六、神様との喧嘩
朝になれば機嫌を直して椿屋に顔を出すと簡単に考えていたが、一晩立っても湯玄は椿屋に戻ってはこなかった。
湯玄と体を寄せ合って布団に潜りこんだときにはあんなに温かったのに、一人で寝る布団は冷たくて……凪は人肌の恋しさを知ることとなる。
湯玄が戻らないことを知った泰富が「申し訳ない」と凪に深々と頭を下げて謝罪してくれたが、別に泰富が悪いわけではない。
湯の神である湯玄を必要としながら、商売繁盛である泰富に簡単になびいてしまった自分が悪い。そう思ってはいるのだけれど……。
「なんか納得いかねぇ」
凪は唸り声をあげる。
洗濯物が入った桶を担いで炊事場に向かう途中、今までのことを思い出す。大体、花嫁として嫁いだ凪をはじめに追い返したのは湯玄だ。「四年間待ってやる」などと甘い言葉を紡ぎながら、遊女たちに囲まれて鼻の下を伸ばしていたことだって、昨日のことのように覚えている。
そもそも、凪は湯玄の花嫁になった覚えはない。そしてこれからも、花嫁になることなんてないだろう。
「あまりにも勝手すぎないか?」
考えれば考える程イライラしてきてしまう。自分は遊女と遊んでいたくせに、凪が少し他の男にいい顔をしただけであんなにも怒るなんて……。自分勝手にも程がある。神様なら、何をしてもいいと思っているのだろうか。
近頃、湯滝村の流れる温泉の量が更に減ってきているが、今日はいつにもまして湯量が少ない。もしかしたら、湯玄が怒っているからだろうか。
「畜生。理不尽過ぎるだろう!」
頭に血が上ってしまった凪は、力任せに着物を洗濯板に擦りつける。こうしていると少しだけ気持ちが落ち着いてくる気がした。凪が夢中で洗濯をしていると……。
「ん? なんだ?」
近くから子猫のような鳴き声が聞こえてくる。もしかしたら母親とはぐれた子猫が鳴いているのかもしれないと、凪は辺りを見渡した。すると、近くの茂みがゴソゴソと動いているのが見える。きっと子猫が隠れているのだろう、と凪はそっと茂みを掻き分けて覗き込んだ。
「ふぇ、ふぇ……」
「あれ? 猫じゃない」
凪の視線の先には六歳くらいの男の子が蹲って泣いていた。
小さな体を小刻みに震わせて泣いている姿はあまりにも可哀そうで、凪は思わずその体にそっと触れた。
「ねぇ、君。どうしたの? どこか痛いの?」
「え? わぁぁぁぁ⁉」
「え、え!? ちょっと待って! 大丈夫だから!」
凪が体に触れた瞬間、少年は突然大きな声を上げる。どうやら飛び上がるほどびっくりしてしまったようだ。涙が浮かぶ真ん丸な瞳を大きく見開いて凪を凝視している。
その少年は、まるで夕暮れのように真っ赤な髪に、そばかすだらけの顔。すごくやんちゃそうなのに、どこか愛嬌のある表情をしていた。
「大丈夫。大丈夫だよ。俺は君に何もしないから」
「ぐすっ……。本当に? お兄ちゃん、悪い奴じゃない?」
「うん。大丈夫だよ」
凪は少年の様子を窺いながら、優しく頭を撫でてやる。
最初は凪を見て震えていたが、少しずつ落ち着きを取り戻してきた少年を見て、凪は安堵の息を吐いた。凪に頭を撫でられることが心地いいようで、気持ちよさそうに目を細めている。
「ごめんな、突然声をかけちゃって。君が泣いていたから、心配になって声をかけちゃったんだ」
「ううん。ボクこそ突然大きな声を出してごめんね?」
「大丈夫だよ。俺は凪。君の名前は? この辺りで見かけない子だね」
その少年を近所で見かけたことがなかった凪は、首を傾げた。もしかしたら観光客だろうか? しかしこんな小さな子供が、早朝に一人で出歩いていることに凪は違和感を覚えた。
