四、椿屋にやって来た湯の神

 凪が湯玄と初めて会ってから、七年の月日が流れて……凪は十七歳になっていた。

 本当ならば、十七歳になった凪を湯玄が迎えに来てくれて、二人仲良く湯玄の住む世界へと向かうものだと思っていた。しかし、現実と理想はだいぶかけ離れてしまう。

 遊郭の前で彼を見て以来、凪はすっかり湯玄のことを信じることができなくなっていた。

 湯滝村の真ん中を流れる温泉は、数カ月前から更に湯量が減り、まるで小川のようになってしまった。そのせいか旅人の足も遠退いて、閉業へと追い込まれた宿屋もある。湯滝村が少しずつ廃れていっていることに、凪の心は張り裂けんばかりに痛んだ。

 そしてそれは、とても寒い朝のこと。

 椿屋の庭にある大きな池にはぶ厚い氷が張り、空を見上げれば今にも雪が降ってきそうだ。福寿草の芽がようやく顔を出したというのに、春は当分湯滝村には訪れそうもなく、冬の空気は村を静かに包み込んでいた。

 そんな季節独特の静けさの中、洗濯物がたくさん入った桶をかついで炊事場に向かう途中、椿屋の玄関のほうがやけに騒がしくなる。

「ん?」

 一体何の騒ぎだと、凪は足を止めた。

「旦那! 椿屋の旦那はおるか?」

「あらあら、そんなに慌ててどうされたんですか? 生憎夫は調子が悪くて寝てるんです」

「しかし、女将さん、大変なことが起きたんじゃよ!」

 椿屋の玄関に押しかけてきたのは湯滝村の長老だった。顔には深い皺が刻まれ、腰はほぼ直角に曲がってしまっている。杖をつきながらやっとの思いで椿屋に辿り着いたようだ。

「そんなに慌ててどうされたんです?」

「どうしたも、こうしたも……」

 息切れが止まらない長老の背中を、凪の母親が擦ってやっている。そんな母親に長老が手紙と思われる紙きれを差し出した。その手紙には、綺麗な文字がしたためられている。

「これを……」

「これを、読めばいいんですね?」

 そう言いながら手紙を受け取った母親は、さっとそれに目を通したようだ。そして次の瞬間目を見開いた。手紙を持つか細い腕が小さく震えている。

「……長老様、これは一体……」

「ワシも全く意味がわからんのじゃ。しかし、これは湯玄様からの申し渡しだろう」

「でも……なんで、なんで今更⁉」

 母親は顔を真っ青にしながら長老にすがりつく。そのただ事ならぬ雰囲気に、凪は聞き耳をたてた。

「今朝、庭で何者かが走り回る音が聞こえたんだ。ワシは泥棒かと思って恐る恐る庭先へ出てみると、そこには紅さんと青さんがいて……」

「紅さんと、青さんって……狛犬の……? いやですよ長老様。そんな、狛犬が動くなんて……」

「ワシだって本当にびっくりしたよ。最初は見間違いかと思ったが、見間違いなんかじゃない。あれは紅さんと青さんだった。それに、あんな色の動物が他にいるわけないじゃろう?」

「それはそうですけど……」

 紅さんと青さんと言えば、湯花神社にいる二匹の狛犬の愛称だ。ただ、湯玄が言うには普通の人間にはただの狛犬にしか見えないらしい。それなのになぜだ……凪は首を傾げた。

「……あれ……?」

 その時、懐にしまってある湯石が少しずつ熱を帯び始めたことに気が付いた凪は、そっと石を手に取る。赤い光を放ちながらどんどん熱くなっていく湯石を、凪は不思議な思いで見つめた。

「突然やって来た紅さんが咥えていたのがこの手紙だ。これは湯玄様からの申し渡しに違いない。いや、そうとしか考えられん」

「でも、でも……!」

「これで、源泉はきっと復活する。どうかこの通りだ。凪をもう一度、湯玄様の花嫁として捧げてもらえないだろうか?」

「は?」

 思わず口から飛び出そうになった言葉を慌てて呑み込む。凪は自分の耳を疑ってしまった。

 湯玄は凪を追い返した後、凪が成長するまで四年間待ってくれるような口ぶりだったくせに、当の本人は遊女に囲まれてまんざらでもない顔をしていた。

 あの光景は今でも鮮明に頭にこびりついている。湯玄の言葉を信じて四年後を待っていた凪は、裏切られた……という思いを払拭することができずにいた。

「でも凪は一度湯玄様に追い返されています。それなのに、なぜまた凪を?」

「湯玄様の考えはワシにはわからない。しかし、手紙には凪をもう一度花嫁として捧げよ、とちゃんと書いてある。この機会を逃したら、源泉は本当に枯れてしまうかもしれない。だから、頼む……凪をもう一度花嫁に……!」

