15. エピローグ

 エリヤ・フォン・リヒトの執務室には重苦しい沈黙が漂っていた。

 エリヤ眉間に皺を寄せながら、机に並べられた報告書を見つめている。

「……なるほど。異端審問官の暴走は止めた、しかし事態はまだ収束していないというわけですね」

 ミハエルが気怠げに肩をすくめ、コンラートが言葉を引き取った。

「審問官たちはただ無秩序に動いたわけではない。明確な意図をもって、特定の地域や宗派を狙っている可能性が高い」

 エリヤは手元の書類を引き寄せ、一枚を指で示した。

「お前たちが動いていた間に、帝都周辺の状況も大きく変わっています」

「どういう意味だ?」

 コンラートが尋ねると、エリヤは静かに答えた。

「ヴェストハーフェンです。あそこでは既に異端審問官による大規模粛清が行われ、信仰の統制が完了したと報告を受けています」

 ミハエルの眉が微かに動いた。

「……間に合わなかったってわけか」

「あの街の住民たちは新たな『奇跡』を盲目的に信じ込み、もはや疑うことさえ許されない状況に陥っています」

 ミハエルは指で葉巻を転がし、苦々しく口を歪めた。

「ヴェストハーフェンの状況が、他の街にも波及していると?」

「そうです。南方の街々でも粛清命令が下り始めている。短期間で計画的に実行されたのは明らでしょう」

「……まったく、派手にやってくれるな」

 ミハエルは葉巻を弄びながら皮肉を呟く。

「異端審問官だけで、ここまで大規模な動きは不可能だろう。背後にいる連中を探らないといけない。金の動きはどうだ?」

 ミハエルの問いに、エリヤは再び別の書類を示した。

「会計局のリヒターがすでに動いています。ですが、まだ大きな動きはありません」

 ミハエルは小さく鼻を鳴らし、軽く笑った。

「会計局長殿も、動くには慎重にならざるを得ないだろうよ。あの男は絶対に負けない勝負しかしないからな」

 コンラートは腕を組み、表情を険しくした。

「このまま放置すれば、他の街もヴェストハーフェンと同じようになる」

「その通りです」

 エリヤは重い息を吐いた。

「問題は、もはや『奇跡』そのものではありません、信仰を操作している者達の狙いです」

 ミハエルがゆっくりと頷く。

「ヴェストハーフェンが最初なら、最終的には帝都か……」

 エリヤは静かに頷き、視線を二人に向けた。

「だろうな。そして、それを防ぐのが俺たちの仕事だ」

 コンラートが決然と口を開く。

 エリヤは頷き、深く息をついた。

 ミハエルは指先の葉巻を軽く回しながら、薄く笑みを浮かべる。

「こりゃ、しばらく休めそうにないな?」

「……諦めろ」

 コンラートが小さく返すと、ミハエルは肩を竦めてみせた。



 外では鐘の音が鳴り響き、夜の帝都の闇が静かに広がっていく。広大な都のあちこちで、その余韻がゆっくりと染み渡っていった。

 石畳の広場には人影はほとんどなく、時折、巡回の兵士が足音を響かせながら通り過ぎるのみだ。だが、この静けさは見せかけに過ぎない。帝都全体が密かなざわめきを抱え、緊張の中にある。

遠く、市場の裏通りでは人々が囁き合い、馬車が軋む音を立てて通り過ぎていった。

 コンラートは静かな夜道を歩きながら、眉間にわずかな皺を寄せていた。

 事件はひとまず終わった。しかし、彼の心には以前のような迷いが残っている。

 仕組まれた奇跡……。

 それを信じた人々は、盲目的に神の名を叫び、熱狂の中で本当のことを忘れていった。本来なら、疑問を抱くべきだ。だが、彼らは「疑問」さえ許されなかったのだ。

 それは果たして正しい信仰なのか?

「……黙り込んでどうした、騎士様」

 ミハエルの軽い声が、沈黙を破る。

 コンラートは顔を上げ、ミハエルの飄々とした横顔を見やった。

「いや……考え事だ」

「考え事?」

「……今回の事件は考えさせられる事が多かった。そして、これから起こるであろう事を考えると……」

「ほぉ?」

 ミハエルは葉巻を指先で転がしながら、口角を上げる。

「騎士様がそんな弱音を吐くとはなぁ」

「黙れ」

 コンラートは低く返した。

 ミハエルは軽く笑いながら肩をすくめる。

「まぁ、いい傾向だろ。考えること自体は悪くねぇさ」

 彼は夜空を見上げ、深く息をつく。

「信じるにせよ、疑うにせよ、自分の頭で考えて結論を出すのが一番大事だぜ」

 その言葉に、コンラートの瞳がわずかに動いた。

「そういえば、一つ聞いていいか?」

「ん?」

「なんでエーレン・フロイデンに『先輩』なんて呼ばれていたんだ?」

 コンラートの素朴な疑問に、ミハエルは一瞬ピタリと動きを止めた。

「……ああ、それな」

 ミハエルは軽く葉巻を指で弾きながら、肩をすくめる。

「俺、神学校に通ってたんだ」

「……お前が?」

 コンラートは驚きに眉をひそめた。

 神学校といえば聖職者や学者を育てる場だ。気まぐれなミハエルには似つかわしくない。

 ……ミハエルが、そこに通っていた?

 ミハエルはおどけたように笑い、軽く両手を広げた。

「いやぁ、俺も昔は聖職者候補だったんだけどな?」

 コンラートは意外そうに眉をひそめた。

 ミハエルはコンラートの視線を感じ取り、おどけるように言った。

「そんな驚くなよ、俺だって昔は真面目だったんだぜ?」

「嘘だな」

「おいおい疑うのか、ひどくねぇか?」

 ミハエルはそう返したが、コンラートは僅かに目を細めた。

「つまり、エーレンは……」

「あいつは俺の神学校時代の後輩ってわけさ」

「……そうか」

 コンラートは静かに頷いた。

 ミハエルの過去については、まだ分からないことが多い。

 だが、今はそれを詮索する時ではない。

 夜の風が、二人の間を吹き抜けた。

 ミハエルは不意に歩調を速め、コンラートの肩を叩いた。

「ま、とりあえず酒場行こうぜ」

「……お前はもう少し苦悩しろ」

「ははっ、善処するよ」

 二人の影が夜の帝都の中へ溶けていく。

 彼らの背後では、帝都の夜が静かに更けていった。

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