「ボクの名前は
「赤シャグマ?」
「そう。座敷童に似てるんだけれど、ボクが住み着いた家には、幸福が訪れると言われてるよ」
「じゃあ、もしかして君も……」
「うん! 一応神様。まだ見習い中だけれどね」
そう照れくさそうに笑う虎徹は、とても可愛らしい。凪は口角が緩んでいくのを感じた。
「こんなに小さいのに神様なんだな。でも不思議だなぁ。湯玄様が椿屋に来てから、やたらと神様に会うようになった」
「温泉は古来より
「そっか。だから虎徹は一人で泣いてたんだね?」
「うん」
「じゃあ、
「え? いいの?」
凪の言葉を聞いた虎徹の表情が明るくなる。それはまるで花が咲いたかのようだ。神様といっても、まだまだ子供の虎徹は湯玄と違い横柄な態度をとることはない。それにとても人懐こいから、凪はつい世話を焼きたくなってしまった。
「俺についてきな。一番風呂に入れてやる」
「ありがとう、凪」
「ちょっと待ってて。これだけ洗濯しちゃうからさ」
「うん。ボクも手伝うね」
虎徹にすっかり癒された凪は、鼻歌を歌いながら洗濯を再開したのだった。
「気持ちよかったぁ!」
「それはよかったな」
「椿屋のお風呂はすごく広いんだね! ボク泳いじゃったよ」
「あははは! そりゃあ凄い!」
椿屋の温泉に入った虎徹はとてもご機嫌で、にこにこしている。その笑顔が可愛くて、凪の心は温かくなった。湯上りに冷たい緑茶を手渡すと、美味しそうに飲み干す。ぽたぽたと髪から垂れる雫を手拭いで拭いてやった。
「ねぇ、凪。ボク、これから行くあてがないんだ。もし凪がいてもいいって言ってくれるなら、ボクずっとここにいたい。ちゃんとお手伝いもするから」
「ずっとここにって……。虎徹には家族はいないのか?」
「……家族? ボクは生まれたときから一人だよ? 多分、家族がいる神様なんていないんじゃないかな……」
「神様って、生まれたときから独りぼっちなの?」
「うん。こんなに優しくしてくれる人間に会ったのも、凪が初めてだし」
「そっか」
「だから、ボクずっと凪と一緒にいたい。ねぇいいでしょ?」
凪は虎徹を見ながら大きく息を吐く。こんなに幼い子供が独りぼっちで生きてきたなんて……そう思えば心が痛んだ。
「湯玄様もずっと一人で生きてきたのかな」
ふと、あれだけ横柄な態度をとりながらも、気づくと、どこか寂しそうにしている湯玄の顔が頭の中を過っていく。
――神様はいつも独りぼっちなんだ。
神という存在は、華々しい世界で生きているものだとばかり思っていた凪は、想像もしていなかった現実に心が掻き乱された。
「いいよ。虎徹がいたいだけここにいな?」
「本当? ありがとう凪! ボク一生懸命お手伝いするね!」
「わかったわかった。ありがとうな」
自分に向かって飛びついてくる虎徹の体を、凪はギュッと抱き締めた。
その日から、泰富と虎徹が椿屋の手伝いをしてくれるようになる。
凪が泰富と虎徹を両親と祖母に紹介すると、「よろしくお願いします」と二人は人懐こい笑みを浮かべた。この二人は神様の割に全く偉ぶっていないところが、親しみやすさを感じさせられる。
湯玄の他に神様がこの椿屋で働くことに、凪の両親と祖母は驚愕しており、口をポカンとあけたまま固まってしまっている。三人とも呆然と泰富と虎徹を見つめ、言葉を発することもできないようだ。それでも神様を追い返すわけにもいかず、渋々と椿屋で働くことを了承してくれたのだった。
「神様をこんなぼろ宿屋で働かせてしまうなんて、本当に申し訳ない」