 凪の母親は困惑しきって、今にも泣きそうな顔をしている。凪も、なぜこんなことになっているのか、わけがわからずにいた。

「湯玄様は、女のほうがいいくせに。なんで今更俺なんだよ?」

 凪はぐっと奥歯を噛み締める。自分が都合のいいように扱われているような気がして悔しかった。

「俺は、もう絶対湯玄様の嫁になんてならねぇ」

 洗濯物が入った桶を担いで、凪はその場を立ち去る。この話は知らなかったことにしよう……凪はそう心に決めたのだが、村を流れる小川のような温泉を目の当たりにしてしまえば、その思いも簡単に揺れてしまう。

「俺は、俺は……」

 凪はその場にしゃがみ込み唇を噛み締めた。


 ◇◆◇◆


 凪は憂鬱だった。

 昔は炊事場に流れ着く温泉も豊富だったのに、今は小さな池のようだ。最早この温泉も止まってしまうのではないか? と不安に感じてしまう程、湯量が少ない。

 今まで手がかじかむことなく洗濯もできたし、汚れた茶碗も洗うことができた。この温泉が止まれば、店の使用人はきっと寒い思いをしながら炊事をすることになるだろう。そう思えば、やはり湯滝村にとってこの温泉は生活に欠かせないものだ。

 そして、その温泉をもたらしてくれているのは湯玄である。なぜ湯玄が今更自分を花嫁として求めているのかはわからないが、自分が湯玄の元へと再び嫁げば、源泉はまた豊かな湯を称えるのだろうか。

 もしそうだとしたら……。

「でもなぁ……」

 凪は洗濯をする手を止めてぽつりと呟いた。石鹸の泡がふわふわと空中を漂っていたから、それを無意識に視線で追いかける。音もなく次々と割れていく泡を見ていると、なんだか不安になってきてしまった。

 湯玄に追い返されたあの日以来、凪はずっと「出来損ないの花嫁」と後ろ指をさされ続けている。それはとても屈辱的な日々でもあり、生まれ育った村にいることさえ苦痛に感じられるくらいだった。それでも耐え忍んだのは、十七歳になる日を待ち侘びていたから。湯玄のあの言葉を、信じて疑うことなどなかったのだ。

 しかし、現実には遊郭を訪れようとする湯玄を見かけてしまうではないか。自分の気持ちを踏み躙られたような気がした。

 そんな思いを凪にさせておいて、今更「また嫁に来い」なんて、あまりにも虫が良すぎる。大体あのとき、自分と目が合っただろう。遊女たちに囲まれて、まんざらでもない様子を見られたことを、気がついていないはずはない。

 そんなこんなで、いくら湯の神様だからといって、「はい、わかりました。すぐに嫁に参ります」なんて凪には言えそうにない。

「はぁ……どうしたらいいんだろう……」

「ふふっ。大きな溜息だね?」

「は?」

「何か悩みでもあるのかな?」

 突然頭上から声がしたことに驚いた凪は、慌てて顔を上げる。

 するとそこには、確かに人がいた。まさかこんな至近距離に人が立っているなんて想像もしていなかった。ぼーっと泡を見ていたから、誰かが近付いてくる気配に気が付かなかったのだろうか? 

