恋文の行方

えもやん

第1話 恋文の行方

雨上がりの空気は、澄み切った青と、濡れたアスファルトの黒が鮮やかに対照をなしていた。七月の陽射しは、まだ力強く、路面から立ち昇る蒸気は、まるで街全体が深い呼吸をしているかのようだった。


主人公、桐生蓮きりゅう れんは、そんな街角のカフェに腰掛けていた。窓際の席からは、行き交う人々の姿が、まるで映画のワンシーンのように見えた。彼は、薄くミルクの入ったカフェ・オ・レをゆっくりと啜りながら、目の前の封筒を見つめていた。


封筒には、見慣れた、けれど少し懐かしい筆跡で宛名が書かれていた。「桐生蓮様」と、丁寧に、そしてどこか控えめな字で。送り主は、高校時代の同級生、白河莉子しらかわ りこだった。


蓮と莉子は、高校時代、同じ演劇部に所属していた。彼女は、舞台の上では華麗な女優として輝き、彼は、裏方として彼女を支える存在だった。互いに惹かれ合う気持ちはあったものの、言葉にできずに卒業。それから三年、音信不通だった。


封筒を開けると、一枚の便箋が滑り落ちた。丁寧な字で綴られた手紙には、莉子の近況と、久しぶりに会いたいという切実な思いが綴られていた。三年ぶりの手紙。その言葉の一つ一つに、莉子の変化と、変わらぬ優しさが感じられた。


「蓮くん、元気にしてるかな?この手紙が届く頃には、きっと驚いているよね。突然でごめんね。実は、私、来週、東京で個展を開くことになったの。それで、どうしてもあなたに会いたくなって…」


手紙を読み終えた蓮は、カフェ・オ・レが冷めてしまったことに気づかなかった。温かい飲み物は、いつの間にか冷たく、そして少し苦くなっていた。三年という歳月は、彼の中で、莉子への想いを、静かに、しかし確実に温めていた。


莉子との思い出が、次々と彼の脳裏を駆け巡る。部室での笑い声、舞台裏での緊張感、そして、卒業式の日、彼女からもらった、小さな、白いバラ。そのバラは、今でも彼の書斎の机の上に、押し花として飾られていた。


「会いたい…」


蓮は、静かに呟いた。その言葉は、三年間の沈黙を破る、最初の言葉だった。彼は、莉子からの手紙をもう一度丁寧に折り畳み、胸ポケットにしまった。


カフェのドアが開き、新しい客が入ってきた。その客は、若い女性と、少し年配の男性だった。女性は、カフェ・オ・レを頼み、男性は、ブラックコーヒーを注文した。彼らの会話は、静かに、しかし熱を帯びていた。


蓮は、彼らの会話をぼんやりと聞きながら、自分の未来を想像した。莉子との再会。そして、三年間、胸に秘めていた想いを伝えること。それは、彼にとって、大きな、そして、少し怖い挑戦だった。


しかし、同時に、彼は、胸の中に、温かい光を感じていた。それは、希望の光だった。雨上がりの空のように、澄み切った、希望の光。


カフェの窓の外では、夕暮れが迫っていた。空は、オレンジ色に染まり始め、街の灯りが一つずつ点灯し始めた。蓮は、ゆっくりと立ち上がり、カフェを出た。


彼の足取りは、軽やかだった。まるで、これから始まる物語に、希望に満ち溢れているかのように。


彼は、莉子の個展の案内状を手に、駅へと向かった。


再会の約束は、来週の個展の最終日、閉館後。莉子は、個展会場近くの小さなイタリアンレストランを予約してくれたという。 蓮は、その言葉を反芻しながら、胸に込み上げてくる感情を抑えきれなかった。


喜びと、不安。そして、少しの、期待。


三年間、彼は莉子のことを忘れられずにいた。卒業後、地元を離れ、東京で就職した蓮は、忙しい日々の中で、時折、莉子のことを思い出しては、胸が締め付けられる思いをしていた。 演劇部の仲間たちとは、SNSを通して繋がっていたものの、莉子とは、どうしても連絡を取ることができなかった。プライド、そして、未練。様々な感情が、彼を動けなくさせていた。


莉子からの手紙は、そんな彼の心を揺さぶる、大きな出来事だった。 それは、単なる再会を促す手紙ではなかった。それは、彼女からの、彼への、切実なSOSでもあったように感じられた。手紙の端々から、彼女が抱えている悩みや葛藤が伝わってきた。


蓮は、再び胸ポケットから莉子からの手紙を取り出した。 そして、手紙と一緒に大切に保管していた、小さな白いバラの押し花を手に取った。 それは、卒業式の日に莉子が彼に贈ってくれたものだった。 その小さなバラには、彼女からの、そして、彼への、言葉にならない想いが込められていた。


「あの時、ちゃんと気持ちを伝えればよかった…」


蓮は、後悔の念に駆られた。 高校時代、彼は莉子に好意を抱いていた。 しかし、不器用な彼は、その気持ちをうまく表現することができなかった。 彼は、莉子に自分の気持ちを伝えるチャンスを何度も逃し、結果的に、彼女との距離を遠ざけてしまったのだ。


