第35話

 新しい依頼人は、時の人だった。

 時の人でも会ってみたいと思う人と会いたくない人がいるが、会いたくない方の人だった。


 時の人というより渦中の人と言うべきかもしれなかった。

 パワハラやおねだり気質を告発する文書が出たり、その人のせいで自殺した職員が何人もいたりと、この何ヵ月か世間を騒がせている某市の市長だ。

 あくまで某市の市長であり、今あなたが思い浮かべた人とは全く別の人物だ。本当に別人だからね? 深い意味とかないからね? 誹謗中傷とかでもないからね?


 渦中の人は、即辞任レベルの問題が連日次々と発覚しているというのに、まったく辞任する気配がないどころか、ニュース映像を観る限り、そもそも自分が悪いことをしたという認識すら持っていなかった。

 自己愛性パーソナリティ障害ではないかとネットでは言われていた。

 過大な自尊心と自信、過度な賞賛の欲求、共感の欠如といった特徴を示す人格障害だ。

 もちろん僕は医者じゃないし、ネットの人たちは知っている病名や障害を軽々しく使うから、彼が本当にそれに当たるのかどうかはわからない。

 つい先日、不信任案が全会一致で可決されたばかりで、この数日はやたらテレビ番組に出演し、数ヶ月以内に行われる市長選挙に再出馬するのではと言われている人物だった。


「再出馬はしませんよ。何故か私は日本中から嫌われてしまったようですからね。別人になって、別の市か県か、あるいは都か、初出馬するつもりです。国政に打って出るのも良いですね」


 彼はマスコミや視聴者はもちろん、僕のように嫌と言うほど成功者の裏の顔を見てきた僕の想像すらはるかに超えた存在だった。もちろん褒め言葉じゃない。

 市長ですら辞めざるを得なくなった人間が、何故そんなことになってしまったかすら理解していない人間が、名前や顔を変えただけで県知事や都知事になれると本気で考えているのだろうか。なれたとしても同じことになるだけだとは思わないのだろうか。


「今、私がテレビに出ているのは、マスコミや視聴者、ネットで私を非難し侮辱している有象無象の節穴のような目に『生前の私』の顔を焼き付けるためでしかありません。自殺者が出ているのは私のせいだと云われていますよね。道義的責任についてどう考えているのかと問われたりもしました。ですが、私には本当に質問の意味がわかりませんでした。だから、それがどういうものか知りたいと思ったのです。私が私への処遇に対し、私のせいで自殺したという元職員のように『死をもって抗議する』というわけです」


 彼は僕たちに焼身自殺を希望した。


「市議会議員や職員、マスコミや視聴者、ネットで私を非難し誹謗中傷を書き込んだ者たちの道義的責任を問うてみたいのです。別人となった私がその答えをご教授願おうというわけです」


 N市の栄にあるKITセレモニーの社内の会議室、大きなスクリーンに映し出された渦中の人は、何がおかしいのかニヤニヤと笑っていた。

 僕たちが依頼人とリモート会議でやりとりをすることは滅多になかった。様々な書類を確認してもらい、サインや印鑑をもらう必要があるためだ。

 しかし、今回だけは別だった。

 たった20メートル歩かされただけで職員を叱責するような人にわざわざ新幹線を使ってご足労願うわけにはいかなかったし、こちらもわざわざ足を運びたくはなかった。彼と対面で話したい人など、この国には今はひとりもいないだろう。


 会議室には、社長の鬼頭さんや副社長の赤堀さんだけでなく、ニンベン師の泊(とまり)さん、特殊メイク担当の追分(おいわけ)さん、ハッカーの小古曽(おごそ)くん、それから破魔矢さんと僕がいた。