祖母など、泰富と虎徹に向かって手を合わせている。そんな両親たちに「こちらこそ、ご迷惑をおかけしますね」と泰富が優しく声をかけた。
泰富は女性に混ざり厨房で料理を始める。突然厨房に現れた謎の美男子に、女性たちの黄色い悲鳴が玄関まで響くようだ。泰富は腕まくりをすると、てきぱきと料理に取り掛かったのだった。
彼が作った料理は見た目も美しく、味も絶品だとたちまち宿泊客の心を掴んでしまう。
「こんなにうまい飯は初めてだ」
宿泊客は満足そうに舌鼓を打つ。特に泰富が作る稲荷寿司が絶品だと、早くも評判だ。
「へぇ。凄いじゃないか? 料理が得意なんだな?」
「そんな……凪さんに褒められたら照れちゃいます」
凪が素直に称賛すると、泰富が頬を赤らめる。泰富は素直だし腰も低い。どこかの誰かさんとは大違いだと、つい比較をしたくなってしまった。
虎徹は年配の使用人に混ざり、掃除に精を出している。長い廊下を雑巾がけしながら元気に飛び回る姿を見た者から、「ほら、頑張って」と声援が起きている。
泰富と虎徹がいるだけで、椿屋の中が明るくなったように感じられた。
空が真っ赤に染まり、一番星が瞬き始める。椿屋の玄関に吊るされている大きな提灯にも火が灯された。
「湯玄様、結局戻ってこなかったな……」
凪はかじかむ手に「はぁ」と息を吐きかけながら、湯花神社を見つめた。すぐに機嫌を直して戻ってくるだろう、などと考えていた自分が甘かったことに気付かされる。
「このまま帰って来なかったらどうしよう」
宿の中からは、宴会がはじまるのだろう、賑やかな声がする。
泰富は一生懸命料理を作ってくれているし、虎徹は宴会場に完成した食事をせっせと運んでいた。神様をこんな風に働かせて罰が当たらないだろうか……と不安にもなるが、楽しそうに働いている泰富と虎徹を見ていると、止めることなどできるはずがない。
それどころか、椿屋が徐々に活気づいているのが伝わってくるのだ。
「これが神様の力なのかな」
凪はそっと呟く。また雪を降らせてきた空を一瞬見上げてから、玄関に掛けてある暖簾を下ろした。
「凪、元気ないね? どうしたの?」
「ん?」
足元で声がしたものだから凪が視線を移すと、不安そうな顔をした虎徹がいた。大きな瞳を揺らしながら凪の着物の裾をぎゅっと握り締めている。今にも泣き出しそうな顔をしているものだから、その場にしゃがみ込んで虎徹の頭を撫でてやった。
「ううん。そんなことないよ」
「……もしかして、ボクが椿屋にいることが迷惑だって思ってる?」
「迷惑?」
「うん。何の役にもたてないボクのことを邪魔に感じてるのかなって、不安になったの。ごめんね、ボク何の役にもたてなくて……」
虎徹の瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。凪は慌てて虎徹の涙を拭ってやった。
「そんなことない。虎徹は仕事を頑張ってくれてるから助かるって、皆が言ってるよ」
「本当?」
「本当だよ。それに、虎徹と泰富様が来てくれてから、椿屋が一気に活気づいた気がするんだ。俺はそれがすごく嬉しい。ありがとう、虎徹」
「うん!」
目にたくさんの涙を浮かべながら笑う虎徹は本当に無邪気だ。凪は虎徹を見ていると、いつの間にか心が穏やかになっているように感じられる。たわしのように硬い虎徹の髪を、もう一度撫でてやった。
「じゃあ、なんで凪は元気がないの?」
「俺、そんなに元気がないように見える?」
「うん。すごく寂しそうだよ」
虎徹に言われるまで、凪は自分が寂しそうな顔をしていることに気が付かなかった。そう言われてみたら、先程からため息ばかりついているような気がする。
