二、伝説の巫女
昨夜まで降り続いていた雪がやみ、軒先や道端に積もった新雪が朝日を浴びて輝いている。
「じゃあ、母さん、いってくるね」
「いってらっしゃい」
椿屋を出ると身を切るような風の冷たさに思わず身震いをする。凪の吐き出す息がまるで湯煙のように空へと昇っていった。
「あー、寒い!」
凪の両親が宿屋の客に朝食を振舞っている間に、家族の汚れ物を洗濯するのが凪の役目だった。
湯花神社の源泉から沸き上がった温泉は、神社の境内を通って村の真ん中を流れる川となる。
湯滝村はその川を境に左右に分かれていて、赤くて大きな橋が二つに離れた村を繋いでいた。橋は川にいくつも掛けられており、両端には温泉宿に土産物屋、飲食店が所狭しに立ち並んでいる。
昼は美味しい食事に舌鼓を打ち、美しい街並みを眺めつつ温泉で疲れを癒す。湯花神社へと足を運ぶ旅人も多い。夜になると、飲み屋が賑わいを見せる。店先に並べられた提灯に火が灯ると村の雰囲気は一変し、それは幻想的な世界となった。
凪の両親が営む椿屋は、湯滝村の中でも古く、いつも多くの客で賑わっていた。
湯滝村の温泉は青色をしているのが特徴だ。それは晴れ渡った空のように美しく透き通っている。つるつるした手触りで、疲労回復、神経痛に効果があるとされており、その効果を期待して遠くから湯を求めてくる客も多い。
しかし、そんな湯滝村に大きな変化が訪れている。
それは昨年の夏の出来事だった。湯花神社から湧き出る温泉の量が徐々に減ってきたのだ。
湯の温度も下がり、湯花神社を包み込んでいた湯煙はいつからか消えてしまった。湯滝村を流れる川の水位も下がり、硫黄の香りを放ちながら豊かな湯量を称え、飛沫を上げ流れる光景を、今は見ることができない。
そのせいか、村を訪れる旅人の数は減り、椿屋も少しずつ宿泊客が減っている……。なにもそれは椿屋だけではなく、湯滝村全体に言えることだろう。
直接両親から聞いたわけではないが、凪は幼いなりにそれを感じ取っていた。
「源泉から湧き出る温泉がどんどん減ってきているではないか!?」
「一体どうなってるんだ? このままでは源泉は枯れてしまう……」
「そうだ、巫女は? 湯花神社にいる巫女は一体何をしているのだ⁉」
その頃から、村人たちが顔を突き合わせて討論をしている場面をよく見かけるようになった。そんな光景を見た凪は、大の大人たちが一体何を喚いているんだ……と冷ややかな視線を送っていた。
村人たちは口々に「源泉の湯の量が減ったのは巫女のせいだ」と声を荒げている。凪は大人たちの言う、巫女というものがよくわからなかった。
「なぁ、ばあちゃん。湯花神社には巫女さんがいるのか?」
「あぁ、巫女様ね。いるわよ。湯玄様と一緒に、源泉を守ってくれているの」
「そうなんだ……」
一生懸命漬物を漬けている祖母に問うと、祖母が嬉しそうに微笑む。それから、凪に湯花神社にいる巫女の話をしてくれたのだった。
湯滝村には古くから伝わる「しきたり」があるらしい。
このしきたりを凪が初めて知ったときには、なんだ、それ……と眉を顰めたことを今でも覚えている。そのしきたりとは、決して気持ちのいいものではなかったのだ。
湯滝村に伝わるしきたりとは、二百年に一度源泉が枯れるのを防ぐために、村で一番美しい若い娘を湯玄に「花嫁」として捧げる……というものだ。花嫁に選ばれた娘は湯玄の元へと嫁ぎ、体を差し出すことで生気を貢ぐことが役目とされている。
花嫁を差し出すことで、湯玄は湯滝村に湯を授ける……これが古来より引き継がれている湯滝村の伝統なのだ。
役目を終えた花嫁は湯花神社に戻り、巫女としてその一生を終えることとなる。湯玄とまぐわい神力の影響を受けた巫女は、普通の人間より長く生きることができるとされていた。
祖母から巫女の話を聞いた凪は、伝説の巫女と呼ばれる存在が気になってしょうがない。
――巫女ってどんな人なんだろうか?
