14. 神を騙る者の末路
闇に沈む空間。微かな蝋燭の灯が、壁に吊るされた聖人画を浮かび上がらせる。だが、その静謐さは瞬く間にかき消される。
戦いの気配が、空気を張り詰めさせていた。
コンラートが一歩前へ出る。
「……来るぞ」
鋭い金の瞳が、黒衣を纏った修道士たちを捉える。そこにあるのは、もはや人間の穏やかな信仰などではない。
黒い外套の奥から滲む異様な殺気。
後ろで魔導銃を構えるミハエルが、かすかに口元を歪めた。
「頼んだぜ、騎士様」
次の瞬間——修道士の一人が猛獣じみた動きで跳躍した。
人間離れした速さ。そのまま狙いを定めることなく、コンラートの首を狙うように襲いかかる。
だが、コンラートも既に剣を抜き、横薙ぎの一撃を放っていた。狙いは首筋。
シュっと剣閃が闇を裂く。
首が切り落とされ、血が吹き出る——と誰もが思ったが、修道士の体はたちまち再生し、落ちたはずの首が捻じれるように元に戻っていく。
「……チッ!」
コンラートは即座に距離を取ろうとするが、別の修道士が横合いから襲いかかる。
人間ではあり得ない加速。鋭い爪が大気を切り裂き、コンラートの肩を掠めた。
重い衝撃が走る。
「こいつら……痛覚すらないのか」
その言葉どおり、敵は深い傷を負ってもまるで苦痛を感じず、あるいは快楽とでも思っているかのように身を震わせる。
——まるで死を恐れぬ獣だ。
「なら、少し工夫するか」
背後のミハエルが、魔導銃を構え直す。弾倉にわずかな光の粒が収束し、銃身に魔法陣の線が閃いた。
バンッ──!
轟音とともに青白い光弾が放たれる。
それは修道士の頭部を正確に撃ち抜き、彼の体はかすかな悲鳴を上げながら焼け焦げるように崩れた。
「……魔法で焼くと再生できねえみたいだな」
ミハエルの唇が、不敵に笑いを刻む。
コンラートはそんな彼の援護を背に、剣を構え直す。
「助かる。お前の魔弾なしじゃキリがない」
言いつつ、自らも冷静に戦況を分析。敵が痛覚を感じない以上、多少の斬撃では止まらない。だがミハエルの光弾が、再生能力ごと焼き尽くす。
コンラートは剣を振るい、動きを封じるように仕掛ける。鋭い斬撃が修道士の腕や脚を切り裂き、動きを止めたところへ、次々にミハエルの光弾が撃ち込まれる。
閃光、悲鳴。
黒衣の修道士は再生の暇なく焼き滅ぼされていく。
しかし、そのとき——
天井にまで届くほどの巨体が、床を砕いて跳躍した。
先ほどまで人の形をしていたはずの修道士が、明らかに“異形”へと進化している。
筋繊維が肥大化し、骨が突き出し、己の身体を引き裂くほどの力で突撃してきた。
「ッ……!」
コンラートは剣を構えて踏み込むが、一撃の衝撃が凄まじい。
ガキィィン!!
剣と異形の爪が激突し、火花を散らしながら両者が拮抗する。
「チッ……!どこまで化け物だ」
衝撃で石畳が砕け、粉塵が広間に立ち込める。
コンラートは歯を食いしばりながら、かろうじて斬撃を受け止めていた。
「ならば、雷で断つ!」
彼はそう宣言すると、剣を一気に振り払う。
バチバチッ……!