「あのさ、俺、知り合い? 友達、かなぁ? ……と喧嘩しちゃったんだ。だから元気がなかったのかもしれない」
「そっか」
「ごめんな、心配かけて。じゃあ、宴会の準備に行こうか?」
凪が立ち上がって宿の中へ戻ろうとした時、虎徹に手を掴まれる。なんだ? と虎徹を見ると、今度は頬を膨らませて怒ったような顔をしていた。
「凪、その人が大事なら仲直りしなくちゃ駄目だよ。ちゃんと『ごめんなさい』って言わなくちゃ」
「はぁ? 仲直り? でもなんで俺が謝らなくちゃいけないんだよ?」
「凪、喧嘩は両成敗だよ。仲直りしたいなら意地を張ってたら駄目だ!」
「でも……」
「でもじゃない!」
これではどちらが子供かわからない。それでも真剣な瞳で自分の顔を見つめる虎徹を見ているうちに、凪の心が揺れ始める。
――そっか。俺は、湯玄様に戻ってきてほしいんだ。
凪は自分の気持ちに気付くと同時に、湯玄と仲直りしたい……と感じていることにも気付かされた。でも、自分から謝るなんて癪だし、なんだか悔しい。だけど湯玄に椿屋に帰ってきてほしい……。
「あー! もうどうしたらいいんだよ」
凪の心が振り子のように大きく揺れる。
「凪、謝っておいでよ。凪が戻ってくるまで、ボクがお仕事頑張るから!」
「でも……」
「凪、頑張って!」
「……わかった。ありがとう、虎徹」
「うん! ボク、笑ってる凪が好きだよ!」
その笑顔を見た凪は思う。虎徹は本当に幸せを呼び込む神様だと。虎徹は凪が見えなくなるまで手を振りながら見送ってくれたのだった。
◇◆◇◆
虎徹に勇気をもらった凪は、湯花神社に向かって走り出す。
「湯玄様にちゃんと謝ろう。そして、もう一度椿屋に戻って来てって、お願いするんだ」
凪は素直にそう思えるようになっていた。どちらが悪いとか、どちらが正しいとか言っていたらきりがないなんてことはわかりきっている。意地を張っていた凪の背中を、虎徹がそっと押してくれた。
椿屋から湯花神社までは大分距離がある。凪は息を弾ませながら湯花神社へと向かった。
しかし境内に足を踏み入れたところで、凪はある光景を見つけ、足を止めてしまう。
「なんだ、あの人……」
凪の視線の先には、一人の男がひっそりと佇んでいた。辺りはすっかり暗くなり、境内の中は滝を照らす心許ない行燈がいくつかあるだけ。そんな暗闇の中、淡い色の着物を着た人物が黙って立っている姿に、凪は背筋が凍り付くのを感じた。
「もしかして、幽霊とか……」
全身からさっと血の気が引いていき、手足が氷のように冷たくなっていく。体がカタカタと震え出した。
男に気付かれないようにそっと後ずさろうとした時、男が凪の存在に気付いたようでこちらを向く。その瞬間、凪は腰を抜かしてしまいなそうなほど驚愕してしまった。
「あ、凪。久しぶりだね」
「あんたは……」
乱れた呼吸を整えながら目を凝らすと、以前炊事場で出会った亜麻色の髪色をした男だった。
会っていきなり「僕の花嫁になってほしい」と凪を口説いてきた人物。正直に言って、そんな男に良い印象があるはずなんてない。相変わらず、女性のように美しい容姿をしているものの、得体のしれない存在に凪は眉を顰めた。
――でも、よかった……。とりあえず幽霊じゃなさそうだ。
心の底から安堵した凪は、その場に座り込んでしまいそうになるのをなんとか堪える。
大体、こんな夜遅い時間、しかも神社で何をしていたのだろうか? 普通なら、夜の神社など気味悪がって近寄らないのが普通だろう。謎に包まれたその男に、凪は恐々と声をかけた。