凪は、どうしても一目巫女を見たいと思い立ち、神社の本殿へと向かったことがある。
凪が湯花神社の本殿を覗き込むと、薄暗い部屋の中にはいつも一人の女性が座っていた。その不思議な佇まいに、はじめは声をかけることもできず、逃げ帰ったりして。
またある日、やはり気になっていた凪は本殿の中に彼女を見つけるものの、どうしたらいいかわからず立ちすくんでしまう。すると、見ず知らずの凪に対し彼女は、「よく来てくれたわね」とまるで旧知の友にかけるような優しげな声で、迎えてくれたのだった。
彼女の凛としたよく通る声に、凪は感動さえしてしまう。声からして、凪よりだいぶ年上なのかもしれない。
びっくりしてしまった凪は、それ以上まともな会話なんてできなかったけれど、自分に向かい微笑んでいるだろう女性の面影にどことなく寂しさを感じたのだった。
それから凪は巫女の元へと通うようになる。凪が「お邪魔します」と声をかけると「また来てくれたの?」と、本殿の奥から嬉しそうな声が聞こえてくる。それからというもの、凪は巫女と他愛のない会話を楽しむようになった。
凪が生まれた椿屋のこと、凪が好きなお菓子のこと……巫女はまだ幼い凪の話をとても楽しそうに聞いてくれる。両親はとても忙しく、一人で過ごすことが多かった凪にとって、巫女は友達のような親しい存在に感じられた。
「凪は不思議な力を持った子ね?」
「え? 不思議な力? そんなの感じたことはないけど……」
「まるで湯玄様に近い……そんな力を持っているように感じられる」
「湯玄様に? じゃあ俺ってすごい!?」
「ふふっ、そうね。凪はきっとこの湯滝村を救う力を持っているのかもしれないわね」
薄暗い本殿にいる巫女の表情はよく見えないけれど、とても楽しそうに笑っているように感じる。そんな巫女と会話をすることが、凪はとても楽しかった。
それと同時に、巫女の元を訪れる度に心が締め付けられる思いがする。この人は、湯玄様のお嫁さんになったんだ……そう考えると、もやもやしてしまうのだ。
自分は男だから巫女になることはできない。凪は目の前にいる巫女に嫉妬してしまう。それでも、どこか寂しそうな巫女の元へと、凪は通い続けたのだった。
季節は巡り冬を迎え、年を越した今も湯量は変わらず少ないままだ。
凪はたくさんの洗濯物を抱え、橋の下を覗き込む。
相変わらず鼻をつく硫黄の香りに、むわっと立ち上る湯煙。それでも、明らかに川を流れる湯量は減ってきている。凪はそれがとても悲しかった。
「あ、そんなことより洗濯しないと」
凪は慌てて洗濯場へと向かう。
凪が普段洗濯している場所は、川から引いた温泉が溜められている炊事場だ。湯滝村は温泉があるため、冬でも洗濯や炊事で冷たい思いをすることはない。とても恵まれた環境なのだ。
洗濯をするときも、汚れた食器を洗うときも手がかじかむこともない。これも一重に、湯玄様のおかげなのだと思えば、凪の心は熱くなる。
「もう一度、湯玄様に会いたい」
凪はいつもそう思いながら、過ごしてきた。それでも、両親や祖母の言いつけを守らなければと思うと、一人で源泉に行くことなどできるはずもない。
「会いたい。もう一度、会いたい」
凪の小さな声は、再び降り始めた雪が静かに掻き消していった。
◇◆◇◆
しかし、そんな巫女との別れは突然訪れる。
それは凪が十三になった年の出来事だった。まだ生きることができるはずだった巫女が、突然息を引き取ったのだ。
巫女は役目を終えてから二百年近く生きるとされているのが、その巫女が神社に戻ってきてからまだ五十年もたっていない。その早すぎる死に、村中がどよめきたった。
「なぜ巫女が亡くなったのだ。あまりにも早すぎるではないか?」
「巫女の死と湯量が減ったことと、何か関係があるのだろうか?」
「また新しい花嫁をたてなければ……湯玄様がお怒りになってしまう……」
「そうだ。湯玄様のお怒りを買えば、源泉が枯れ果ててしまう。早く新しい巫女を!」
村人たちは予想もしていなかった巫女の死に戸惑いつつも、早くも新しい花嫁をたてることへ躍起になり始めている。