彼は、三年前の卒業式の日を思い出した。 卒業式の後、莉子は彼に、小さな白いバラと、一枚の便箋を手渡した。 便箋には、こう書かれていた。


「いつか、また会えるといいね。その時まで、お互い頑張ろうね。」


それは、まるで、彼ら二人のための、秘密の約束だった。 そして、その約束は、三年後の今日、ようやく叶えられようとしていた。


蓮は、深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。 彼は、この再会を、単なる懐かしい友人との再会として終わらせるつもりはなかった。 彼は、三年前の未練を解消し、そして、莉子に自分の本当の気持ちを伝えたいと思っていた。


しかし、同時に、彼は不安を感じていた。 三年間の空白期間。 莉子の気持ちは、変わっているかもしれない。 もしかしたら、彼は、彼女にとって、もはや過去の思い出に過ぎないのかもしれない。


そんな不安を抱えながらも、蓮は、莉子との再会を心待ちにしていた。 彼は、白いバラの押し花を、丁寧に胸ポケットにしまい込んだ。 それは、彼にとって、莉子との未来への希望の象徴だった。


彼は、明日の準備を始めた。 清潔なシャツを選び、髪を丁寧にセットした。 そして、久しぶりに、スーツを着てみた。 彼は、最高の状態で、莉子と再会したいと思っていた。


明日は、きっと、彼の人生にとって、特別な一日になるだろう。 彼は、そう確信しながら、静かに眠りについた。 そして、夢の中で、彼は再び、莉子と、高校時代の演劇部の舞台に立っていた。


***


約束の日、約束のレストランは、個展会場から歩いて五分ほどの場所にあった。こじんまりとした、しかし温かみのある雰囲気のイタリアンレストランで、窓からは街の夜景が美しく見えた。


蓮は、五分前に到着していた。予約時間よりも早く着きすぎてしまったため、窓際の席で、夜景を眺めながら莉子の到着を待っていた。 胸の高鳴りは、時間とともに増していくばかりだった。


そして、予約時間ちょうどに、莉子が現れた。


三年ぶりの再会。莉子は、以前よりもさらに美しくなっていた。 高校時代は、少し幼さが残っていた彼女の顔には、今は大人の女性の落ち着きと、芯の強さが感じられた。 しかし、彼女の瞳には、どこか寂しげな影も見て取れた。


「蓮くん…!」


莉子は、蓮を見て、少し驚いたような表情を見せた後、すぐに満面の笑みで彼に駆け寄ってきた。 その笑顔は、高校時代と全く変わっていなかった。 蓮は、思わず、彼女の笑顔に吸い込まれそうになった。


二人は、少しぎこちなく、しかし、温かい雰囲気の中で、言葉を交わし始めた。 近況報告、そして、高校時代の思い出話。 会話は、自然と、演劇部の活動へと移っていった。


「あの時、あの舞台で、もっとうまく演じられたら…」


莉子は、過去の舞台について、少し悔しそうに話した。 彼女の言葉には、女優としての、そして、一人の女性としての、葛藤が感じられた。


蓮は、莉子の言葉に耳を傾けながら、彼女の表情を 観察していた。 彼女の言葉の端々から、彼女が抱えている悩みや苦しみを感じ取れた。 それは、手紙に書かれていたこと以上に、深く、そして、複雑なものだった。


しかし、会話が進むにつれて、二人の間に、沈黙が訪れた。 それは、気まずい沈黙ではなく、お互いの気持ちを確かめ合うための、必要な沈黙だった。


沈黙の中で、蓮は、莉子に自分の気持ちを伝えようとした。 しかし、言葉は、彼の喉元で詰まってしまった。 三年前の未練、そして、今の不安。 様々な感情が、彼を押しつぶしそうだった。


莉子もまた、何かを言いかけたようだったが、結局、何も言わずに、静かにワイングラスを手に取った。


レストランのBGMは、静かで、落ち着いたジャズだった。 その音楽が、二人の沈黙を、さらに深く、そして、意味のあるものにしていた。


二人は、しばらくの間、何も言わずに、互いの顔を見つめ合った。 その視線の中には、言葉では言い表せないほどの、多くの感情が込められていた。 友情、愛情、そして、後悔。


やがて、莉子が口を開いた。


「蓮くん…あのね…実は、個展の作品、全部あなたのことなの」


一瞬、蓮は、言葉を失った。莉子の言葉の意味が、ゆっくりと彼の心に染み渡ってきた。個展のテーマは「記憶の欠片」。展示されている一つ一つの作品が、高校時代の蓮との思い出をモチーフに作られていたというのだ。


「あの時の、舞台裏でのあなたの姿とか…部室で寝落ちしてたあなたとか…卒業式の日の、あなたの横顔とか…」


莉子は、一つ一つの作品に込めた想いを、静かに語り始めた。彼女の言葉は、まるで、彼の過去の記憶を鮮やかに蘇らせる魔法のようだった。 展示作品の写真を、莉子は携帯で彼に見せてくれた。 どれもこれも、蓮にとっては、忘れかけていた、大切な思い出だった。


