もうひとりの怪物
その時、徹は違う反応をした。立ち上がり、ぱっと動く。
歩き出していた桐山に追いつき、肩を押さえた。
「待て待て。桐山、帰るな。せっかく来てくれたんだ。それによう、ここで帰ったら三村の顔を潰すことになるぞ。いいのか?」
三村という名前を聞いた途端、桐山の表情が僅かに変化した。立ち止まり、振り向く。
「それ言われると弱いのん」
いかにも不満そうな表情ではあるが、向きを変え戻ってきた。一方、徹は矢部に向かい口を開く。
「矢部っちよう、今どっちか選んでくれって言ったな? だったら、ステゴロで選ぶ。桐山とやってくれ。勝った方を選ぶ」
その途端、皆がざわめいた。当の矢部はといえば、呆れた様子でかぶりを振る。
「おい、あんた何を言ってるんだ? そんなもん、勝負にもならない。本気でやったら、このチビが大怪我するぞ」
「構わない。矢部っちの言うように、どっちか選ぶと言ってんだよ。お前がプロだというなら、まずは俺の指示通り桐山をぶっ飛ばして見せてくれ。そうしたら、桐山を外す。骨の二本や三本、へし折っても構わねえ」
「本当にいいのか? 骨折じゃ済まないことになるかもしれねえぞ」
矢部の表情は真剣である。この男は、ルールのないステゴロの恐さを知り尽くしているのだ。本気でやり合えば、殺す気がなくても死に至らしめることはある。チンピラ同士の喧嘩でも、ちょっとしたアクシデントにより死んでしまうケースは少なくないのだ。
だが、徹は動じていない。
「いいよ。棺桶逝きにしても構わねえ。後の始末は俺がやってやる」
そう言うと、徹は桐山の方を向いた。
「桐山、お前もだ」
「あんまし、やる気ないのんな。本当、面倒だにゃ」
言葉の通り、やる気は欠片ほども感じられない。怯えているからではなく、単純に面倒くさがっているように見えた。
「いいからやれや。頼むぜ」
徹はといえば、ニヤニヤ笑っている。彼にしてみれば、これから品定めの時間なのだ。楽しみで仕方ない、という表情を浮かべていた。
たき火の明かりで照らされる中、桐山と矢部は向かい合った。両者の間の距離は、五メートルほど離れている。まるで、格闘技の試合のようである。
矢部が、両拳を挙げ構える。その顔からは、確かな自信が感じられた。だが、桐山を侮るような素振りはない。
一方の桐山は、リラックスしきった様子だ。腕をだらりと下げ、自然体で矢部に視線を向けている。巨体の矢部を恐れる様子はない。
体格差は歴然としている。身長で三十センチほど、体重にいたっては三十キロ……いや、それ以上の差があるだろう。
格闘技の世界では、今や体重制が当たり前になっている。ボクシングの世界では、六十キロの世界チャンピオンより百キロの四回戦ボーイの方が強い。どんなに優れた格闘技術も、圧倒的な体格差の前には意味を持たない。恵まれた体格も、才能のひとつなのだ。
まして、矢部は素人ではない。自衛隊に入隊し、十年以上のキャリアがある。所属していた部隊では、それなりの地位にいた。しかし部下に対する暴行とパワハラがマスコミにより暴かれ、依願退職させられてしまう。
その後、紆余曲折を経て裏の世界に入ってきた。普段は裏の世界でのボディーガードや、人をさらったり痛め付けたりといった分野の仕事をしている。徒手格闘の腕も、プロレベルという噂だ。
彼の勝ちは揺るがない……周囲にいる者のほとんどが、そう思っていた。しかし、その予想は大きく裏切られる。
先に動いたのは、桐山だった。ふわりとした独特の動きである。あまりにも自然で、殺気はおろか余分な力みすら全く感じられない。まるでテレポートしたかのようであった。
そして、瞬時に矢部の懐へと入り込んでいたのである。ここまで接近されると、大柄な矢部としては効果的なパンチやキックを放てない。完全に桐山の間合いだ──