巫女の葬儀は厳かに行われたが、凪は悲しかった。あんなに優しかった巫女が死んでしまったことを、凪は受け入れることができなかったのだ。
巫女の葬儀が終わった数日後。
椿屋の大広間に若い娘が集められ、新しい花嫁を決める話し合いが行われる。凪はその場の雰囲気に圧倒されながらも、固唾をのんでその様子を見守っていた。
花嫁は若く美しい娘でなければならないのなら、凪はどうあがいても役にたてそうにない。
大人たちは皆、目を真っ赤にして、誰を次の花嫁にするか討論を始める。それも無理はないだろう。巫女が亡くなってからというもの、源泉から湧き出る温泉は目に見えて減ってきているのだから。
「誰か花嫁に志願する者はいないのか⁉ この湯滝村を守るためにその身を捧げるのだ。こんなに光栄なことはないだろう!」
「馬鹿を言うな! ここまで手塩にかけて育ててきた娘を、いくら湯の神といってもやすやすと捧げられるはずなどないだろうが⁉」
「ではどうしたらいいのだ⁉ このままでは源泉は枯れ果てて、湯滝村は廃れていってしまう。あの
福寿村という村の名前を、凪はこのとき初めて聞いた。だがそんなことより、大勢の大人と年頃の娘が一堂に集まり、口論している姿を見ているのは辛かった。
凪の父親など、膝の上で拳を作り俯いたまま顔すら上げられないでいる。そんな父親の姿も酷く痛々しい。
きっとこのまま花嫁を捧げなければ湯玄の怒りを買い、源泉は枯れ果ててしまうだろう。そうなれば、きっと椿屋も大打撃を受けることになる。
先代からずっと引き継がれ、両親が大切に切り盛りをしてきた椿屋が廃業になってしまう……そう考えるだけで、凪の心が締め付けられるように痛む。
――どうしたらいいんだろう。俺にできることは……。
凪は唇を噛み締める。
先程まであんなに罵倒が飛び交っていた大広間が、うって変わって恐ろしいほどの沈黙に包まれていた。
花嫁に自ら志願する者などいるはずもない。その静けさがビリビリと痛いくらいに感じられた。
――ならいっそのこと俺が……。
凪は拳をギュッと握り締めてから、深く息を吸う。そして静かに目を開いた。
幼い頃から凪は美形だと評判だ。まるで天女のように美しいと、皆がその容姿を称賛する。
――俺は男だけれど、花嫁になれないだろうか? もし俺が花嫁になることができたら、もう一度湯玄様に会える。もう一度会いたい、あの人に……。
凪の心が固まった瞬間だった。
「俺が湯玄様の花嫁になる」
「なんだと……」
その言葉に、一斉に自分に視線を向けられたのを感じる。その視線が痛くて、凪はその場から逃げ出したくなる衝動を必死に堪えた。
自分がどんな無謀なことを言っているのかなんてわかりきっている。「馬鹿なことを言うな!」と罵倒されることが怖くて、凪はぐっと奥歯を噛み締めた。
凪だって花嫁になることが不安で仕方がない。なぜなら凪は男だし、まだ十三歳になったばかりの子供だ。
それでも、自分が生まれ育った村を守りたかったし、湯玄にも会いたかった。
遠くには、目を見開き「信じられない」といった顔をしている父親がいる。その場が一瞬でどよめきだした。
「お、俺は男だけれど女みたいに綺麗だってよく言われるから、もしかしたら湯玄様に気に入ってもらえるかもしれない……」
言葉を紡ごうとするのだが、唇が震えて言葉にできないし、呼吸も上手くできなくて息苦しい。凪は着物の袖を力いっぱい握り締めた。
「だから俺が花嫁になる。そして、俺が湯滝村を、椿屋を守ってみせる。絶対に湯玄様に気に入られてみせるから!」
凪は目にいっぱいの涙を浮かべて、その場にいる村人たちを見渡したのだった。
「馬鹿なことを言うな! 凪は男だし、まだ子供だぞ! それこそ湯玄様のお怒りを買ってしまう」
「……いや。確かに凪は男だが、この村で一番美しいと言っても過言ではない。もしかしたら湯玄様も凪を気に入ってくれるかもしれない」
その時、そのやり取りを黙ってみていた湯滝村の長老が口を開く。村人たちの視線は一斉に長老へと向けられた。
「凪を花嫁にしよう」
もう一度、その言葉を噛み締めるように長老が言葉を紡いだ。
「そうだ! 凪を花嫁にしよう!」
「凪に決まりだな!」