 いや、そんなはずはない。その人物は気配を消して凪に近付いてきたとしか思えなかった。

「……あ、あんた誰だ?」

「ふふっ。突然声をかけちゃってごめんね。泡を眺めている見る君が、ひどく可愛らしかったから」

「……初めて会う奴にかける言葉にしちゃあ、軽いな。あんた、なんなんだよ。変質者か?」

「まぁまぁ、そんなに警戒しないでよ。別に怪しい者じゃないから」

 十分怪しいんだけど……そう言いかけた凪は、その男の容姿に思わず息を呑んだ。

 凪の目の前にいるのは高身長の若い男だった。逆光が眩しくて思わず目を細めた凪を、男は優しい笑みを浮かべながら見つめている。亜麻色の髪は肩まで伸び、肌は絹のようにきめ細かい。気品に満ち溢れた雰囲気は、男の育ちの良さを感じさせた。まるで女のように美しいその容姿に、凪は言葉を失ってしまう。

 湯玄が男らしい妖艶さを秘めた美しさだとしたら、この男は綺麗に咲き乱れる花のように美しい。その繊細そうな雰囲気は、同性である凪の視線さえ簡単に奪ってしまったのだった。

「君の名前は?」

「お、俺は凪。あんたは?」

「え? 僕? ふふっ。ごめんね、今は教えてあげられないんだ」

「はぁ? なんだよ、それ。人に名前を聞いておいて」

 その男はこんなにも麗しい見た目をしているのに、ひどく訝しい。凪が立ち上がって真正面から向き合うと、男は無邪気な笑みを浮かべた。善人なのか悪人なのかわからない……凪は思わず身構えて、一歩後ずさった。

「そんなことより、凪は面白いものを持っているね?」

「面白いもの? 別にそんなもの持ってねぇし」

「あるじゃないか? ほら着物の懐に……それ湯石かな?」

「……え?」

 凪の背中をぞわぞわっと寒気が走り抜ける。なぜこの男は、凪が湯石を持っていることを知っているのだろうか? 

 ――こいつ、本当に何者だ?

 凪は身の毛がよだつ思いがした。

「その湯石は誰にもらったの?」

「…………」

 男の問い掛けに答えずにいると、男は一気に距離を詰めて凪の顔を覗き込んでくる。その人形のような整った顔立ちに、凪は恐怖を覚えた。

「もしかして湯玄にもらったの?」

「湯玄様? ち、違う。そうじゃない……」

「嘘だ。だって、この湯石からは湯玄の神力を感じる。珍しいね、あいつが誰かに湯石を授けるなんて」

「そんなことより、あんた湯玄様のことを知っているのか?」

「まぁね」

 男が笑いながら凪の懐にしまわれている湯石を着物の上からそっと撫でると、湯石が少しずつ熱くなっていくのを感じた。

 ――なんなんだ、これは……。

 呼吸がうまくできなくて息が苦しい。心臓が早鐘を打ち、眩暈がしてきた。

「君は、湯玄のお気に入りなのかな?」

「……⁉ そんなわけねぇだろ、離れろ……!」

 男が凪の頬をそっと撫でたとき、湯石が焼石のように熱くなり、着物の上からでもわかるほどの光を放つ。次の瞬間、炊事場の湯が間欠泉のように勢いよく吹き出した。

「……なんで……?」

「へぇ。これは素晴らしい。やっぱり君は特別な力を持っているんだね」

 凪が呆気にとられていると、男は恍惚と湧き出る温泉に見入っている。口角を吊り上げて笑う姿は、先程までの人懐こい笑みを浮かべていた男とは、まるで別人のようだ。

「凪、この湯石を大切にするんだよ。わかったね?」

「だから、一体あんたはなんなんだよ……」

「今は、秘密。今はね。でもまたきっと会いに来るから。待っててね、僕の花嫁」

「花嫁……?」

「うん。凪は僕の可愛い花嫁。絶対に迎えに来るから、その時は湯玄ではなくて僕を選ぶんだよ? じゃあ、その日まで……」

 先程までの冷たい表情は影を潜め、また人懐こい笑みを浮かべる男を、凪はただ茫然と見つめることしかできない。

 凪は懐から湯石を取り出した。先程のような眩い光は放っていないものの、まだ素手で触ることを躊躇ってしまうくらいの熱を持っている。

「意味がわからねぇ。花嫁ってなんなんだよ……」

 いつの間にか空からは雪が舞い落ちてきている。湯石の上に落ちた雪の結晶が音もなく消えていったのだった。



 凪が客室の掃除を終え玄関に戻った時、「凪、ちょっとこっちに来なさい」と父親に手招きをされる。父親に呼ばれる理由をわかりきっている凪は、思わず俯く。すぐにでも父親の元へと行かなければならないと頭ではわかっているのに、まるで足に根が生えてしまったように動かないのだ。