「なぁ、こんな夜遅くに何をしてるんだ?」
「え? あぁ、うん。福寿草が綺麗だな……と思って見ていたんだ」
「福寿草?」
「うん。僕が昔住んでいた村にもたくさんの福寿草が咲いていたんだ。湯花神社に咲いている福寿草は黄色だけだけど、僕が住んでいた村には黄色以外にも、赤色や紫色、それに白い福寿草もあったんだよ。だから、境内に咲いている福寿草を見たら、懐かしくなってしまってね」
「だからって、こんな夜に……」
湯花村の神社には福寿草が可愛らしい花を咲かせている。福寿草は縁起のいい花とされており、その可憐な姿は村人たちからも愛されていた。
湯滝村には毎日雪が降り、春の到来はまだまだ先だ。そんな中、雪を掻き分けて芽を出し、花を咲かせる福寿草の生命力には感動すら覚えてしまう。だからと言って、こんな夜中にわざわざ福寿草を見に来るなんて……。
やっぱり怪しい。凪は顔が強張っていくのを感じる。再び恐怖に駆られた凪は、心細くなってしまい湯玄に会いたいと思った。きっと湯玄ならば自分を助けてくれるはずだ……何の根拠もないのだけれど、そう感じていた。
湯玄は源泉にいるに違いない、と静かに男に背を向けて源泉に向おうとした時「ちょっと待って」と男に声をかけられる。なんなんだよ……凪が渋々振り返ると、大きな満月を背に微笑む男と視線が絡み合った。
「君、湯玄と喧嘩したんだって?」
「え? なんでそれを……」
「ふふっ。さっき空を飛んでいた烏が教えてくれたんだよ」
「烏が?」
「そう。古来より、烏は神の遣いとされているからね。もしかして仲直りをしにきたのかい?」
男が顔を綻ばせると、その艶っぽさに凪は思わず鼓動が高鳴るのを感じる。怪しい雰囲気を纏っているが、それさえもこの男の魅力に感じられるから不思議だ。
「あんな男はやめて僕にしたら? 僕だって、湯花神社の源泉を復活させてあげることができるんだよ」
「え? あんたも湯の神様なのか?」
「あぁ、昔はね。僕が住んでいた村も、たくさんの温泉に溢れていた。今は温泉も枯れ果てて、村も廃れてしまったけどね」
「そんな……」
「でも、君が持っている湯石と、君の力があれば、源泉を元通りにすることができる」
寂しそうに目を細める男の笑顔は透き通るように綺麗で、凪は視線を逸らすことさえできなくなってしまう。
「僕も湯の神だった頃にはたくさんの湯石を持っていた。だけど、村の源泉を枯らさないために持っていた全ての湯石の力を使い果たしてしまったんだ。それでも力及ばずで源泉は枯れ果て、僕は神力さえも失った」
「湯石を全て……それでも、駄目だったのか?」
「うん。残念ながらね。だから、凪。僕の花嫁になって、もう一度僕に湯の神としての力を授けてほしいんだ」
「そ、そんなこと突然言われても、俺にはそんな力なんてねぇよ!」
「そんなことはない。君は僕が知っている今までの花嫁とは違う。何か特別な力を持っているように感じるんだ。ほら……」
男が凪の髪をそっと撫でると、着物の懐にしまわれた湯石が熱を帯び始める。それはいつの間にか、火傷をしてしまいそうなほどの高温となった。更に、先程まで雲の糸のように細かった滝が、一気に湯量を増しバシャバシャと音をたてて落ち始める。その光景に、凪は思わず目を見開いた。
――この男、本当に湯玄様と同じ、湯の神様なんだ。
凪は咄嗟に男の顔を見上げる。この湯石があれば、相手が湯玄でなくとも源泉を復活させることができるんだ……凪はそんな事実に強い戸惑いを感じた。
凪が呆然と見つめていると、男がクスクスと楽しそうに笑う。
