一生勝てない

湖上比恋乃

一生勝てない

 私の叔父さんはなんでもできる。私が「なんでも」と思う範囲のことは全部できてしまう。

「どうしてイロくんってなんでもできちゃうの?」

「んー、強いて言うならイロちゃんが俺のこと好きすぎるからかな」

「ええ! なにそれ意味わかんない!」

 ケラケラと笑ってしまった。


 イロくんは王都の商人街に部屋を借りている。本当の名前はヒイロというのだけれど、幼い私が言うには難しくってそれからずっと「イロくん」だ。そして私の名前はイロハ。お母さんももうちょっと考えて名付けてくれてもよかったのに、と思ってしまう。自分の弟に寄せすぎ。

「イロちゃん、姉さんに連絡してる?」

「……しない」

 キッチンのシンクにもたれかかるイロくんは、たぶん困った顔をしている。ソファでうずくまってる私には見えないけれど。両親(主に父さん)と喧嘩になってしまい、飛び出した先にやってきたのがイロくんの家だった。突然やってきた私を玄関先で見たときは何も言わずに部屋に入れてくれたのに、今は優しくない。

「俺からしようか?」

「ここにいるってバレちゃうじゃん」

 たぶんもうバレてるよ、という呟きには反論できない。でもバレてるのと自分から言うのとでは何かが違うのだ。

「どこにいるのか見当がついてたって心配は心配だろうからさ。顔見せるだけでもしてあげてよ」

 そう言ってローテーブルの上に小さなスタンドミラーを置いた。上部に突起がいくつかあって、それを押し込むことであらかじめ登録しておいた相手と通信ができる。イロくんの発明品だ。研究室のみんなの作品だというが、私にとっては「イロくんの作品」なのだ。

 一番左の突起がお母さんに繋がっていることは知っていた。まだ鏡は私の顔を映す。泣きそうなんだか、怒りそうなんだかわからない顔を。

「顔だけ見せて、話さなくてもいいよ。すぐ切っちゃってもいいし。それからご飯にしよ。どこでも連れてってあげる」

 私に甘いイロくんがここまで言うのだから、どこにいるかくらいは知らせてもいいような気になってくる。じりじりと腕を伸ばして、スタンドミラーに指を添えた。そのまま動かない私の指を「えいっ」と押し込まれる。

「わあっ! イロくん!」

「イロちゃん?」

 慌てた私の声と鏡から聞こえる声が重なる。お母さんだった。きっと、待ってたんだ。だってそれくらい早かった。

「おかあ、さん」

「こんばんは、姉さん」

 そこから先はイロくんが話をしてくれる。といっても、家からまっすぐ来たってことと、自分のところにいるから安心してってことだけ。

「イロちゃんが帰るなら迎えに来てもらうか俺が送ってくけどどうする?」

 また自分の膝に額をつけていた私は、無言で首を横にふった。

「だそうです。いいかな?」

「ヒイロがいいなら、お願い」

 くぐもって聞こえてくるお母さんの声はどこか疲れている。

「こっちは大丈夫。……イロちゃん、通信切っちゃうけどいい? 何か伝えておくことある?」

「ない。ありがと」と小さく小さく呟いた。

「よし。これ片付けてくるから、ちょっと待っててね」

 イロくんがスタンドミラーを持って仕事部屋に入っていく。私は少しだけ体の力が抜けた。


 イロちゃんがここに駆け込んでくるのは何も珍しいことではない。

「姉さん、しゃべっていいよ」

 部屋のドアを閉めてから鏡面を覗き込むと、疲れた顔の姉と目が合った。

「いつもありがとね。あの子、明日には帰ってくるといいんだけど」

「今回はどうしたの」

 曰く、イロちゃんが内緒でアルバイトを契約してきたらしい。場所が場所のため、家庭への調査が入り、明るみに出ることとなった。

「まさか王宮で働こうとするとは」

「私は見ないふりしてただけで、いつかこうなるとは思ってた」

「まあ、俺が働いてるしね」

 決して自惚れで言っているわけではない。事実そうなのだ。

「私は別にどこで働こうとかまわないんだけど……」

 資料やメモ書きが乱雑に散らばった部屋の中央には、机上だけきれいな書斎机がある。スタンドミラーを置いて、紙類を踏まないように椅子に腰掛けた。

「姉さんが悪いんだよ。ヒイロの真似をしていれば大丈夫、間違いないって言い聞かせてきたんだから。おかげで俺だって真っ当に生きなきゃいけなくなったし、イロちゃんは刷り込みみたいにそれをずっと信じてる」

「でも真っ当に生きるのはいいことでしょ?」

「いいことだとしても、結構大変なんだよ? ずっと追いかけられるのって」

 下手なことはできない。この部屋だってイロちゃんに入らないよう言いつけてあるから、散らかっていても平気なのだ。今日みたいに突然来ることだってあるから油断できない。

「おかげでイロハはずっと優等生です! ありがとう!」

「姉さんはいいよ? 自分の狙い通りだろうから。でもミドリさんはそうじゃないでしょう」

 義理の兄の顔を思い浮かべた。

「あの人もねえ、イロハのこと大好きだから。怒ってるっていうか拗ねてるだけなのよ」

 わかる。わかってしまう。逆の立場なら俺だって拗ねると思う。

「こっちは任せてって、イロハにも言っておいてちょうだい」

「わかった。じゃあ、またね。イロちゃんとご飯食べにいってくる」

 すっきりした表情になった姉さんが「またね」と手を振った。すぐに鏡面は俺の顔を映す。

 さて、お姫様のご機嫌とりに精を出すとしますか。


 イロくんは外に食べに行こうと誘ってくれたけど、私がイロくんの作った料理を食べたいとワガママを言った。「喜んで」と作ってくれたのは私の好物ばかり。

「私を喜ばせる天才だよね」

 大好きな人が好きな物を作って食べさせてくれる。これが幸せでなくてなんと言うのだ。

 キッチンからいい匂いが漂ってくるころには、もうすっかり怒る気がなくなっていた。怒るっていうか、どっちかといえば拗ねてたのかもしれない。お父さんのことはお母さんが何とかしてくれるって聞いたし、せっかく決まったバイト先を諦めるなんてことにはならないだろう。

 安心したのとお腹が満たされたのとで、すっかり気が緩んだ私に、イロくんは事の顛末を尋ねてきた。食後の洗い物を並んでする。

「もうお母さんから聞いたんじゃないの?」

「こういうのは両方の話を聞かないと」

 いつもそうだ。

「イロくんには勝てそうにないや」

「そう? 俺はいつだってイロちゃんに負けてる気分だけど」

 本気で不思議そうにしているのがおかしい。笑っちゃって水が少し飛んだ。

「嘘だあ。だってお母さんが言ってたよ? ヒイロの真似をしていれば大丈夫。間違ったことにはならないって!」

 今度はイロくんが堪えきれないって様子で笑う。

「イロちゃんがそう思ってくれる限り、俺はなんでもできるようになるんだと思うよ」

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