 それは、凪の体が無意識に拒絶しているようにも感じられる。

 しかし、自分を悲しそうな顔で見つめている父親は、もはや一人で立っていることさえできないようだ。母親に支えられてようやく布団から起きてくることができたその姿は、以前元気に店を切り盛りしていた頃の面影なんて全くない。

 源泉が干からびていくごとに、凪の父親はどんどん衰弱していった。

「わかった、父さん。今行く」

 凪は静かに頷く。こんな父親の姿を見ていることが辛かった。

 ――だからと言って、今更……。

 凪の心が行きつ戻りつする。しかし、どうしたらいいのかなんて凪にはわからなかった。



 父親に連れて行かれた大広間には、長老をはじめ、大勢の村人たちが集まっていた。そのただならぬ雰囲気に凪は眉を顰める。広間に入ることを躊躇っていると、長老が「そこに座りなさい」と声をかけてきた。

 両親のほうを見ると、悲しそうに笑いながら凪に向かって静かに頷いて見せる。

 ――これじゃあ、逃げられない。

 凪は大きく息を吐きながら、広間の畳の上に座った。

 これから、どんな話し合いが行われるかなんてわかっている。「ふざけんなよ!」と今すぐこの場を立ち去りたい思いをぐっと耐えた。両親の面目を潰すわけにはいかない。

「凪よ、今朝湯玄様の遣いが私の元へ来た」

 ――あぁ、やっぱりこの話か……。

 凪は膝の上で拳を握り締める。唇を噛み締めたまま長老の顔を凝視した。

「湯玄様は、もう一度凪を花嫁に迎えたいと仰っておる。なぁ凪、もう一度だけ、湯玄様の元へ嫁いではもらえないだろうか?」

「なんだって?」

「お前も知っての通り、湯花神社の源泉は今にも枯れてしまいそうなほどだ。このままではこの村から温泉は消え、福寿村のように廃れてしまうことだろう」

 藁にもすがる思いで自分を見つめる長老の姿に吐き気がしてくる。凪が「出来損ないの花嫁」とどんなに陰口を叩かれても、長老は凪のことなど守ってはくれなかった。それなのに、今更なんだというのだろうか?

「頼む凪、この通りだ!」

「お願いします、凪!」

「凪! この通りだ!」

 長老が凪に向かい頭を下げたのが合図だったかのように、その場にいる村人たちも一斉に凪に向かって深々と頭を下げる。その中には、凪に面と向かって悪口を言った者まで含まれていて……その光景を見た凪に虫唾が走った。

「あんなに俺のことを出来損ないって馬鹿にしてきたくせに、なんだよ、この手平返しは……」

「凪、それは本当にすまなかった! この通り謝る! すまなかった!」

 凪は悔しさのあまり頭に血が上ってしまう。今更謝られたところで、許せるはずなどない。涙が溢れ出しそうになり、慌てて着物の袖で拭った。

 両親に視線を向けると、憐れみを含んだ視線を自分に向けている。

 湯滝村と椿屋を守るためには、自分が湯玄の花嫁になるしかないなんて、凪はわかりきっているのだ。両親を困らせたくない、という思いだってある。

 それでも、凪は許せなかった。自分のことを「出来損ないの花嫁」と馬鹿にした村人たちも。凪に「四年間待ってやる」と言いながらも、遊女に囲まれて満足そうに笑っていた湯玄のことも……。

「許せるわけねぇだろうが?」

 凪はカッと目を見開いて拳で畳を殴った。その瞬間、空気がビリビリと震えて、その場を静寂が包み込む。

「俺は湯玄様の花嫁になるのなんて、二度とご免だ。悪いけど、他を当たってくれ」

「しかし、凪……」

「長老、すまない。俺は出来損ないの花嫁だから」

「凪、凪、待ってくれ!」

「俺は許せないんだ。俺のことを馬鹿にしたあんたたちも、俺のことを追い返した湯玄様も……」

 そう言い残すと、凪はその場を立ち去る。「凪、どこに行くの!?」という母親の悲痛な叫び声に後ろ髪を引かれたけれど、振り返ることはしなかった。両親がどんな顔をしているのか、見るのが怖かったから。