「もっと凪に触れさせてくれたら、源泉のお湯を更に増やしてあげられるよ」
「え? でも……」
「体に触れるのはもちろんだけど、口付けをしたり、僕が凪を抱けばもっと源泉から湧き出る湯量は増える」
「口付け……抱く……?」
「それとも、そんな相手は湯玄じゃなければ嫌なのかな?」
男が艶っぽく口角を上げる。細い綺麗な指先で頬を撫でられた凪は、体が火照り出すのを感じた。
「凪、湯玄ではなくて僕の所にお嫁においで? 僕だったら、喧嘩になんて絶対にならないよ。だって凪を大切にしたいから。ねぇ、凪。結婚しよう?」
「おい、待て⁉」
男にそっと耳打ちされたとき、まるで天が引き裂かれたかのように怒声が響き渡る。大地に雷が落ちたかのように地響きが起こり、立っているのもやっとだった。
次の瞬間、まるで獣のような雄たけびをあげながら、湯玄が現れる。そのあまりの迫力に、凪は目を見開き言葉を失った。
湯玄の頭にはピンと反り返った耳がついており、尻から生えた尾は箒のように太くなっている。その姿は、怒り狂った獅子のようだ。
「おい、
「はぁ……。湯玄め、もう気が付いたのか。相変わらずの地獄耳だな」
湯玄に湯庵と呼ばれた男が小さく溜息をつきながら、凪からそっと体を離した。
「凪、寂しくなったらまたいつでもおいで? 僕が慰めてあげるから。君は大事な大事な、花嫁だからね」
そう言い残すと、湯庵は湯気のように消えてしまったのだった。
湯庵が消えてしまった湯花神社には、滝が囂々と落ちていく音が響き渡っている。少しずつ冷えていく湯石を感じながら、凪は湯玄を見つめた。
たった一日会っていないだけなのに、久しぶりに会ったような気がする。思わず湯玄に飛びつきたくなる衝動を必死に堪えた。
「凪。其方は何をしに来たのだ?」
「何しにって……」
「も、もしかして私に会いに来たとか……」
照れくさそうに頭を掻きむしる湯玄が、可愛らしく見えた。これじゃあ子供じゃないか? そう思えば、なんだか可笑しくなってきてしまう。声を出して笑う凪を見た湯玄が、更に顔を真っ赤にさせながら声を荒げた。
「そ、其方、私がいなくて寂しいから迎えにきたんだろ? 全く寂しん坊で困ったもんだ」
「あぁ、そうだよ。湯玄様の言う通りだ。あんたが椿屋にいないのが寂しくて迎えにきた。湯玄様、ごめんなさい。機嫌を直して、俺と一緒に椿屋に戻ろう?」
「嫌だ。なぜなら其方は今だって湯庵と親しそうにしていたではないか? 湯石まで熱くさせて……其方は純情そうに見えて、男を狂わす才能があるんだな? 全くけしからん」
自分のことを棚に上げて、よくもまぁ……凪はじわじわと込み上げてくる怒りを、拳を強く握り締めて我慢する。今目の前にいるのは、ただの駄々を捏ねる子供にしか見えないが、湯の神様だ。不躾な態度は失礼にあたると、凪は自分に言い聞かせた。
でも無理だ。目の前で不貞腐れたような顔をしている湯玄を見ていると、堪忍袋の緒が切れそうになってしまう。
「大体、四年前に花嫁になった俺を追い返したのは湯玄様だろう? それに、あんただって遊女に囲まれてニヤニヤしてたじゃないか? 俺はそれが今でも許せないんだからな」
「だから、それには事情があるのだ」
「事情ってなんだよ? 自分はいいくせに、俺は駄目なんて自分勝手過ぎるだろう? 大体、俺はあんたの花嫁になるなんて一言も言ってねぇからな!」
つい感情的になってしまった凪の目に涙が滲んできたから、慌てて着物の袖で拭う。結局凪の性格から言って、冷静に話し合うことなんてできそうにない。これでは、売り言葉に買い言葉だ。