剣から放たれる雷光。金の瞳が鋭く輝き、周囲に電撃が走る。
「雷閃——!!」
青白い稲妻が、コンラートの剣を伝って異形の全身を焼いた。
血肉が焦げ、弾ける悪臭があたりを包む。
だが、それでもまだ動く。
皮膚の下で筋繊維が蠢き、黒い血が再生を繰り返そうとする。
「クソが……」
コンラートは歯ぎしりしながら次の一撃を構える。
そのとき、静かにミハエルが呟いた。
「清めてやるさ。せいぜい神に祈るんだな」
彼は懐から銀色の弾丸を取り出す。聖水を込めた、特別製の魔導弾だ。
「その奇跡ってやつは、結局誰のためだったんだ?」
狙いを定め、ゆっくりと引き金を引く。
カチリ──
そして閃光がほとばしる。
弾丸が異形の額を撃ち抜いた瞬間、蒸気が噴き出すように血が焼かれ、皮膚が音を立てて崩れ落ちる。
「グゥォォォォォ……ッ!!」
異形は凄まじい断末魔を上げながら身をよじる。
「今だ……!」
コンラートが雷光を纏う剣を握り直し、渾身の斬撃を叩き込む。
剣先が異形の肉を断ち、体内を稲妻が駆け巡る。
——最後の咆哮が、広間の空気を震わせた。
そして異形は力を失い、大きく崩れ落ちていく。
破壊された石畳の上、異形の残骸が黒い血を垂らしながら痙攣し、次第に微動を止める。
しかし。ただ一人、まだ生きている男がいた。
オルシエル修道院長、ダミアン・クラウス。
ミハエルとコンラートが振り返ると、ダミアンの瞳は狂気に染まっていた。
「ここまでの計画が成功したなら、私は中央の司祭席に招かれるはずだった……!」
ダミアンの声は上ずり、悔恨と恐怖と執着の入り混じった響きを帯びる。
「なのに、何故邪魔をする……!なぜ、神の奇跡を信じない……!」
広間の惨状の中、ただ一人取り残されるように立っていた男、オルシエル修道院院長──ダミアン・クラウス。
足元には崩れた石柱の破片や黒ずんだ血痕が散らばり、焦げた空気の匂いが鼻を刺す。
まるで、この場所だけが異世界と化したかのように、時間が歪んでいた。
「お前には聞きたいことがある」
ミハエルの声が低く響く。魔導銃を下ろしたまま、その青い瞳がダミアンを捉えている。
背後のコンラートは剣を構え、鋭い金の瞳で警戒を解かない。ほんの一瞬の隙も許されぬ空気が張り詰めていた。
ダミアンはわずかに目を伏せる。脳裏には、さきほど耳にしたあの声がこびりついていた——バルドからの警告。
「もう後はない。失敗すれば、消されるだけ……」
彼はその言葉を振り払うように、ポケットから取り出したガラス瓶を、高々と掲げた。
中の液体は黒々と澱んでおり、見るからに禍々しい輝きを宿している。
「何を——」
ミハエルが反応するより先に、ダミアンは一気に飲み干した。
ゴクリ……と、喉を鳴らしながら最後の一滴まで。
まるで陶酔するかのように、口の端を歪める。その顔には、狂気と絶望と微かな悦びが入り混じっていた。
「……おい」
ミハエルの眉がピクリと動く。
その瞬間、ダミアンの体がグチャリと音を立てた。
異変は、一気に始まる。
皮膚がボコボコと膨らみ、血管が破裂したように黒い筋が走る。筋繊維が爛れては再生し、形を保とうともがく。
ひび割れた肉の隙間から、ドロリとした漆黒の血液が流れ、床を濡らしていく。
その血は、滴った石畳をじわじわと腐食させ、まるで地獄の瘴気を広げるかのようだ。
「これが……神の力……」
ダミアンの声はすでに人のものではない。
喉が裂け、つぎはぎだらけの咆哮が強引に飛び出る。
ゴォォォン……!
骨が異常な角度で砕け、背中は裂けるように隆起する。両腕は人知を超えた大きさになり、爪先は黒曜石の刃のように尖る。
牙がむき出しになった口元からは、腐った息が溢れ出す。
異形の産声が広間を揺らす。
そのおぞましさに、ミハエルは舌打ちする。
「……過剰摂取だな。神の血を無理やり飲みやがって」
人を異形に変えてしまう、“神の血”の恐るべき力。
「……来るぞ!」
背後で構えていたコンラートが叫ぶや否や、ダミアンは地を蹴り、巨大な質量を伴ったジャンプで天井近くまで跳躍した。
床がバキッと大きく沈み込み、亀裂が走る。
その勢いでコンラートの頭上へ鋭い爪が襲いかかる。
ガキィィィン!!