 ここにいる全員がKITカンパニーの幹部になる。


 彼の話を聞きながら、これは僕の仕事ではないかもしれないと思った。

 もちろん破魔矢さんの仕事でもない。

 泊さんも追分さんも小古曽くんも仕事をする必要はなさそうだった。

 鬼頭さんは彼の依頼をもちろん受けるだろう。だが、この依頼のことは彼と僕たちしか知らないやりとりだ。

 このリモート会議も小古曽くんが作った専用のアプリで行っており、特殊なプログラムが組み込まれているため足がつかないようになっていた。


 彼にはお望み通り死をもって抗議してもらう。

 ただ、彼が顔や名前を変え、別人として生きていく未来はない。


 鬼頭さんならきっとそう判断すると僕は思った。



 僕は鬼頭さんたちと渦中の人に許可を取り、先に席を外させてもらうことにした。

 俺は元市長だぞ、と怒鳴られるかと思ったが、機嫌が良かったのか、そうはならなかった。

 破魔矢さんも僕についてきた。僕の服の袖をぎゅっと握った小さな手が少し震えていた。

 会議室を出た僕は「だいじょうぶ?」と彼女に訊ねた。


「だいじょうぶ……じゃないかも……」


 破魔矢さんは震えていただけじゃなく、顔色がとても悪かった。

 あの男のくだらない話を聞いているうちに、体調が悪くなってしまったのだ。

 彼女はずっと僕の後ろにいたから気付けなかった。もっと早く気づいて連れ出してあげたかった。


 僕は破魔矢さんを社内の廊下にある自販機のそばのベンチにまで連れていき、そこに座ってもらうことにした。

 自販機で温かいミルクティーを買い、彼女に渡した。

 ミルクティーが好きだと聞いたことがあったし、体調が悪いときは冷たいものより温かいものがいいと思ったからだ。冷たいものは自律神経を乱してしまうことがあるから、彼女の体調を悪化させてしまいかねない。

 破魔矢さんはミルクティーを二口ほど飲み、数分背もたれに身を委ねると、


「ありがとう。前に話したの、覚えててくれてたんだね」


 少し体調が回復したようだった。


 破魔矢さんとは、ここ最近メッセージや通話をほとんどしていなかった。


「僕だって破魔矢さんの婚約者になれるよね?」


 うっかり口を滑らせてしまったあの言葉のせいだった。

 王の血筋が破魔矢さんの婚約者に必要なステータスなのだとしたらという、あくまでも仮定の話だった。


 別に好きだとか付き合ってと言ったわけでもないのに、あれ以来なんだかメッセージを送るのが気まずくて、破魔矢さんから送られてきた時に短い返事を返すだけになってしまっていた。

 妹には「へたれ」と笑われていた。


「破魔矢さんが話してくれたことは、大体覚えてる、はず」


 ぎこちない口調で僕が言うと、彼女は顔を少し赤らめて「わたしもだよ」と言って恥ずかしそうにうつむいた。

 僕の顔もきっと真っ赤になっていたと思う。


「瀬名さんに、家まで送ってもらう?」


 彼女の体調を気にしてそう言ったのか、中学生や高校生のアオハルど真ん中みたいなこの状況から逃げ出したかったのか、口にした僕にもわからなかった。でもたぶん後者だろう。


「鬼頭さんや赤堀さんには僕からメッセージを送っておくしさ」


 破魔矢さんは僕の言葉にぶんぶんと首を横に振った。か細い首の上に乗っかった小さな頭が飛んでいってしまいそうだった。

 彼女は僕を見上げると、


「田中くんのおうちに行きたい」


 と言った。


 瀬名さんはいつもの霊柩車やそれが変形したリムジンもどきではなく、他の社員たちが使う社用車で僕たちを送ってくれた。

 僕は車にあまり詳しくないけど、日産の「ノートe-POWER」だと思う。CMでも見たことがあったからなんとなく覚えていた。色は副社長の赤堀さんが決めたため真っ赤で、僕たちはいつも「シャア専用」と呼んでいた。

 破魔矢さんはシートに身を預け、車窓から見える景色を眺めながら、


「あの人、同じ人間に見えなかった……」


 そう言った。その言葉に僕は全く同感だった。


「あんな人の、タナトーシスを、田中くんはするの?」


 僕は、首を横に振った。


「え? わたしが、するの?」


 僕はもう一度首を横に振る。


「じゃあ、誰が?」


 今頃、鬼頭さんたちはあの市長と具体的なスケジュールを決める打ち合わせをしていることだろう。書類の類いはすべてデータでやりとりするのだろう。対面かリモートかの違いこそあれ、前金の振り込みを確認するところまでは通常通りに行うはずだった。

 だが、そこからは違う。

 そのことを、破魔矢さんに話していいものかどうか、僕は少し悩んだ。

 彼女は何も知らされていないだろうということを、僕はなんとなくだけど知っていた。

 知っていたら、心優しい彼女がこの会社で働き続けていることはないはずだった。


「今回はたぶん、『タナトス』が動くよ」


 だけど、話しておくべきだろうと思った。彼女も僕と同じでKITセレモニーの設立メンバーで同じ幹部のひとりだったからだ。


「タナトス? タナトーシスじゃなくて?」


 彼女はやはり知らなかった。


「そう。タナトスだよ」


 それは、ギリシア神話に登場する、死そのものを神格化した神の名であり、同時にKITセレモニーに所属する、ある人物のエージェントネームでもあった。


「打ち合わせたスケジュールに合わせて、市長が焼身自殺をすることになった日、あの人は本当に焼身自殺をすることになるんだよ」


 僕がそう告げると、破魔矢さんは意味がわからないという顔をした。


「そうですよね? 瀬名さん」


 僕は車を運転するタナトスにそう声をかけた。

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