——俺と湯玄様は、水と油のように決して交わることのできない、そんな関係なんだろうか? ……そんなの、悲し過ぎる。
泣きそうな顔をしながら俯いてしまった凪に、湯玄は我に返ったように向き直った。
「……そうか、凪。私も其方に悲しい思いをさせてしまったのだな。しかし、やむを得ない事情があったのだ……」
「……わかってる。あんたは仮にも湯の神様だ。人間には理解できない事情があるのかもしれない。そんなのわかってる。わかってるけど……俺は面白くないんだ。だって、俺は四年間、あんたが迎えにくるのを待っていたんだから……」
「凪。私のことを、そんなに待っていてくれてたのか……そうか……」
申し訳なさそうに、綺麗な眉を下げる湯玄の顔を見た凪の心が痛む。頭に生えている耳が倒れて、ふさふさした尾が力なく垂れ下がった。
――違う、俺は湯玄様のこんな顔が見たかったわけじゃない。
凪は唇を噛み締めて俯く。自分はここにわざわざ喧嘩をしにきたわけではない。
――素直になりたい。素直に……。
凪は心を決めて湯玄を見上げる。でもその言葉を口に出すことは、想像以上に勇気が必要だった。でも凪は伝えたかった。自分の素直な気持ちを……。
「湯玄様! 俺、あんたが椿屋にいないと寂しくて仕方がないんだ。だから、頼む! 帰ってきてくれ!」
「凪、其方……」
「一緒に帰ろう? 椿屋に……」
次の瞬間、大きな物が勢いよくぶつかってくる感覚に、呼吸が一瞬止まった。その衝撃で仰向けに倒れそうになってしまったのを、足を踏ん張って何とか耐える。あまりにも強い衝撃だったものだから、全身の骨が砕けてしまったのではないかと不安になるくらいだ。
自分の腕の中にいるのは、満面の笑みを浮かべる湯玄だった。まるで子供のように、凪の胸に頬ずりをしている。
「其方がそんなにも私と一緒にいたいのなら、仕方がない一緒に帰ってやらんでもない」
「はぁ……。湯玄様って、本当に天邪鬼で可愛くないのな?」
先程までは荒ぶる獅子のように見えた湯玄が、今はゴロゴロと喉を鳴らしながら甘える猫のように見える。可哀そうな程垂れ下がっていた尾が、大きく揺れていた。
「可愛い私の花嫁よ。共に帰ろう」
「え? 本当に?」
「あぁ。其方がそんなにも可愛らしくねだるのであれば、このまま一人で帰すわけにはいかないだろう?」
「別に可愛らしくなんか……大体あんたが……ん、んんッ!」
一言くらい文句を言ってやりたくて、凪は口を開いたが……それは言葉にはならなかった。
湯玄に強く抱き締められた凪は、そのまま唇を奪われてしまう。久しぶりに感じた湯玄の唇の柔らかさに凪の心が大きく跳ね上がった。半ば強引に押し当てられた湯玄の唇は、柔らかくて温かい。熱いものが込み上げてきて胸がいっぱいになってしまう。
凪は、湯玄の唇から逃れようと首を振って抵抗したが、そんなことは許されるはずはなく、凪は湯玄の口付けを受け止め続けた。
「相変わらず口付けが下手くそだな」
「うるさいな」
「まぁ、そこが初々しくて可愛らしいのだが」
そんな凪を愛おしそうな顔で湯玄が覗き込んでくる。その表情はとても穏やかで、まるで空に浮かんでいる満月のようだ。
「可愛い、私の花嫁よ」
もう一度唇が触れ合った瞬間、湯石が眩い光を放ちながら一気に熱を帯びていく。源泉からは湯が勢いよく吹き出し、けたたましい音をたてながら滝が流れ落ちた。
「湯玄様……」
凪は無我夢中で湯玄にしがみついて、その唇を頬張ったのだった。
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