番外編
信仰と数字
セラフィム聖教会・会計局。
窓の外には柔らかな陽光が差し込んでいたが、室内の空気は相変わらず冷ややかだった。
リヒター・シュヴァルツは、帳簿をめくる手を止め、静かに顔を上げる。
黒の背広に身を包み、隙のない整髪と細縁の眼鏡をかけた姿は、まるで計算されたように整っている。
余分な飾りの一切ないその佇まいは、彼の性格そのものを映していた。
対面に立つのは、神聖調査官の統括者——エリヤ・フォン・リヒト。
聖職者の法衣をまとい、袖口には僅かに刺繍が施されている。
紫紺を基調とした布地が静かに揺れ、柔らかな光を帯びているのは、職務柄もあるのだろう。
その姿は威厳を保ちつつも、どこか人としての温かみを残していた。
「……久しぶりだな」
リヒターは淡々と呟く。
「先日は、うちの調査官が世話を掛けました」
エリヤは静かに言いながら、ちらりと机の上を見やる。
そこには覚めたコーヒーと乾パン。
整然とした合理と、聖なる象徴の対比。
二人の存在は、まるで教会の“信仰”と“現実”を象徴するようだった。
「そんなことを言いに来たのか?」
リヒターは無表情のまま尋ねる。
「ええ」
エリヤは軽く肩をすくめながら、椅子に腰を下ろした。
「……貴方は、もう少し余裕を持って生きるべきじゃないですか?」
「余裕とは何のことだ?」
リヒターは帳簿を閉じ、眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。
「まさか、金の計算を疎かにしろとでも?」
「いえ、そうは言いません。ただ……今日の昼食もコーヒーと乾パンだったのでは?」
「合理的な選択だ」
「それが問題なんですよ」
エリヤは深くため息をつき、書類を机の端に置く。
「貴方は優秀です。どんなに巧妙な金の流れも見逃さないし、不正を見抜く力もある。異端審問官の資金操作を嗅ぎつけ、貴族の不正を暴く。だからこそ、会計局長として誰からも一目置かれている」
リヒターは何も言わない。
「……ですが」
エリヤは薄く笑いながら、貴族らしい優雅な仕草で腕を組んだ。
「貴方のやり方は、あまりにも冷徹すぎる。信仰すら、数字で測ろうとするでしょう?」
「当然だ」
リヒターはあっさりと認めた。
「信仰とは、教会を運営するための一要素に過ぎん。教会が存続するためには、資金が必要だ。その資金がなければ、神の教えを広めることも、聖堂を維持することもできない」
「それは理解しています」
エリヤは頷きつつも、鋭い視線を向ける。
「ですが、教会とは本来、数字だけで片付けられるものではない」
「そうか? 私には、信仰もまた計算可能なものに思えるが」
「……冗談を言っているのですか?」
「冗談を言う趣味などない」
エリヤは天を仰いだ。
「……教会に貴方のような人間がいること自体、奇跡かもしれませんね」
「皮肉か?」
「違いますよ。貴方のような人間がいるからこそ、教会は腐敗せずに済んでいる。ですが、時々思うんです」
エリヤは組んだ腕をほどき、真正面からリヒターを見つめる。
「貴方は、本当に何も信じていないのですか?」
一瞬、リヒターの指が止まる。
「何も、とは?」
「神でも、教会でも、人でも……貴方は何を信じているんですか?」
短い沈黙。
やがて、リヒターは淡々と答えた。
「数字だ」
エリヤは再び、深いため息をついた。
「……やはり」
だが、次の瞬間には薄く微笑んでいた。
「まあ、貴方がそう言うなら、仕方がありません」
「当然だ」
リヒターは再び帳簿を開く。
だが、ページをめくる手が、ほんの一瞬だけ止まったことを、エリヤは見逃さなかった。
(本当に、それだけでしょうか?)
しかし、その問いは口にしないまま、エリヤは立ち上がった。
「それでは、会計局長殿。数字だけを信じるのも結構ですが……せめて、もう少しまともな食事をとってください」
「検討しよう」
リヒターは相変わらず無表情で答える。
エリヤはそのまま会計局を後にした。
彼の姿が扉の向こうへ消えた後、リヒターは帳簿を閉じ、ふと机の隅に目をやった。
そこには、教会の財政報告書と並んで、一冊の古びた祈祷書が置かれている。
神学校時代を思い出す。
机の上に無造作に積まれた書物。寝る間を惜しんで学問に励んだ日々。
——信仰とは何か?
——教会とは何のためにあるのか?
ヴィクトールとエリヤと、夜が更けるまで議論を交わした記憶。
あの頃の自分は、まだ「信じる」ということが何を意味するのか、理解しようとしていた。
だが今はどうだ?
信仰とは数字であり、資産であり、管理すべき計算の対象に過ぎない。
それ以外の何かを求めることは、あまりにも非合理的だ。
リヒターは静かに祈祷書を手に取る。
指先でページをめくると、僅かに擦れたインクの跡が残る。
神学生時代の筆跡——「信仰は人を救うのか?」と、若かりし頃の自分が書き込んだ文字がそこにあった。
思わず苦笑する。
「……愚問だな」
そっと本を閉じると、彼はそれを財政報告書の下へ滑り込ませた。
そして、再び帳簿を開き、冷静に数字を追い始める。
扉の外には、エリヤの足音がまだ遠ざかりきらずに残っている。
ふと、先ほどの言葉が脳裏をよぎる。
——貴方は、本当に何も信じていないのですか?
リヒターは眼鏡を押し上げ、筆を取った。
そして、数字の羅列の合間に、誰にも読まれることのないように、そっと小さく記す。
「信仰とは、計算できるものか?」
インクが乾く前に、その文字を淡々と横線で消した。
それきり、彼の筆は再び静かな数字の世界へと戻っていった。
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