 凪が今してしまったことは、自分本位な考えであって決して許されるはずなどない。そんなことはわかりきっているのだ。それでも、凪は自分自身の心と上手く折り合いをつけることができずにいた。

 今頃、両親は村人たちに非難されてはいないだろうか? あの場に残してきてしまった両親のことが気がかりではあったけれど、今更引き返すこともできない。凪は、今度こそ帰る場所さえも失ってしまったかもしれないと、湧き上がる怒りや悔しさとは反比例して、一方の気持ちは沈んでいく。

 村にかかる橋の欄干に寄りかかり、下を流れる温泉を見つめる。凪はこうして幼い頃から、ずっとこの川を見守ってきたのだ。

 川の湯量は月日が流れるごとに減っていき、遠くから聞こえてくる湯花神社の滝の音も、耳を澄まさなければ聞こえない程小さな音になってしまっている。源泉が枯れるのも時間の問題なのかもしれない。

「凪、大丈夫?」

「母さん……」

「ふふ。相変わらず凪はここから川を見ているのね」

 凪が顔を上げると、そこにはいつもと変わらない笑顔を浮かべた母親が立っていた。自分のことを心配して迎えに来てくれたのだろうか? 凪の心に熱いものが込み上げてくる。

「凪、暗くなる前に帰りましょう? お腹が空いたでしょう?」

「でも、俺は……」

「大丈夫よ。父さんが長老を説得してくれたから。だから、安心して帰ってきなさい」

「母さん……」

「ほら、父さんとおばあちゃんが心配して待ってるわよ」

「うん」

 目頭が熱くなった凪は、手の甲で涙を拭う。

 空には一番星が輝いていて、静かに凪を見守ってくれていた。



 あれから、凪の代わりに村に住む若い娘が花嫁として湯玄に捧げられたと、凪は風の噂を聞く。しかし湯玄が花嫁を迎えに来ることはなく、花嫁に選ばれた娘たちは、翌朝村に帰ってきてしまうとのことだ。

「女が好きなんだろう? 選り好みなんかしてんじゃねぇよ」

 そんな噂を聞いた凪は、苦虫を噛み潰したような顔で、湯花神社のほうを睨みつけたのだった。


 ◇◆◇◆  


 村は数日後に執り行われる『湯祭り』の準備に向けて、慌ただしい雰囲気に包まれていた。湯祭りは年に一回開催される湯滝村にとって大きな行事の一つで、寒い冬に行われる。

 いつも村に温泉を分け与えてくれる湯玄に感謝し、末永い村の繁栄を祝う祭りだ。祭りのときは湯花神社を綺麗に飾り付け、源泉までに向かう小道には所狭しに提灯が置かれる。夜になると出店が境内の中で賑わい、花火職人が一年かけて作った花火が盛大に打ち上げられるのだ。

 凪は幼い頃から両親に連れられ、湯祭りを訪れた。湯祭りの近辺は湯滝村を訪れる観光客も増え、一気にお祭りの雰囲気に村全体が包まれる。

 提灯の柔らかな明かりに照らされた源泉は、青い光を放ち神秘的でとても美しい。この頃の凪は、まさかこの源泉が干からびてしまう……などと考えたことなどなかった。

 凪が花嫁になることを拒否してから、数人の娘が湯玄の花嫁になるべく湯花神社へと向かっているようだが、その後も花嫁として湯玄に迎えられた娘はいないようだ。そんな話を聞いてしまうと、凪は罪悪感に胸が痛む。

 もし、源泉が本当に枯れてしまったら、それは自分のせいだろうか? 自分の我儘で源泉を枯らしてしまい、椿屋を廃業へと追い込んでしまうことになったら、自分はどうしたらいいのだろうか? 堂々巡りするこの考えは、凪を酷く憂鬱にさせた。

「でも、こんな中途半端な気持ちで、湯玄様の元には嫁げない」

 そんなことを思っている自分に気が付いたとき、想像以上に純粋な思いで湯玄のことを好いてしまっていることに気付かされて、凪の心は余計に苦しくなる。

「いっそのこと、この村から出て行こうかな」

 ふと頭を過る思い。凪は源泉だとか、椿屋だとか、花嫁だとか……全てから逃げ出してしまいたいと思うこともある。それと同時に優しい両親と祖母、そして椿屋の使用人の顔を思い出してしまうのだ。皆誰も凪にとって大切な人たちばかりで、その人たちを置いてこの村を出るなんて、凪にはできるはずなんてない。

