09.竜と竜

 今ここで竜になれば、はっきりとレガルスの顔が見られてしまう。竜はあっちへ飛んで行った、なんてごまかしはもうできない。確実に、レガルス自身が追われる身になってしまう。ここに住むことはできなくなる。

 最悪、殺されてしまう。

「こ、こんばんは。あの……俺、ちょっと急いでるんで」

 湖のそばで火を起こそうとしているくせに、急いでいるもない。

 だが、レガルスは本当に急いでいた。

 今すぐにここから離れなければ、取り返しの付かないことになってしまう。六時まで、あとわずかだ。

 レガルスは、そこから走り出そうとした。

「あ、待って。きみに話があるんだ」

 逃げようとするレガルスの手を、すかさず青年が掴んだ。細いのに、力が強い。レガルスはその場から動けなくなってしまう。

 仕事上、レガルスの腕力はそれなりに強い。見た目だけなら、あっさりとその手を振りほどけるはずなのに。

 そうしようとしても、青年の手はぴくりともしないのだ。

「ちょっ……話なら、明日の朝にしてください。俺、本当に今は困るんで」

「うん、知ってるよ」

 まるで予想しなかった反応をする青年に、レガルスは戸惑う。

「知ってるって……」

 何を知っているのか聞き返そうとしたが、レガルスは言葉が続かない。身体の中が熱くなってきたのだ。

 もうダメだ。どこへ逃げても、今からじゃ隠れられない。竜の姿を見られる。どうしてこんな……。

 自分の置かれた状況の理不尽さに、レガルスは涙が浮かんできた。口からは、身体の中の熱さに耐えられずに出た咆吼。

 本当なら、布を口の中へ詰め込み、湖の中に顔を突っ込んで声が少しでももれないようにする、はずだったのに。

 次の瞬間には、竜に変わってしまった自分の身体があった。

 先月、ハンターに襲われた恐怖が、レガルスの中によみがえる。

 動けないように傷付けるか、すぐに殺す気か。

 どちらにしろ、レガルスは命を狙われた。矢が自分のそばをかすめた恐怖は、今も忘れられない。

 腕が太くなったために、青年の手はレガルスの腕を掴み切れずに離れている。とにかく今のうちに逃げようと、レガルスは後も見ずに翼を羽ばたかせた。

 今ここにいるのは、青年一人。だが、彼が誰かに話せば、数時間後には街の人間総動員か、と思うレベルの人数がこの周辺へやって来るだろう。

 もしくは、危険だからと規制され、ハンターのような人間だけ、つまり少数精鋭で来るかだ。

 人間の姿に戻れたところで、カロ湖周辺にはもういられない。とにかく、ここを離れなければ殺される。

 必死に羽ばたいたからか、先月よりも早くレガルスの身体が浮き上がった。どこでもいいから、このまま飛んで逃げるしかない。

 だが、人間の時の身長より少し高い所まで浮かんだレガルスの身体は、それ以上動かなくなった。

 どんなに翼を動かしても、高度はそのまま。完全に滞空してしまっている。どこかへ飛んで逃げる、という以前の話だ。

「落ち着いて。ぼくは敵じゃないよ」

 レガルスが首を後ろへ向けると、青年が手を伸ばしている。その手が伸びる方向を目で追って行くと、自分の右脚へと続いていた。

 うそだろっ。竜になった俺の脚、掴んで引き留めてる?

 しかも、青年は片手だ。

 レガルスはこの身体になって、飛ぶ以外に具体的な何かをしたことはない。だが、力は身体の大きさに見合って強いだろう、と思われる。

 自分の足跡を湖のみぎわ付近で見ているし、その大きさからして重量もそれなりにあるのは間違いない。

 その身体を、青年は片手で引き留めているのだ。ちょっと待て、と手を掴む次元ではない。

 何、この人。魔法使い? だけど、杖とかないし、呪文とか聞こえなかったけど。敵じゃないって、それじゃあ何なんだよ。もしかして、ハンターに見付かるよりもまずいんじゃ……。

 この状況に、レガルスは完全に混乱していた。

「一旦、降りようか。無理して飛ぼうとしても、その翼の大きさだとすぐに疲れるよ」

 わかったようなことを言われる。レガルスはそのまま青年の手に引っ張られ、地面に降ろされた。彼には、力を込めた、という感じは全然ない。

 このままおとなしくしていたら何をされるかわからず、レガルスは地面に降ろされても翼を動かし続けて必死にあがいた。

(あんた、誰っ? どうしてそんなに落ち着いていられるんだよ。目の前で、人間が竜になったんだぞ。それに、どうして竜の身体を片手で簡単に降ろせるんだよ)

 そう言いたいのだが、竜になると言葉が話せないので、ちゃんと尋ねることもできない。

 竜になる時とはちょっと違う、獣の吠えるような声が出るだけだ。

「ぼくはファズリード。ファズでいいよ。目の前で人間が竜になっても驚かないのは、きみがそうなるって知っているから」

 ファズリードと名乗った青年は、何でもないことのように話す。

 あれ? 俺、ちゃんと言葉を話せた……のかな?

