【KAC2025】あこがれの行方

千石綾子

あこがれの行方

「あまり窓に近付きすぎないで下さいね」


 僕はその男性にやんわりと声をかけた。その人は見た目に似合わず繊細で、ちょっときつく注意しようものなら、半日は部屋から出て来なくなる。


「水族館の魚の気分を味わいたくてな」


 笑うと、日に焼けた顔に真っ白な歯が光る。漁師であったというその男性は、この施設の古株だ。今日は機嫌が良さそうだ、と僕は内心ほっとした。


 職場である介護施設の窓は大きい。特に共同で使用する多目的ホールは壁全面がガラスになっているような造りだ。しかし事故防止のため開閉ができないようになっている。

 こんな病気が流行ってからというもの、気軽に施設を出入りしたり面会をしたりができなくなってしまった。

 この窓は、施設の外に出ることが出来ない利用者さんにとっては大切な外界とのつながりの場所だ。


 僕は、彼と一緒に外を眺める。大きく変わったこの街にも、まだ変わらない場所がある。

 遠くに見える煙突は、まだ営業を続けている銭湯のものだし、広い道路をゴトゴトと走る路面電車も現役だ。

 

 この電車が夕日に照らされる姿を見るたびに、僕は子供時代のあこがれの人の姿を思い出す。


*****


 学校帰りに路面電車に揺られて、僕は夕日に滲む町並みのその縁取りを眺めていた。ごちゃごちゃと民家や商店が混在する地区に入ると、いつもの三叉路に小さく黒い人影が映った。


 僕の目はその人物に釘付けになる。たばこ屋の隣のビルの2階にあるバー。その入り口の階段の手前にいつもいる、黒い服一色のミサキさん。


 近所の人はミサキさんとしか言わないので、それが姓なのか名前なのか僕にはわからない。でも、そんなこと僕にはどうでもよかった。


 僕は路面電車から飛び降りる。


 ミサキさんの黒いホットパンツと長いブーツの間からのぞく、目の細かい黒い網タイツは実に目の毒だった。手足は棒みたいにまっすぐで、細くて長い。木製の三本足のスツールはすすけて黒くなっており、ミサキさんはいつもそこに片膝を抱えるように座って、細い煙草をくゆらせていた。

 

 真っ黒で長い髪はストレート。ほこりっぽい風に毛先をあおられている。死んだ魚のような目で煙草の煙をぼんやりと眺め、気だるげな空気をまとったその人から、僕はいつも目が離せなくなる。


 たばこ屋の息子である友人の家に遊びに来たという言い訳をして、いつも僕はそこにいた。その友人は引っ込み思案で会話も少なく、店先で僕が持って行く漫画をただ静かに読んでいることが多かった。

 

 僕はそんな友人越しにミサキさんをちらちらと眺めるだけだった。話しかけるどころか、挨拶さえするのが怖かった。そんなことをすればミサキさんはどこかに行ってしまうのではないかと思ったから。それに、あこがれの対象はそこにただ居ればいい、と僕は思っていた。


 人工物であろう、その長くて濃いまつ毛。そこに塗られたアイシャドウも黒に近い茶色で、同じくほぼ黒と言っていい暗い朱の口紅と相まって実に不健康そうだ。

 しかしながら、その座っている場所やミサキさんの全てがバランスがとれていて、絵画のように素敵なのだ。

 映画の1シーンを切り取って来たかのように、ミサキさんはいつも美しかった。


 

 ミサキさんの姿が見られなくなったのは、それから半年も経たないうちだった。経営していた小さなバーが立ち行かなくなったんだと人づてに聞いた。

 それでも僕は同じように毎日路面電車を飛び降りて、引っ込み思案の友人を訪ねて、誰もいない木のスツールをただ眺めていた。不思議と喪失感や寂しさは感じなかった。


 僕はあこがれという感情を持て余して、好きなものを手放すことに快感をおぼえるようになっていったようだ。

 あこがれという感情は厄介だ。

 食べることができないきれいな魚をただ眺めている。触れもせず餌も与えずにいるうちに魚はいなくなってしまうのだ。

 今、40歳を過ぎてまだ独り身なのも、この面倒な感情のせいかもしれない。



*****


 今日も男性は大きな窓にひっつくようにして夜景を眺めている。遠くに東京タワーらしき灯りが僅かに見える。


「まだ起きてたんですか。早く薬を飲んで歯磨きして下さい」


 腰に手を当てて叱る僕の態度を気にする様子もなく、男性は笑みを浮かべた。


「そう慌てるこたぁないだろ。この年だ。もうそんなに先も長くないんだから」


 僕はついしかめ面になっていたらしい。男性はくつくつと笑い、僕の眉間を指でつついた。


「兄ちゃんこそ、そんなにカリカリしてると頭に血が上ってポックリ逝っちまうぞ」

「まだそんな年じゃありません」

「なに。年なんざ関係ないのさ。人生短いんだ。折角なら笑って過ごせや」

「薬を飲んで歯を磨いてくれれば僕は笑顔になりますよ」


 そんな掛け合いの末に「頑固な兄ちゃんだな」と男性は両手を低く上げて降参を伝えてきた。僕は満足そうな笑みを浮かべていただろう。


 何と言っても僕の生きがいは、施設の人たちが一日でも長く健やかに暮らせることだ。それはもちろんこの男性にも言えること。

 僕は薬をチェックして、水の入ったカップを男性に手渡す。男性は僕に見せつけるように目の前で飲んで見せて、にやりと笑った。


「さ、それじゃ早く寝て下さい」

「はいはい。年を取ったら若者に従えってな」


 男性は僕に背を向けると、片手を大きく上げてぷらぷらと振ってみせた。


「じゃあな、おやすみ兄ちゃん」


 僕は彼の背に声をかける。


「おやすみなさい、三崎みさきさん」


 店を潰してできた借金を返すために漁師になったと聞いた。ここに住んでいると知って、すぐに会社を辞めてここに転職した。


 僕のあこがれは、僕の生きがいに変わり、今日も夜は更けていくのだ。



               了




お題:あこがれ

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