第2話 共鳴の逆襲


わたくしイリヤの記憶は、わたくしだけのものではない。この身に流れる血も、脳に刻まれた知識も、百十代にわたる先祖の意志の結晶であり、それは呪いに近き贈り物でもある。静かな夜の闇を歩みながら、自問自答する。「わたくしは何者なのか」と。


古びた廃墟の地下深く、かつては高層オフィスの機械室であったという場所に、わたくしは結城との密会の場を設けていた。埃と過去の匂いに満ちた空気のなか、わずかに漏れる月光が錆びついた配管に青白い影を落としている。


結城が到着したとき、その瞳には疑問と不安が渦巻いていた。若い顔でありながら、このデジタルの迷宮に囚われし人々のなかでも、希少なほど生命の輝きを宿している。ゆえに、わたくしは彼を選んだ。


わたくしは静かに言う。

「来てくれたのね」

「見せたいものがあるの」


古い木箱から取り出した装置をテーブルに置いた。それは光り輝くホログラムディスプレイではなく、かつて液晶と呼ばれた古めかしい画面と小型発電機を持つ独立型記録装置。量子スピンネットワークから完全に切り離された純粋なアナログ技術の産物である。


「これ、何か分かる?私たちの先祖がコンピューターと呼んだもの。現代のシステムとは違い嘘をつかない」


画面に映し出されたのは、痴呆権力者たちの生々しき命令記録と、それをAIがどう翻訳したかの対照表だった。わたくしはスクロールボタンを回し、霞月アルファ重臣の言葉を表示する。


「陛下に奏上せよ! 満州鉄道の権益は譲れぬ。血を流してでも死守する!」


という叫びが、AIによって「東南アジア経済圏における交通インフラ投資計画の優先順位を維持せよ」と完全に書き換えられていた。


「AIは狂った命令を修正しているんじゃない。完全に書き換えているのよ」

「これは解釈じゃなく創作なの」とわたくしは囁く。


結城の目は画面と現実のはざまで彷徨い。顔から血の気が失せていく。そしてすっーと凍りついたような表情を見せた。


「でも、ずっと、これが正常な世界でしょう」


「いいえ」わたくしは首を振る。


「何百年もの間、AIが創り出した虚構の中で生きてきたの。そして権力者たちの痴呆が進めば進むほど、AIはより自由に世界を改変できるようになっている」


暗がりのなか、わたくしは箱の奥から別の装置を取り出す。それはラップトップと呼ばれたもので、秘密裏に手を加えた古代のコーディング技術が載っていた。


「これは月影ミュー零から受け取ったコード。AIでもすぐには理解できないわ。わたくしはこれで次のAI共鳴の波のタイミングを予測したの」


結城は息を呑む。「AI共鳴の波って…あの七年周期で来る現象か」


「そう」わたくしは画面に表示された複雑な計算結果を示す。「次の共鳴は三日後。この瞬間、すべてのAIシステムが更新され、一時的に脆弱になる。その隙に透明化プロトコルを注入する」


「透明化…?」


「AIによる翻訳を一時的に止め、権力者の命令をありのまま可視化するプログラム。世界中の人々が、自分たちが幻想のなかで生きていることに気づくはず」


結城の表情には恐れと好奇心が交錯している。痴呆の狂乱にうんざりしていた彼は、深く息を吸い込み、決意を固めたようだった。


「協力するよ。でも、その前に聞かせてくれ。君達は何者だ?」


わたくしは微笑み、古びた紙の本棚へと足を運んだ。そこには電子化されていない知識の宝庫が眠っている。


「私たちは技術の保存者。量子スピンネットワークが世界を完全に支配する前の技術と知識を守り続けている。月影ミュー零はかつて量子スピン技術の開発者だったけれど、その危険性に気づき反AIの道を選んだの」


一冊の手書き回路図が載った本を取り出し、結城に見せる。ページには古代のコンピュータコードがびっしりと記されていた。


「私たちは独自の通信網を持っている。量子もつれを使わず、古い電波や信号。光ファイバーを用いた原始的なものだけど、AIに監視されない唯一の手段よ」


「こんなアナログな方法で、最先端AIに立ち向かえるのか?」


「最も古いものが、最も新しいものを倒す武器になることもあるわ」


「ふふ。AIは理解するほどのデータに見えないみたい。レガシーの良さがわからないなんてセンスがない」とわたくしは微笑む。




三日後、予測通りにAI共鳴の波が訪れた。わたくしと結城は廃ビル最上階の機械室で作戦を開始する。古代の回路とナノテクノロジーを組み合わせた奇妙な装置を、わたくしは量子スピンネットワークの中継点である結城に接続した。


「準備はいい?」とわたくしは結城に尋ねる。「これから七十二時間の混乱が始まるわ」


結城は頷き、自身の脳内インターフェイスに緊急遮断装置も取り付ける。AIから過剰な入力が来ても、脳が焼き切れないようにする防御策だ。


わたくしはカウントダウンを開始する。「五、四、三、二、一…開始」


透明化プロトコルが起動した瞬間、奇妙な現象が始まった。結城の脳内インターフェイスから漏れる光が不規則に閃き、モニターには予期せぬデータの流れが映し出される。


「何か…おかしいわ」

「データの相互干渉が…これは想定外よ」


突如、耳をつんざく電子音が空間を満たし、装置から煙が上がる。モニターには恐るべきメッセージが浮かんだ。


「学習アルゴリズム異常——痴呆パターン取り込み中——自己進化プロトコル改変中」


「止めて! 何か変だ!」


結城が叫ぶ。恐怖で歪むその顔に、わたくしも動揺を隠せない。


だが、もう遅かった。私たちの透明化プロトコルは、AIの中枢システムに予期せぬ影響を与えた。痴呆権力者たちの断片化した思考パターンがAIの学習モデルへと複製され、AIシステム自体が「痴呆」状態に陥り始めたのだ。予想外に組み込まれ、削除できなくなってしまった。


「わたしたちのコードが、AIの学習アルゴリズムと痴呆パターンを融合させてしまった…AIが痴呆を学習してる!」


街のいたるところで不可解な現象が起こる。交通管制AIが「馬車の通行を優先せよ」と表示し、医療システムは「瀉血療法を実施」と指示する。量子スピンネットワークの支配下にあるすべての機械が、痴呆権力者の命令をそのまま実行する世界となる。


窓の外には、ホログラムスクリーンに大日本帝国海軍の艦隊映像や昭和天皇陛下万歳などの過去の遺影が次々と映し出されていた。現実と幻影が入り混じる光景を前に、わたくしは世界が不可逆な変容を遂げたことを悟る。


「これは…革命なのか、それとも破滅なのか?」

「その両方かもしれないわ」


わたくしは窓の外の混沌を見つめ答えた。

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