 凪は大きく深呼吸を繰り返して、余計な考えを頭から叩き出したのだった。

 


 祭りの準備は着々と進んでいる。つい最近は客足も減り、村全体が寂しい雰囲気に包まれていたが、そんな湯滝村にも祭りのときばかりは活気が戻りつつあるように感じられて、凪は嬉しかった。

「やっぱり祭りってワクワクするなぁ」

 凪の表情も自然にほころんでしまう。もしかしたら観光客も少しずつ戻って、湯滝村も以前のような賑わいを取り戻してくれるかもしれない。そんな淡い期待が胸を掠めた。

 祭りの準備で凪に割り振られたのは、湯花神社の神殿の掃除だ。「神殿を隅々まで掃除して来い」と長老に言いつけられたときは、正直気が重かった。もしかしたら、湯玄が自分を迎えに来てしまうかもしれない……そんな不安を感じたから。でも今思えば、それが長老の狙いだったのだろう。

 凪は朝早くから箒と雑巾、それに大きなたらいを持って湯花神社へと向かった。

「おはよう、紅さん。青さん」

 まずは湯花神社の入り口に座っている、二匹の狛犬に挨拶をしてから、心を籠めて綺麗な布で拭いてやる。最後に温かいお湯で汚れを流してやれば、嬉しそうに笑っているように見えた。

「よかった、綺麗になった」

 そんな二匹を見て、凪はにっこりと微笑んだ。



 それからたらいに温泉を組んで神殿に向かう。長いこと巫女が住んでいない神殿は埃がうっすらと溜まっていた。

 凪がこの神殿を訪れたのは、湯玄に追い返された日以来だ。もうここに来ることなんてないと思っていたし、そもそも長老に掃除を言いつけられなければ、来ることもなかっただろう。凪にとって、この神殿は苦い思い出しかなかった。

「よし、やっちまうか」

 凪が腕まくりをして神殿の戸を全て開け放とうとした時。ふと、湯石が熱くなるを感じる。湯花神社の近くにある滝の音が、少しだけ大きくなった気がした。

「凪」

 ふと誰かに名前を呼ばれた気がして思わず振り返る。もしかして……凪の心臓の鼓動が少しずつ速くなった。

「凪、待っていたぞ」

 その声を忘れるはずなんてない。低くて優しい耳ざわりのいい声。凪の心を甘く震わせるのだ。

 それは、ずっと会いたかったのに、二度と会いたくない愛しい者の声。凪の体は、まるで凍り付いてしまったかのように動かなくなってしまった。

「来い、凪」

「え?」

 突風が吹き荒れたと思った瞬間、何か温かなものに抱き抱えられた凪の体がふわりと宙に浮く。状況を把握する間もなく、凪は声の主に連れさられてしまったのだった。


 ◇◆◇◆


 気が付いたとき、凪は源泉にいた。相変わらず卵が腐ったような匂いが立ち込めているその場所は、凪が初めて湯玄と出会った場所である。

 ただあの頃と変わってしまったのは、源泉から湧き出ている温泉は今にも止まってしまいそうな程少ない。

「おい、凪よ」

「は?」

 突然頭上からした声に凪は思わず顔を上げる。その声は固く、明らかに怒りを含んでいた。凪の視線の先には、憤怒した顔の湯玄が凪を睨みつけていた。

 凪はと言えば、湯玄に強く抱き抱えられ身動きをとることもできない。「いつもいつも子供みたいに抱き抱えやがって!」と文句の一つでも言ってやろうと凪が口を開いた時、湯玄の怒気を含んだ声が聞こえてきた。

