私のお兄ちゃん

細蟹姫

私のお兄ちゃん

 目を瞑ると聞こえる音楽がある。

 もう何十年も前に聞いた音。


 大きくはないステージの上で堂々とエレクトーンを鳴らす、小柄な小学生の男の子。

 ホールの中が彼の音楽でいっぱいに響いた時、私は初めて音に感動を覚えたのだと思う。


 母と繋いだ手、狭いホールの熱気、恐竜映画のテーマ曲、拍手喝采。


 いつも少しだけ先を歩く2歳年上の兄が遠くの他人になってしまったように思えたあの日を、私はいつまでも忘れることはないだろう。


 ***


 ――― 兄のようになってはいけない ―――


 それは母の口癖だった。


 賢く器用で社交的な兄は、間違いなく母の自慢の息子だったと思う。

 けれど悪知恵が働き、時には大人を論破して軽視する兄に手を焼いている所もあった。


「あなたはあんな風にならないでね。」

「またお兄ちゃんが……あなたは駄目よ。」

「あなたはお兄ちゃんと違っていい子ね。」


 兄のようになってはいけない。

 いい子でいなくてはいけない。

 親が正しい。兄が間違い。


 言葉が蓄積されて、気づけば私はそんな風に思うようになっていた。


「いい子」であろうと大人の目を気にした私。

 だけれど平凡で特出した才能もなくその他大勢に埋もれていく私。


 私に話しかける大人は口をそろえて言う。


「あなたのお兄さんすごいわね!」


 どんなに努力をしてみても、誰も結果の出せない私など見てはくれない。

 それは、兄のようになるなと言った母親も同じだった。


「お兄ちゃんは手がかかるから。あなたがいい子で助かるわ。」


 本当は、私だってお兄ちゃんと一緒に遊びたかった。

 秘密基地に隠れて、見つからないと大人を困らせてやりたかった。

 障子や網戸に穴をあけて、怒られないよう屁理屈をのべてみたかった。

 お弁当のデザートを一番最初に食べてみたかったし、お菓子をこっそり食べてみたかった。


 大嫌い。大嫌い。大嫌い。大嫌い。


 駄目な事ばっかりやっているのに、いつも人の中心にいるお兄ちゃんが大嫌いで……


 だけど、難しいゲームも「やりたい!」と言えば、私のレベルに合うように丁寧に教えてくれるお兄ちゃんが、怒られた時には優しい一言をくれるお兄ちゃんが、こっそりお菓子を分けてくれるお兄ちゃんが…


 本当は大好きで、彼は私の自慢の兄だった。


 大好きな兄を、嫌わなくてはいけない事が、幼い頃の私には何よりの苦痛だったと思う。


 ***


「今日はお兄ちゃんの発表会だよ。」


 そんな事を言われた気がする。

 持っている中で一番かわいい服を着て、お出かけをした。


 発表会は年に一度、同じ教室に通っている子どもが出演する。

 先日、私も兄と同じ日に出ていた。そう、発表会は既に終わっていた。

 なのに、今日は発表会だという。理解できなかった。

 後で知ったが、それは大会の予選だったらしい。

 エレクトーンに大会がある事すら、その時の私は知らなかった。


 着いた先は、いつものコンサートホールじゃない。小さな箱。

 狭いわりに人が多くて潰されそうで、私は母の手をぎゅっと握りしめていた。

 名前を呼ばれた人が、順番に演奏を終えていく。

 部屋が狭いせいで、「ちょっとウルサイな」くらいに感じていた私の感想は、次に呼ばれた兄の演奏で180度変わった。


(音を浴びてる………)


 その曲が、つい先日見た恐竜映画のテーマ曲であったこともあり、私は心から震えていた。

 映画のシーンが蘇り、感動を覚える。


「見て! あれ、私のお兄ちゃんなんだよ! 凄いでしょ!!!」


 演奏が終わると、叫びたい気持ちをこらえて無我夢中で拍手をした。

 そこには、好きも嫌いも、良いも悪いも何もない。

 


 ***



 久しぶりに実家に訪れて、部屋のすみに追いやられた型落ちのエレクトーンのホコリを払った。

 電源を入れれば、当たり前の様に鳴る電子音。


「何してんの?」


 しばらく適当な音遊びをしていたら、部屋の入り口に兄が居た。


「あ、いや…なんとなく?」


 私と兄の会話はぎこちない。


 思春期も相まって、家で話す事が少なくなった上に、家庭環境に嫌気がさしてさっさと家を出て以降、殆ど帰る事が無かった私。

 相変わらず奔放で、たまに帰る正月は家に居ない兄。


 数年会わないまま時が過ぎ、お互いの結婚式で再開をはたすような間柄では、面と向かって交わす言葉が見つからないのだ。


「……お兄ちゃん、まだなんか弾ける?」

「どうだろ?」


 間を持たせるためになんとか紡いだ言葉に、首を傾けながらも弾いてはくれるようなので席を譲る。


 鍵盤の前に座り、楽譜のない譜面台を見つめながら肩をすくめて兄が鍵盤をたたく。

 幼い頃と変わらないその姿に、思わず息を飲んで見守るも、

 聞こえて来たのは『キラキラ星』

 メロディーラインこそまちがえなかったものの、一音引くたびに止まる上に、単純なコードを間違えるので物凄く下手だった。

 肩透かしもいいところだ。


「ヤバイな。全然弾けねぇ。」

「そだね。ヤバイね。」


 顔を見合わせて、こみ上げてきた笑いを二人とも隠さずただお腹を抱えて笑った。


(あぁ…私はまだこうやってお兄ちゃんと笑えるんだ…)


 兄の音の前でだけは、好きも嫌いも良いも悪いも関係なしに、ただ素直に会話が出来る。

 純粋に嬉しかった。



 ***



「もう、お兄ちゃんがさぁ……子どもの動画。こんなの送られてもねぇ……。」


 今日も母は眉間にシワを寄せながら、兄の事を私に話す。

 兄は生まれたばかりの第一子をたいそう可愛いがっているらしい。

 赤ちゃん言葉で赤子に話しかける姿が気持ち悪いと母は言うが、そんな兄家族を見て、とても満足そうだ。


 すでに私の言葉など求めていない母から視線をはずし、私はそっと目を閉じた。


 聞こえて来るのは、恐竜映画のテーマ曲。

 見えるのは狭いく薄暗いホールで鍵盤をたたく幼い兄の姿。


(結局、そこには行けなかったなぁ…)


 兄よりずっと長くエレクトーンの習い事を続けたけれど、あの日の兄の音楽にたどり着く事はなかった。


 きっと、この先も私が兄に勝てることなど一つも無いまま過ぎていくのだろう。


 それで良いのだと、今は思う。

 兄はいつまでも私の憧れで、大嫌いで大好きな、お兄ちゃんなのだ。

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私のお兄ちゃん 細蟹姫 @sasaganihime

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