それらの作品には、蓮が気づかなかった、莉子の繊細な感情が細やかに表現されていた。 彼女の絵には、蓮への想いが、はっきりと、そして、美しく描かれていた。


「…ずっと、あなたのことが好きだった」


莉子の告白は、静かで、しかし、力強いものだった。 三年前、卒業式の日、彼女は彼に自分の気持ちを伝えようとしていた。 しかし、不器用な彼女は、その気持ちをうまく表現することができず、結局、何も言わずに、白いバラだけを手渡したのだった。


「あのバラは…告白だったの?」


蓮は、震える声で尋ねた。 三年前、彼が受け取っていた白いバラは、ただの友情の証ではなく、莉子からの、彼への、切ない告白だったのだ。


莉子は、うなずいた。 そして、涙を浮かべながら、続けた。


「あの時、ちゃんと伝えられなくて…ずっと後悔してた。でも、あなたと連絡が取れなくて…あなたはどう思ってるのか分からなくて…」


莉子の言葉に、蓮は、自分の未熟さを痛感した。 彼は、莉子の気持ちに気づかなかったばかりか、彼女に自分の気持ちを伝えることもできなかった。 彼は、彼女を傷つけてしまったのだ。


「僕も…ずっと、君のことが好きだった」


蓮は、ついに、自分の気持ちを口にした。 三年前、卒業式の日、彼は莉子に自分の気持ちを伝えるチャンスを何度も逃した。 しかし、彼は、彼女のことが、ずっと好きだったのだ。


二人は、互いの気持ちを確かめ合った。 それは、三年間の空白期間を一気に埋める、感動的な瞬間だった。 しかし、同時に、二人の間には、新たな問題が浮上した。


「でも…私、今、婚約してるの…」


莉子の言葉は、まるで、静かな雷鳴のようだった。 蓮は、言葉を失った。 彼は、莉子の幸せを心から願っていた。 しかし、同時に、自分の気持ちも、無視することができなかった。


莉子の告白、そして、彼女の婚約という事実。 喜びと悲しみ、希望と絶望が、彼の胸の中で激しくぶつかり合っていた。蓮は、複雑な感情に押しつぶされそうだった。


しばらくの間、二人は何も言わず、ただ互いの顔を見つめていた。 空気中には、張り詰めた緊張感が漂っていた。 しかし、その緊張感の中に、不思議な静けさも感じられた。 それは、二人の間に流れる、深い愛情と、切ない別れを予感させる静けさだった。


蓮は、莉子の婚約者について尋ねたくなった。 しかし、その言葉は、彼の喉元で止まった。 莉子の幸せを願う気持ちと、自分の気持ちを正直に伝えたいという気持ちの間で、彼は揺れていた。


「…彼のことは…好き?」


蓮は、やっとの思いで、その言葉を口にした。 それは、彼の素直な疑問であり、同時に、彼の最後の望みでもあった。


莉子は、少し考え込んだ後、静かに答えた。


「…好き…だと思う。でも…」


彼女の言葉は、そこで途切れた。 しかし、その言葉の端々から、彼女の心がまだ揺れていることが伝わってきた。 それは、蓮への未練、そして、現実との葛藤を表しているようだった。


「でも、彼のことは好きじゃない。あなたへの気持ちの方が強いのは、今でも変わらない」


莉子は、ついに、自分の本当の気持ちを打ち明けた。 彼女の言葉は、蓮の心を強く揺さぶった。 それは、彼の期待をはるかに超える、力強い告白だった。


しかし、同時に、それは、彼にとって、残酷な現実でもあった。 莉子は、すでに婚約している。 彼らが一緒にいることは、容易なことではない。


「…じゃあ、どうすればいいの?」


蓮は、絶望的な気持ちになりながらも、莉子に問いかけた。 彼は、彼女と一緒になりたいと願っていた。 しかし、彼女の婚約という現実を無視することはできなかった。


莉子は、しばらくの間、何も言わずに、目を伏せていた。 そして、ゆっくりと、顔を上げた。


「…時間が必要なの。彼と、そして、自分自身と、向き合う時間」


莉子の言葉は、決意に満ちていた。 それは、簡単な決断ではない。 しかし、彼女は、自分の気持ちに正直に生きようとしていた。


蓮は、莉子の決意を尊重することにした。 彼は、彼女に、自分の気持ちは変わらないことを伝えた。 そして、彼女が、自分の気持ちに正直になれるように、待つことを約束した。


レストランを出るとき、莉子は、蓮に小さな白いバラを一枚手渡した。 それは、三年前の卒業式の日、彼女が彼に贈ったバラと同じ、白いバラだった。


「…また、会えるよね?」


莉子の言葉は、かすかに震えていた。 しかし、その言葉には、希望が込められていた。 蓮は、彼女の手に自分の手を重ね、強く握り返した。


二人の未来は、まだ、不透明だった。 しかし、彼らは、互いの存在を確かめ合った。 そして、未来への希望を胸に、別々の道を歩み始めた。


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