小川

あぷちろ

桜河

 薄く溶けるような春の風が私の頬を撫ぜた。

 嗚咽がその辺、一帯から漏れ聞こえる。私はどこか醒めた感情ですすり泣く級友の背姿とそれを慰める卒業生を眺めていた。

 また、稍々。憂い残る祝辞と晴ればれしくも憂愁な謝辞が交わされる。

 背にするソメイヨシノの樹から淡く湿り気を帯びた桜の残り香がふわり、漂う。

 昨日の夜まで降り続いていた雨雲はその姿をなくし、麗らかな陽光が彼女たちの別れと旅立ちを祝福している。

 対照的に、桜の樹からはほとんどの花ビラがふるい落とされて、寒々しい姿をさらしていた。

 代わりに、まばらに乾いた石畳の上に桜の花びらがカーテンコールの終わった舞台上のように散らばっている。それは一面の絨毯のようで踏み荒らすことに忌避感を覚えた。

 花の川岸を挟んだ向こう側で繰り広げられる別れの物語は、まさに物語といった風情でどうにも現実感がない。友人たちは向こう川岸で心を割き、憧れとの離別を惜しむ。

 それが正しくある姿だろう。

 私はこちらに留まり、一歩を踏み出せないでいた。一歩、小川を跨ぎ彼女たちの元へ駆けよれば、私のこの乾いた瞳から涙を落とすことができるだろうか?

 泥濘に足をとられ縫い付けられたように動けない。もう、この日を逃せば二度と逢うことすら出来ないというのに――、

 ――怖いのだ。

 

 ああ、この場に来なければよかった。

 嗚呼、私が煩わしい。


 何もできないまま空を仰ぎ見ると、どこからか飛んできた雫が額をうった。

 反射的に頭を振る。どこから飛んできたのだろうと首を傾げれば、背後にある桜の枝の一本だけ、私の上に突き出ていた。

 先端から昨日に降った雨の余韻が落ちてきたのだろう。

 私は指先で額を拭うと、ひんやりとした感触が指につたう。

 顎先に水滴が這うような感じがして、手の甲で拭い損ねた雨粒をひろいあげる。

 今度は冷たくなかった。

 そこでふと、自分の足が動くことに気づいた。

 唖、と口から声が漏れ出る。気づけばなんて事ない迷いであったとわかるのだ。

 一歩、隔てる花弁の小川に足首を浸す。なんてことのない深さだ。

 私は一息吸って、彼女にかけよった。

 みんならしく、涙をながそう。

 

 憧れをあこがれのままにするのはいつでもできる。

 桜の枝さきには新芽がひとつ。遅咲きのつぼみがひとつ。

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小川 あぷちろ @aputiro

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