていて、黒縁の眼鏡をかけた……」

「来てねーよ?」

「そう……」

 

 結乃は何だかがっかりしてしまった。結乃が知る限り、定休日を除けば彼がノエルに来ないのは初めてのことだった。



「なんだよ、結乃。その男に気があるのか?」

「ち、違うよ!」


 気があるなんてとんでもない。

 結乃は両手を横に振り、慌てて貢の言葉を否定した。ところが、貢は簡単には信じてくれない。

 

「いいか?お前みたいな世間知らずのアマチャンは変な男にコロッと騙されるって相場が決まってんだ!付き合う前にちゃーんと俺に言うんだぞ?」

 

 力説する貢に結乃も苦笑いだ。

 

「ねえ、お兄ちゃん。私、もう二十四歳になるんだよ?いくらなんでも過保護過ぎだよ」


 貢は結乃の言い分を聞き流し、構わず続けた。

 

「おのなあ、もう少し自分が変態に好かれやすいって自覚しろよ!今まで誰が守ってやったと思ってるんだ?」

「はいはい!感謝してますよ!だからさっさと作業場に戻ってください!」


 結乃は貢のコックコートをぐいぐいと押し、作業場まで追い立てた。



(私だって好きでこんな見た目に生まれたわけじゃないもん)


 結乃はこの体型のせいで、男性から目をつけられ、心ない言動で傷ついてきた。

 学生時代はクラスメイトの男子から『ウシ女』なんて酷い呼ばれ方もされていた。

 結乃が無視すると男子のからかいはエスカレートしていった。

 話を聞いた貢が学校まで乗り込み周囲に睨みを利かせてくれなかったら、とてもまともな学生生活を送れなかっただろう。



 結果として貢は成人した今でも結乃を気にかけ、頼んでもないのにボディーガードの役割を買って出ようとする。


(ありがたいことではあるんだけどなあ)


 いくら兄でも恋愛にまで口を出されるいわれはない。

 ――本音を言えば一度くらい素敵な恋人を作ってみたい。

 好きな人すらできたことないくせに、憧れだけが年々肥大していく。

 しかし、結乃にも貢に迷惑をかけてきた負い目がある。

 恋をしてみたいなんて、とてもじゃないが言い出せない。


「よし、頑張ろう!」


 結乃は気を取り直し、表情を引き締めた。

 今はとにかく母の分まで頑張って働かなければいけない。

 気合いを入れた甲斐もあり、母がいなくともノエルの営業はつつがなく進んでいった。

 イベントシーズンでもない限り、商店街の片隅にあるこの洋菓子店はさほど混雑しない。

 ましてや、結乃の手に余るような悪質な客なんてやってくるはずがない。

 ……たったひとりを除いては。



「おっ!あのうるさいババアはいないのか?」


 それまで何かも上手くいっていたのに、午後になり兵頭がノエルへやって来ると、状況は一変した。

 心なしかウキウキと声を弾ませる兵頭とは対照的に、結乃は表情は曇っていった。

 母はギックリ腰でしばらく休みだと言ってしまえば、母を毛嫌いしている兵頭を喜ばせるだけ。


「は、母は……しょ、所用で外出しております……」


 結乃は苦心の末に、当たり障りのない適当な理由をでっち上げた。


「所用、ねえ?ようやく移転先を探す気になったのか?」

「ち、ちが……」

「ほほーう。なにが違うんだ?大した店でもないのに強情なんだよ!」


 母がいないのをいいことに、兵頭は言いたい放題だ。

 揚げ足ばかりとって、楽しそうに結乃を虐げる。

 しかし、結乃もなけなしの勇気を振り絞り、ここぞとばかりに言い返した。

 

「母も私も!ここから立ち退く気はありません!ま、前の地主さんとの契約はまだ残っているはずです!」

「ジジイが死んだらぜーんぶ無効にきまっているだろ?何度も言わせるな!」

「そんなっ!」


 兵頭の言い分はどう考えても横暴だった。

 結乃の勢いが削がれると、兵頭はニヤニヤと気色の悪い薄ら笑いを浮かべた。



「どうしてもと言うなら、契約を考え直してやろう。そのデカい胸を可愛がる代わりにな!」


 兵頭は舌なめずりしながら、結乃の胸元に手を伸ばしてきた。

 思わずヒッと悲鳴を押し殺す。

 助けを呼ぼうにも兄は作業場だ。

 旧式の大型冷蔵庫が奏でるモーター音にかき消され、いつも店頭の声はほとんど聞こえない。


(い、嫌……!)