矢部の表情が強張る。予想していなかった展開に、一瞬ではあるが戸惑った。だが、彼とて数々の修羅場をくぐってきた男だ。この間合いで、何をすればいいかはわかっていた。横殴りの肘打ちが、桐山の顔めがけ放たれる。
桐山は、パッとしゃがみ込んだ。頭上を、肘打ちが通り過ぎる。
次の瞬間、桐山は飛んだ。同時に、矢部のみぞおちに左前蹴りを叩き込む──
矢部の顔が、苦痛で歪む。蹴りの衝撃で、体がくの字に曲がっていた。通常、三十キロ以上の体格差があれば、殴ろうが蹴ろうがびくともしないはずだ。しかし、桐山の蹴りは勝手が違っていた。時速百六十キロで飛んできたボールを、まともに食らったような威力だ。
しかも、攻撃は終わっていなかった。左足がみぞおちをえぐるのとほぼ同時に、今度は右足が放たれる。矢部の顔面を、弾丸のような速さの飛び回し蹴りが打ち抜いた──
その蹴りもまた、凄まじい威力であった。プロ野球選手が、バットでフルスイングしたような衝撃力である。矢部の下顎は砕け、前歯が飛び散った。顔の下半分は、完全に崩壊しただろう。当然、脳の方も無事には済まない。蹴りにより脳が揺らされ、意識が保てなくなる。
一瞬遅れて、矢部の巨体がぐらりと揺れた。直後、切り倒された大木のような勢いでばたりと倒れる。
異様な空気が、その場を支配していた。矢部は、集められた者たちの間でも一目置かれる存在だ。元自衛官という経歴もさることながら、仕事に対するストイックな姿勢は裏の世界でも知られていた。
今回の仕事でも、リーダー格として仕切るはずだった矢部……そんな男が今、顔面を砕かれ地面に倒れている。それも、百六十センチもないような小柄な少年に、まばたきする間にノックアウトされてしまったのだ。
そんなことをしでかした桐山はといえば、鼻の穴に小指を突っ込んでいる。呼吸は乱れていないし、顔色も変化はない。通行に邪魔なものを片付けた、そんな雰囲気だ。
鼻をほじりながら、ボソッと呟いた。
「この人、早く病院連れてった方がいいのん。ほっといたら、顔面バーンのまま治らないかもしんないのにゃ」
その言葉に反応したのは竹内だ。
「ああ、そうだな。飯嶋、早く病院連れてってやれ」
「は、はい」
飯嶋が慌てて返事し、矢部の体を起こそうとした。しかし、巨体をもてあまし気味だ。
すると、桐山が口を開いた。
「いいよ。僕ちんが運ぶのんな」
言った直後、ひょいと矢部の体を担ぎ上げる。百キロ近い巨体を軽々と背負い、車に運び込む。小さな細身の体からは、想像もつかない腕力だ。
その姿を見た竹内は、ニヤリと笑う。
「ショーは終わりだ。病院送りになった矢部っちには悪いが、俺の言うことを聞かなかった報いと思って病室で反省してもらおう。飯島、悪いが矢部っちを病院まで運んでくれ。治療費くらいは払ってやろう」
言われた飯島は、無言で頷き車へと歩いていく。一方、徹は他の者たちへと視線を移す。
「他の連中は明日、俺と一緒に御手洗村に行く。行って、誘拐された娘と孫を連れ戻すんだ。いいな?」
その言葉に、皆は頷く。すると、桐山が首を傾げた。
「で、僕ちんは何すりゃいいのん?」
緊張感がまるで感じられない、のんびりとした声である。先ほど、見事な闘いをやってのけた男と同一人物とは思えない。徹は苦笑しつつ答えた。
「お前は……とりあえず、ひとりで動け。杏奈と可憐を見つけたら、縛ってでもいいから連れてこい。ただし、怪我はさせるな。他の村人に会ったら、ぶっ飛ばしておねんねさせとけ。場合によっちゃあ、ひとりやふたり
「オッケー農場」
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