 レガルスが言ったことに対し、青年がちゃんと答えたので、レガルスは急速に落ち着きを取り戻す。翼をばたつかせるのも、一旦やめた。

 普通なら、こんな場面で混乱するのはファズリードの方。それなのに、あまりにも彼が落ち着き払っているので、レガルスは拍子抜けしてしまった。

「ごめんよ。ずっと怖かっただろう。遅くなって悪かったね」

 え? ごめんって何? 遅くなったって、どういうこと?

 彼の言っていることはわかるが、その意味が理解できない。

 ファズリードの言葉に、レガルスの中に別の戸惑いが生まれる。

「きみが竜になっても驚かないのは、ぼくが竜だからだよ。本物のね」

 言いながら、ファズリードはレガルスの手を優しくぽんぽんと叩いた。

☆☆☆

 レガルスが竜の身体にされて以来、満月の日はずっと晴れている。少し恨めしく感じるくらい、美しい満月が湖面に映っていた。

 実は湖の中にも月があるんじゃないか、と思ってしまう程、銀色に輝いている。

 そんな静かで美しい夜の中、人間と竜が見つめ合っている姿は……他の人の目にはどんなふうに映るのだろう。

 妙に冷静な部分でそんなことを考えたレガルスだったが、それどころではないと気付く。

 ファズリードの言葉は聞き捨てならないし、かなり気になる部分もあるが、優先順位としては後だ。

(あんたが竜でも何でもいいよ。今は逃げないと)

「逃げる? どこへ? どうして?」

 レガルスの声は人の言葉になっていなかったが、やはりファズリードはちゃんと理解しているらしい。

 ただし、中身に関しては理解できていないようだ。さっきのレガルスと同じ。

(大きな声が出たから、竜がいるんじゃないかって興味を持った人や……ハンターが来るかも知れないんだ。俺、この前の満月の時に殺されかけたし)

「ああ、竜になってしまう時に出た声だね。大丈夫だよ」

 ファズリードは穏やかな表情と声で、レガルスにそう告げる。耳に心地いい、低音の声だ。

 が、どんな声だろうと、レガルスとしてはそう言われても安心できない。

(大丈夫って……やっぱりこの辺りに竜がいるんだって思った人が、見に来るかも)

「声は聞こえていないよ。きみが声を出す直前に、この辺り一帯に結界を張ったからね」

 結界? えっと……何だっけ、それ。

 よくわからない言葉に、レガルスは首をかしげる。それに気付いたファズリードが、説明してくれた。

「見えない壁を湖の周囲とぼく達がいる辺りに作った、ということ。だから、声はよそにいる人間には聞こえないし、すぐそばまで来たとしても、竜になったきみやぼくの姿は見えないんだ」

 そんな都合のいいことができるものなのか。それはつまり魔法ということだろうが、こんなに実感がないものとは思わなかった。

 そううまい具合に、全てが進められるものなのか。だまされているんじゃ、という気持ちもわいてくる。

「心配しなくても、ここへは誰も来ないよ。来られない、と言う方が正確かな」

 念を押すように、ファズリードはそう言った。

 本当にそうなら、安心していいのだろうか。誰も来ないのなら、来られないのなら、この姿を見られることはない。森や湖の中へ隠れなくて済むのだ。

 しかし、逆に言えば……魔法が使えるらしいファズリードに何をされても、レガルスは誰にも助けてもらえない、ということになる。

 そんなことを思うと、これはこれで怖くなってきた。

 そう言えば、さっき「自分は竜だ」と言っていなかったか。

「今夜はぼくがここにいる。きみが人間に戻る朝までね。誰かに見付かって、怖い思いをしなくて済むように」

 ファズリードに一瞬恐怖を覚えたレガルスだったが、彼は本当にレガルスを守るつもりでいるようだ。

(本当に……竜?)

「うん、そうだよ。あ、一度見せておいた方がいいかな」

 そう言った直後、青年の姿はなくなる。代わりにレガルスより頭一つ分以上大きい竜が、目の前にいた。

(わあああっ)

 驚いたレガルスはつい叫んでしまったが、その叫び声も竜のまま。身体が変わる時より大きかったかも知れない。

 しまった、と思って口をふさぐが、もう遅かった。

「大丈夫だって言っただろ。きみがいくら大きな声で叫んでも、誰にも聞こえないから。自分が竜になっても、竜を見慣れた訳じゃないだろうからね。だから、人の姿で来たんだ。その方がきみも落ち着くでしょ?」

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