第1回議題『恋と愛とはなんでしょうか-②』

「…………私、恋と愛は別物だと思うの」


 チャイムの残響が失せる前、観念したのか俯きがちに缶ジュースに描かれたポップないちごのイラストをなぞっている。


 わたしもジュースのプルタブを起こす。りんごの、滴るくらいに瑞々しい、ほんのり甘ずっぱい匂いにむせ返りそうになる。


 ややあって四十内さんが語り始めた。


「ほら、"恋する"と"愛する"だと続く言葉は違うでしょう。恋する乙女、愛するあなた、なんて具合に」


 さらりとこういうことを言えるあたり、四十内さんもまた恋愛についてかなり考えている人間なのかもしれない。


 また随分と赤い。人一倍廉恥れんちの心が強い四十内さん。この生き恥が死に恥になりそうですらある。


「ほら、『恋に恋する』って言葉があるでしょう? あれって真理だと思うの。そんな独り善がりで頭をいっぱいにするのって、とっても空虚じゃないかしら」


 実は、四十内さんは時に辛辣。悪気はあんまりないと思うけど、聞く人が聞いたら戦争に発展するまであるだろう。案外、第三次世界大戦の引き金は、四十内さんのなんてことない一言かもしれない。


「恋は自分勝手なの。愛は、その……その人についてアレコレ思い巡らせてしまって、その人の好きな物もついつい気になっちゃうようなことなのかな、って」


 ここまで言い切るのが限界だったらしい。まるで火が出そうな顔を手で必死に覆い隠そうとしている四十内さん。りんごみたいで可愛いね、と言ったらド突かれるだろうか。


「うう、恥ずかしいわ……。八つ当たりしてやる! 忸怩じくじ忸怩じくじ! 」


「やめ、やめろ! あんたは効果音つけながらじゃれてくる男子中学生か! 」


 デュクシ。いまいち膾炙かいしゃした道筋がわからないけど、男子中高生の心を掴んでやまない魔性の言葉。


 けど良家の子女たる四十内さんにはピンと来ていないようだった。


 それはそれとして再び閑話休題。


「でもさ、恋から愛に発展することはないの? ありそうだけどなぁ」


 さらに言えば、世間口では友好から恋に発展するなんて街談巷語がいだんこうごまでもが囁かれている。


「緩利さん!そういう経験があるの!? 」


「いや! ないない! ないったらないから大声で風説を流布しないで! 」


 実は、四十内さんは結構耳年増。というか、こんな思春期全開のお話をしてる時点で大概だけど……。なにも先を越されたわけじゃないから、泣きそうな顔はやめてほしい。


「まったく、心臓が止まるかと思ったわ……。驚き慄き惨状の木よ」

「そんな木はないよ」


 惨状の木。一体どんな木だ。枯れ木か、或いは藁人形でも打ちつけられているのか。


 五徳にロウソク、五寸釘と金槌を手にした四十内さんをイメージしたところで、缶が目の前を通った。


 四十内さんはわりかし手癖が悪かったりする。だから、ほら。今しがた空き缶になったのを教室隅のゴミ箱へ向かって投げたんだ。しかも外す。


「でも、そのくらいの衝撃はあったわ。性事情とか色恋沙汰のイメージがない人から聞くその手の話ほど怖いものはないの」


 言い捨てるなり、席を立つ。


「あー、まぁ。両親とかがその筆頭だねぇ……」


 その手の人から性の匂いがするとかなりブルーになる。なんだろう、飼い猫がネズミを獲った瞬間を見てしまったような、獣性がこぼれたのを目の当たりにしたバツの悪さがある。


 そしてなぜか空き缶を手に戻ってきた四十内さん。再びシュート。そして外し、また拾いに歩く。……わたしは再放送でも見てるんだろうか。


「不思議なことは表と裏なのよね」


 と、空き缶拾いの道中でそんなことを呟く。めげないしょげない敢えない。もうそこで捨ててしまえばいいのに、四十内さんは意固地。


「表と裏? 」


「えぇ。みだりにそういうお話をしてはいけない──あまつさえ行為自体を禁止しているような風潮もあるで、しょっ? 」


 力んで放られた缶はゴミ箱の縁に弾かれ、わたしたちの足下まで転がってきた。四十内さんは空き缶を拾い上げたが、投げようとはしない。ようやく投げ入れるのを諦めたようだ。


 小学校の頃は節操なくシモの話を触れ回ってた男子も、中学にあがる頃には表向きはエロをひた隠しにする。弟のアレコレを暴いた姉として、この見立ては当たっていると断言できる。


「でも、成人するまでにはそういうことを済ませていなければ、何かしら問題があると見られてしまう」


 恋愛経験のなさに向けられる軽侮けいぶの視線には性差がない、気がする。大っぴらに語られることがない日陰の話題だからこそ、白日に晒されていないけど。


「まぁ、普通の人が人並みに生きていれば人並みに経験はするだろうね……」

「緩利さん! やっぱりそういう経験が――! 」

「ないですって! みんなにあってもわたしは皆無です! 異常者で異端です! 」


 この三十分で四十内さんが厄介な一芸に目覚めてしまった。


「と、戯れはこのくらいにして」


 やっとのことで、目の端をうろうろしていた四十内さんが目の前へ戻ってきた。


「戯れなら戯言でやり過ごしたかったよ……」


 なぜ(誰も居ないとはいえ)教室内で経験の無さを暴露しなければならなかったのか。


 天を仰ぐも、まだらに染まり白絣しろがすりめいた天井があるだけで靄は晴れない。だからどうした、りんごジュースを飲み干した。


「ほら、恋愛でマウントを取ってくる人とかも居たじゃない。そういう人を見ると、色々と思うところがあったの」


「……あ、居たねぇ。『秋風よりも速く青春を駆け抜ける』って言い捨てて学校辞めた赤須賀さん」


 そういえば『扇が必要とされるのは夏だけど、手元に置かれるのは春』と言ったのも赤須賀さんだった。恋に恋するというほど盲目じゃなかったけど、無作為に恋するくらいに向こう見ずだった。