「なぜ私の元へ嫁に来ない?」

「……はぁ? ふざけたことを言ってんじゃねぇよ! 四年間待つなんて言いながら、遊郭で女に囲まれながらニヤニヤしてたのはどこのどいつだ⁉」

「なんだ? やっぱりあの時気が付いていたのか」

 湯玄は大声で喚き散らす凪のことを見て、煩わしそうに大きな溜息をつく。

「それは誤解だ。私は遊郭に女を買いに行ったわけではない」

「誤解だと? じゃあ、遊郭に飯を食いに行ったとでも言うのかよ⁉ とにかく放しやがれ!」

「なんだ? 其方、もしや妬いているのか?」

「な、何言ってんだよ⁉ いいから離せ‼ 俺は嘘つきが大嫌いなんだよ‼」

「おい、こら。そんなに暴れるな! 落としてしまうだろう」

 なんとか湯玄から逃れようと、凪は顔を真っ赤にしながら手足をばたばたさせて抵抗を試みる。湯玄と長く一緒にいてはいけない……凪の本能がそう警笛を鳴らした。

 きっと湯玄の腕の逞しさや、温もりを思い出してしまったら、また彼に絆されてしまう……そう思えてならなかった。

「あの時四年間待ってくれるって言ってたじゃん!? それなのに、なんで女の所になんか行くんだよ? あんた、やっぱり女のほうがいいんだろう?」

「それは違うぞ。現にこうして四年後に迎えに来たではないか?」

「いい女が見つからなかっただけだろう?」

「だから、違うと何回も言っているではないか……」

 これでは堂々巡りだ。湯玄がわざとらしく大きな溜息をつく。そんな姿が、更に凪をイライラさせた。

「……俺は初恋だったんだ。それを踏みにじった奴の花嫁なんかになりたくはない」

「初恋、か……。其方は変わらず可愛いな」

「な、なんだよ、それ……」

 湯玄がフワリと微笑んだものだから、凪は言葉を失ってしまう。湯玄は悔しいけれど、見惚れてしまいそうな程容姿端麗だ。あれから四年もたったけれど、その姿は全く変わっていない。湯玄はあの時と変わらず、美しいままだ。

 そんな笑顔を向けられてしまえば、何も言い返すことなんてできるはずがない。頬が少しずつ熱を帯び始めた凪は、思わず湯玄から視線を逸らした。 

「其方も見てわかる通り、源泉が枯れ始めている。源泉を復活させるためには、花嫁の生気が必要だ。だから凪、私の元へ嫁に来い」

「だから嫌だって言ってんじゃん!」

「本当に強情な奴だ。手遅れになるぞ?」

「どっちが強情だよ? あんたは強情な上に女たらしだ」

「其方は……私は仮にも湯の神だぞ?」

「神だと? 悔しかったら源泉を今すぐ元通りにして見せろよな」

 凪が湯玄を睨みつければ、口角を上げて「くくっ」と愉快そうに笑った。そんな余裕に満ち溢れた姿に、凪は憤りを感じてしまう。

「ならば、私が椿屋に出向くとしよう。花嫁を貰い受けにな?」

「あんたが椿屋に? 湯の神が人里までおりて、花嫁を貰いに来るなんて、聞いたことがねぇよ」

「仕方がないだろう? 誤解をしている花嫁の機嫌が直らないのだから、私が直々に出向くしかないだろう?」

「馬鹿言うな! 大体、神様が人の世界におりてくるなんて……あり得ないだろう?」

「そうでもないぞ? 私が椿屋にいれば、きっと面白いことが起こるはずだ」

 面白いことってなんだ? 凪がそう湯玄に問いかけようとした時、頬に湯玄の温かな吐息がかかる。「凪」と名前を呼ばれたから咄嗟に顔を上げると、満面の笑みを浮かべた湯玄と視線が絡み合う。

「今すぐ源泉を元通りにすることはできないが、少しの間だけなら温泉の量を増やすことはできる」

 そう耳打ちされた凪は、くすぐったくて思わず肩を上げた。頬にそっと湯玄の唇が押し当てられる。

 あ……と、思う間もなく、凪の唇と湯玄の唇が柔らかく重なった。その温かくも甘い感触に、凪の心臓が高鳴る。咄嗟に湯玄の唇から逃げ出せば、追いかけられていとも簡単に捕まってしまう。凪は、無我夢中で湯玄の口付けを受け止めた。

 その瞬間、湯石が一気に熱を持ち赤い光を放ち始める。それと同時に、地響きが起こり大地も大きく揺れ始めた。

「来るぞ、私に捕まっていろ」

「来るって何が……わぁぁぁ‼」

 ゴゴゴゴッと何かが突き上げてくる感覚と共に、間欠泉が勢いよく吹き出した。辺りは一瞬で湯煙に包まれ、肌が焼けるように熱くなる。息苦しくて、体中が燃えるように熱い。凪は必死に酸素を求めて口を開いた。