 忍び寄る魔の手から逃れるため、身を捩ろうするが、足がすくんでその場から一歩も動けない。

 結乃はなす術なくぎゅっと目を瞑った。

 

「許可もなく女性に触れるのは、どうかと思いますが?」


 結乃がすべてを諦めたのと、男性の声が兵頭を非難したのは、ほぼ同時のことだった。

 恐るおそる目を開けていく。


(誰?)


 兵頭の後ろには、三つ揃えのスーツ姿の男性が立っていた。


「いきなりなんだよ!?」


 結乃への行いを見咎められた兵頭は即座に手を引っ込め、背後に立つ男性を憎々しげに振り返った。

 男性は兵頭の態度に臆することなく続けた。


「買うんですか?買わないんですか?」

「は?」

「ここは洋菓子店でしょう?商品を買うのか買わないのか、はっきりしてください。先ほどからレジが進まないのですが?」


 兵頭は一度もノエルでケーキを買ったことがない。

 母相手に憂さを晴らすと、手ぶらで帰るのが常だ。

 さも迷惑そうに冷たく見下ろされた兵頭の顔が茹でダコのように真っ赤になる。


「今日はこのくらいにしてやる!」


 兵頭は捨て台詞を吐くと、そそくさと帰って行った。

 すっかり静かになった店内には、男性の落ち着いた声がこだましていく。

 

「……シュークリームとブレンドコーヒーひとつ。テイクアウトで」

 

 注文を聞くやいなや、結乃は弾かれたように顔を上げた。


「シュークリーム……ですか?」


 目の前の男性がいつも『シューさん』が食べるのものと、全く同じものをオーダーしたからだ。


「あ、売り切れ?それとも、コーヒーはテイクアウト出来ない?今日は食べていく時間がなくて……」


 男性はどうしようかと口元に指を置き、悩む素振りを見せた。

 よくよく考えると、男性の声は確かに聞き覚えのあるものだった。

 もしかして……とその正体が頭をよぎる。


「い、いえ!大丈夫です!す、すす、すぐにご用意します!」


 結乃はそう言うと男性に背を向け、慌ただしくテイクアウトの準備を始めた。


(ま、まさか!?『シューさん』なの!?)


 テイクアウト用の箱と紙袋を用意する結乃の手は小刻みに震えていた。

 兵頭から触られそうになった恐怖のせいではない。

 毎日朝からシュークリームを食べにやってくる彼の豹変ぶりに驚き、興奮していたのだ。



(し、静まれ心臓……!)


 彼は気怠げないつもの様子とは異なり、どの角度から眺めても洗練された大人の男性そのものだった。

 汚れひとつなくピカピカに磨かれた革靴。

 いくつものギミックがある高そうな腕時計。

 黒縁の眼鏡はかけられておらず、アーモンド型の切れ長の眼がよく見えた。

 ネクタイの結び目に指を入れ首元を緩める色っぽい仕草に、ゾクっと鳥肌が立つ。


「お、おお、お待たせいたしました!シュークリームとブレンドコーヒーです!」

「ありがとう」


 彼は紙袋を受けると、どもる結乃に向かって穏やかに微笑んだ。

 下心満載の陰湿な兵頭のにやけ顔とは真逆の爽やかな笑顔だった。

 結乃がぼうっと見惚れていると、彼はそっと囁いた。


「次にあの男が触れようとしてきたら、遠慮なく警察を呼ぶといい」


 結乃がハッと我に返った時には、既に彼は背を向けた後だった。

 

「待っ……!」


 引き止める間もなく彼はカウベルの音とともに、ノエルから立ち去っていった。

 カウベルの余韻を聞きながら、結乃はレジの前で茫然と立ち尽くした。


(あの人は……本当に『シューさん』だったの?)

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