桃源郷

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 夜が明けるとともに、尹牧使はいつものように官舎の庭に出て海辺の方を眺める。

 浜辺では、帰って来た漁舟を出迎えに多くの人々で賑わっていることだろう。

 花の季節は既に過ぎ、山々は新緑に染まっている。何処からか鳥の声も聞こえる。

 この地に来て既に数年の歳月が過ぎた。

 赴任時はちょうど今頃の季節だった。風景画そのままの景色に、「桃源郷とはまさにここではないか」と思ったほどだ。

 都にいた頃、日々の暮らしに疲れ、“自然豊かなところに行き、晴耕雨読の暮らしが出来ればどれほどいいだろうか”と考えたものである。隠者の生活に憧れていたのだった。

 それが今、思いがけなく叶ったのだった。


 午前中、仕事が終わる頃になると、毎日のようにやって来る男がいた。

 かつて図画署に勤めていたとかいう金という人物だった。 

彼は官舎裏の牧使の住居に来ては詩文や書物についての話をする。

 この村は、殆どが農家と漁業の家で、士人階級の人間はいなかった。官衙には彼と同等の中人階級である吏員がいるが、彼らとは話が合わないそうだ。それゆえ、そうした素養のある牧使を訪ねるようである。話し相手が欲しいのだろう。

 金氏の一族は商売で当ててたいそう豊かだそうである。経済的な余裕があるので、都の生活に飽きたといって自然豊かなこの地に移住できたのである。

「尹大人、完成しましたよ」

 いつものように訪ねてきた金氏は牧使の前に絵を広げた。

この地の風景を描いたものだった。

「花が満開ということは、春の風景か?」

「はい、こちらが夏の風景で…」

 金氏は次から次へと絵を広げてみせた。どれも見事なものだった。

「まったく、桃源郷の四季といった感じだな」

 牧使が感嘆しながら言うと

「はい、古詩に出てくる桃源郷とはこのような風景かも知れませんね」

と金氏は応じた。そして続けた。

「俺もそうですが、詩文を好む者はこのような場所に暮らすことに憧れます。それゆえ、偶然、この地を訪れた時はすっかり気に入って都を引き払いここに来たのです」

「私もこの地に来た時は良き地だと思った」

「だが、大人はここに安住したいとは思ってらっしゃらないでしょう」

 牧使は答えられなかった。確かにこの地は好きだが、自分は金氏のように好んでこの地に来たのではなかった。朝廷での勢力争いに破れ左遷のような形で赴任して来たのだから。

「大人は、今も都のことが気になってらっしゃるのでしょう。それは、大人が国や民のことをきちんと考えている本物の士大夫だからですよ」

 金氏がいつになく真面目くさく言ったので、牧使は

「それは過大評価というものだよ」

と苦笑してしまった。


 それから暫く経った頃、牧使のもとに都に戻るよう国王直々の命令が届いた。

「これで、大人が本来居るべきところに戻ったといえるでしょう」

 金氏は我がことのように喜んでくれた。そして、

「桃源郷が恋しくなった時はいつでもお越し下さい。俺が生きている間であれば、いつでも歓待しますよ」

と言って送り出してくれた。

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桃源郷 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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