「凪、私から離れるな」

 まるで自分を守るかのように強く抱き締めてくれる湯玄に、凪は必死にしがみついた。不思議なことに、湯玄に体を寄せた瞬間、息が楽にできるようになり、燃えるような熱さもすっと消えていく。嘘のように体が楽になった凪は、そっと湯玄から体を離し、その顔を見つめた。

「すごいな、口付けだけでこの威力か」

「これ、湯玄様と俺の力……なのか?」

「そうだ。口付けから、お前の生気を吸い取ったのだ」

 凪が辺りを見渡すと、源泉からは以前のように湯がとめどなく溢れ出し、滝は囂々と大きな音をたてながら滝壺めがけて落ちている。久しぶりに感じた硫黄の香りを、控えめに吸い込んだ。

「今日は、口づけだけで我慢してやる。でも、いつかお前を抱いてちゃんと生気をいただくからな」

「だ、抱く……⁉」

「そうだ。其方は私の花嫁だ。夫が花嫁を抱くのは当然だろう?」

 凪は恥ずかしさのあまり目を泳がせると、形のいい湯玄の唇が視界に飛び込んでくる。薄くて椿の花ように赤い湯玄の唇は、温かくて柔らかかった。初めて経験した口付けに、凪は胸の高鳴りを抑えることができない。

「其方、口付けは初めてだったか?」

「……うん……」

「そうか。其方は何から何まで可愛らしいな」

 湯玄が愛おしそうに微笑んでから、凪の頬に自分の頬を寄せる。

「其方を貰いに、椿屋に出向く。それまで待っておれ」

 凪の耳元で、湯玄がそっと囁いたのだった。



 翌朝、目を覚ますと見慣れた天井が広がっていた。凪はいつの間にか椿屋へと戻ってきていたようだ。

「ん、朝か……」

 閉じられた障子から、うっすらと朝日が差し込んでいる。近所の鶏が朝も早くから元気に鳴いている様子が聞こえてきた。

 昨夜の出来事は夢だったのだろうか? 自分は本当に湯玄と口付けを……。

 嫌にはっきりとその情景が頭の中に浮かんできたものだから、恥ずかしくなった凪は、頭から布団を被ろうとした。

「ん? なんだ?」

 その時、凪は自分が温かなものに抱き締められていることに気付き体を強張らせた。凪は逞しい腕を枕に、その者の腕の中で今まで眠っていたようだ。

 恐る恐る自分を抱き締める者の正体を確認すると、それは気持ちよさそうに眠っている湯玄だった。

 ――なんで、俺は湯玄様と一緒に寝ているんだ?

 困惑した凪はひとまず湯玄の腕から抜け出そうと体を起こした瞬間……力強くて、温かな腕の中に再び囚われてしまう。凪が湯玄の様子を窺うようにそっと顔を上げれば、そこには目を疑う程美しい男が自分を見つめて微笑んでいた。

「何をそんなに驚いているんだ? 其方を貰いに行く、と約束しただろう?」

「あれって、本当だったのか?」

「当り前だ。私は嘘つきなどではない。約束はきちんと守る主義なのだ」

「だからって、こんなこと……」

「ふふっ。照れている姿もまた愛らしい。さて、顔でも洗ったら、其方の両親に挨拶に参ろう」

 そう言いながら湯玄は楽しそうに微笑んだが、凪にはこの状況が理解できていなかった。

 着物は乱れていないから、きっと一線は超えていないはずだ。とりあえず凪はほっと胸を撫で下ろす。かと言って、自分の煎餅布団に湯玄と二人きりでいるということが、凪には理解することができないのだ。

「両親に挨拶って?」

「ん? 花嫁を貰いにきたんだ。両親に挨拶をしなければ、失礼に値するだろう?」

「そ、それって……」

「お宅の息子さんを私にください、と、頭を下げるんだよ」

 ふぁ……と呑気に大きな欠伸をしている湯玄の顔を見て、凪は唖然としてしまう。

 このとき気付いてなどいなかった。凪の運命が大きく動き出していたことに……。



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