コンラートは剣を振り上げて受け止めるが、その衝撃に石畳がさらに砕け散る。
両者が拮抗する刹那、異様な圧力がコンラートの腕を震わせる。
「チッ……!」
コンラートは剣を流すように弾き、なんとか体勢を取り戻す。
ミハエルは魔導銃を素早く構え、狙いを定めようとするが、怪物と化したダミアンの動きは想像以上に速い。
跳躍、着地、再び跳躍——不規則に移動しながら、凶悪な爪を振り下ろす。
「もうちょい動きを止めてくれ!」
ミハエルが低く叫ぶ。
コンラートは歯を食いしばり、剣を再度振り上げる。
異形の腕が横殴りに襲ってくる。
コンラートはその一撃を受け流し、反撃の一閃を放つが、斬られたはずの筋繊維がぐにゃりと再生し、まるで痛みを感じていない。
そのまま腕を大きく振りかぶる。
「……ならば」
コンラートは足を踏み込み、目にも止まらぬ速さで剣を振るう。
頑丈な皮膚を裂き、黒い血が噴き出すが、ダミアンの体は再び蠢き、形を取り戻そうとする。
「これじゃ埒があかねえ!」
ミハエルは狙いをつけづらそうに舌打ちしつつ、銃口をわずかに持ち上げる。
カチリ──
特製の魔導弾を装填し、銃身に魔法陣の光が浮かぶ。
バンッ!!
一発の光弾が、ダミアンの胸元を撃ち抜いた。
激しい咆哮とともに、黒い血と腐った肉が飛び散る。
しかし、それでも異形は止まらない。
塞がる弾痕。再生力が、人の域を超えている。
「……なら、これでどうだ」
ミハエルは落ち着いた声音で言うと、聖銀の弾丸を取り出し、再装填する。
「この弾はお前みたいな怪物を焼き尽くすためにあるんだぜ」
そう呟きながら、照準をダミアンの頭部へと合わせる。
コンラートも理解したのか、剣でダミアンの動きを制限しようと猛攻を仕掛ける。
――刃が異形の腕を叩き落とす。腐った肉が抉れ、ダミアンが一瞬だけ怯む。
「……撃て!」
コンラートが叫ぶ。
ミハエルは引き金を引いた。
バンッ──!!
閃光が走り、爆発的な光がダミアンの頭部を直撃する。
粉々に砕け散った頭部が、黒煙とともに霧消していく。
胴体は一瞬だけ痙攣し、虚ろにうめくような音を立てるが、やがて力を失い、崩れ落ちた。
荒い息をつくコンラートが、ゆっくりと剣を下ろす。
破壊された床に、ダミアン・クラウスの亡骸が沈む。その化け物じみた姿が、じわりと黒い血の沼に飲み込まれるようだった。
「……終わったな」
コンラートが肩で息をしながら言う。
その瞬間、天井からバキッ、バキバキ……と嫌な音が響く。
崩れ始めた柱と瓦礫が、赤い炎を纏いながら落下してくる。
「こりゃ、長居はできねえな」
ミハエルはダミアンの亡骸を一瞥し、かすかに唇を歪める。
「……神は、お前を救わなかったな」
その言葉だけを、燃え落ちる回廊に投げ捨てるように置いて、二人は撤退を始めた。
ゴォォォ……。
古びた修道院が火と瓦礫とともに沈んでいく。崩壊の轟音が闇にこだまする。
二人は足をかけながら、急ぎ扉の方へ走る。
背後で舞い散る火の粉が、まるでダミアンの野望の残骸を嘲笑うかのように、夜空へと消えていく。
こうして、計画にしがみついたダミアンの最期は、誰に弔われることもなく灰に沈んだ。
かつて彼が求めた中央司祭への道も、その執着ごと、黒い炎に抱かれて崩れ去った。
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