「そう、赤須賀あかすがいやしさん。五歳も離れた彼氏を連れて校長に自主退学を突きつけた、名前の通り卑しかった人……」


「まさか小学生に手を出すとはね……」


 当時、赤須賀さん(15歳)。佐原くん(10歳)の話である。あの人の話は込み入ってしまうので、これ以上は割愛。


「ともかく、今まで秘するが美徳とされていたものが、どこでさかしまな冠になるのかが気になったの」


「"逆しまな冠"かぁ……」


 逆しまというかさかしらというか、興味深い話ではある。たしかに、どこか蓋をし続けてた性のアレコレは、ふとした拍子に裏返るようなイメージ。


 けど、そもそもが違うのかもしれない。"裏返る"なんて言うけど、ずっと世間や集団の圧に屈しているだけなのかも。少年少女の頃は純真無垢であることを望まれ、大人になるなり経験済みであることを求められる。そこに当事者の意思は入っていないようにも見える。


 それだと、逆しまな冠をして偉ぶっているような論調は成り立たない。ただ、言いたいことも言えない世の中ってだけだしね。手枷足枷で身動みじろぎできないのに冠を戴いてても間抜けというか、憐憫れんびんさえ抱かせる。


「というか、赤須賀さんは別の理由で手枷案件かもしれないな。冷たくて頑丈なヤツ、を」


 空にした缶を放ると、見事にゴミ箱へ吸い込まれていった。


 件の赤須賀いやしインパクト時、どうせ誰かがすると思って通報していなかった。今からでも警察に相談すべきだろうか。


「あら、緩利さん。恋愛に年齢、タブーを持ち出してしまう人? 」


 頬杖をして顔を綻ばせる四十内さん。グッと距離が近づいた。


 射るような視線から逃げるように、のけ反って見上げる。首か背中のあたりが軋みをあげる。


「あー、特別にタブーは設けてないけど、ね。公序良俗とか人の目はそれなりに気にする、かなぁ? 」


「……そう。緩利さんにいい人が出来るのはいつになるのかしら」


「うん? もしかして心配されてる? 」


 まさか四十内さんには既に約束された相手が居て、遙か高みから語りかけていた……? 射竦める両目の飛箭ひせんはずいぶんと上から射掛けられていたらしい。


「まさか。緩利さんほどの社交性があるなら心配は無用でしょう? 」


 嫌味かな、と思ったけど違う。四十内さんは校区外に出まいと回り道はすれど、悪意は最短距離でぶつける。空き缶はともかく、悪口はストレートに投げる人なのだ。


「それに、緩利さん太ももは太いけど他は細いもの。好きな人は多いと思うわ」

 こんな風にね。


「ま、四十内さんみたいな美人さんから褒められるのは嬉しいよ。くすぐったいけどね」


「……すぐそうやって返せるのが人気の秘訣なのかしら」


 そっぽを向かれてしまった。思ったより反応がつまらなくて、拗ねてしまっただろうか。


 カチカチという秒針に急かされ、長針がそこまで迫ったギロチンに思える。


「四十内さんにはある? そういう色恋に関するタブー」


「ないわ。嫌悪感を感じるような類いはあるけれど、別に私がルールじゃないもの」


 断頭の前に喉からこぼれた問いはすぐに返された。直後、カチと一際大きな音が鳴った。長針が私の首を刎ね飛ばした心地だ。


 四十内さん、ルールに厳しいというよりは自分に厳しいお方。他人にそこまで頓着しないので、ルールを押しつけない。ただ彼女の側が退くだけだ。


「あ、タブーってほどじゃないけど、名前呼び苦手かも」


 生首を拾い上げるゾンビ緩利沙咲。まだ死に体ととるか、もう死にたいととるかは人によるかも。


「あら、意外ね。普通は名前で呼ばれるほうが好ましく思いそうだけど」


「うんにゃ、特には。自己紹介の時にも言ったけど、沙咲って名前だから仲良い人から呼ばれても距離感じちゃってね」


 サキちゃん、というあだ名もあったが、別のサキちゃんとの混同もありすぐに立ち消えた。佐々木さんは他にいたが、まぁ女子連中というのは大抵が名前呼びなので。


 結局はわたしよりも"サキちゃん"のほうが優先されたというだけの話なのだ。優先順位として押し出された。これがあまり馴染めない決め手というか、決まり手というか。


 別にわたしを優先して欲しいとかではない。クラスの女子はサキちゃんにあだ名を付けることもできた。それをせずに名前呼びに準じた。だからわたしも深くは踏み込まない。ただ、それまでの話。


 やおら立ち上がる四十内さん。とうに活動終了のチャイムもなっていたので、わたしとのお話に付き合ってくれていたのだろう。


 このタイミングで打ち切りにする優しい子だ。


「そういえば、四十内さんは何で緩利って呼んでくれるの? 初対面の頃からそうだよね」


 画材を片しながら独り言のようにこぼす。顔を上げると、四十内さんは窓の方を、暮れていく陽を見ていた。


「そんなの決まってるじゃない」


 振り返った四十内さんは、夕陽を背にしていて表情が読めない。


 でも。


「他の人と違う、特別な呼び方がしたかっただけよ」


 実は、こんな彼女が好きだったりする。


 気に入った獲物を枝に刺しておく百舌の感情。百合ほど純潔でなく、無垢にあらず、威厳は元よりない。


 今回の議決『百舌もず百合ゆりには程遠い』

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