長老の言葉に、皆が一斉に賛同した。長老の意見に反旗を翻すことができる者など、この村にはいないのだ。
そんな中、凪はそっと父親に視線を移す。凪は花嫁に志願することを父親に全く相談などしていなかったから、こんな話は寝耳に水だったことだろう。今更ながら申し訳ない思いが込み上げてきた。
凪の父親は目を見開いて呆然としている。しかしここまできて「いや、我が家の一人息子を花嫁になんてできない!」などと言えるはずがない。誰かが犠牲になることでしか湯滝村を守れない今、誰かが花嫁になるしか残された道はないのだ。
「父さん、ごめん」
凪はきゅっと唇を噛み締める。あまりにも強く噛んだものだから、少しずつ血の味が口の中に広がっていった。
凪の父親は最近体調が優れず、使用人に店を預け臥せっていることが増えてきている。いつも顔色が悪く、少しずつ痩せてきてしまっている姿が痛々しい。
きっと、父親の体調が優れない原因は、源泉の湯量が減ってきてしまったからだと凪は感じている。次第に遠退いていく客足に心を痛めた父親が、精神的に参ってしまった……そう思えてならない。
だから、また源泉からお湯が沸きあがるようになれば、椿屋にも客が戻ってくる……そうしたら、きっと父親はまた元気になるはずだ、と凪は願っていた。
「よし、花嫁は凪に決まりだな」
「頼んだぞ、凪」
「……わかった」
村人たちからの視線を痛いほどに感じながら、凪は大きく頷いたのだった。
◇◆◇◆
凪が花嫁に志願してから、慌ただしく時は過ぎていった。
我が子が湯玄の花嫁に決まったことを知った母親は、泣き崩れてしまう。まさか、男の凪が花嫁に選ばれるなんて夢にも思っていなかったのだろう。
「母さん、俺は大丈夫だよ」
「凪、凪……」
細い肩を揺らしながら泣く母親をそっと抱き締める。祖母は「立派に役目を果たしておくれ」と目にたくさんの涙を浮かべながら笑った。
もしかして、自分はとんでもない親不孝をしてしまったのではないか……そう思えば心が引き裂かれるように痛む。それでも湯花神社に足を運べば、どうしてももう一度湯玄に会いたいと思ってしまうのだ。
この世のものとは思えないあの美しい姿を、もう一度見たい。日に日にその思いは強くなっていく。
神社の本殿を覗き込んでも、そこに巫女の姿はない。凪の心に何とも言えない寂しさが押し寄せた。
凪が花嫁になる準備、とは……凪が女性になる準備でもあった。慌ただしく白無垢が作られているようで、体の隅から隅まで採寸される。凪は、男である自分が花嫁衣裳を着ることが恥ずかしくて、顔を上げることさえできなかった。
そして、凪が一番肝を抜かれたのは夜の営みの勉強だった。湯滝村にある遊郭に招かれ、凪は一番立派な客室へと連れて行かれる。そこで一番人気があると言われている遊女から、床入りの方法や、男を喜ばせる方法などを教えられたのだ。
遊女に押し倒された凪は恥ずかしさのあまり、顔から湯気が出そうになる。部屋中に充満したお香の香りに、艶めかしく微笑む遊女を目の前に、凪は全身の血液が沸騰してしまったのではないか? というくらいの興奮を覚えた。
「いいかい? これから男に抱かれる作法を教えるからね」
「男に、抱かれる……?」
「当り前だろう? あんたは湯玄様のお嫁さんになるんだから。男の腕の中で可愛く乱れる方法を、きちんと学んでおくれよ?」
「は、はい……」
羞恥心から体が小さく震える。遊女の色香にくらくらと眩暈を覚えた。
花嫁は清らかであることが条件であるため、凪が遊女を抱くことはなかったが、逆に男に抱かれる方法を指南される。まだ十三歳だった凪は、その行為に強い衝撃を受けたのだった。
「俺、湯玄様とこんなことはできない……」
頭から布団を被り震えていると、「ふふっ。可愛いわね」と遊女が笑った。
凪が遊郭を訪れた数日後。それは、今にも空が泣き出しそうな寒い日のことだった。
「もうすぐ椿屋ともお別れか……」
凪は玄関に飾られた椿屋の看板にそっと触れた。湯玄の花嫁になる準備は、少しずつ、でも着実に進んでいる。それは、同時に椿屋との別れを意味していた。
「寂しいなぁ」
ポツリと呟くと、涙が零れそうなる。
凪が生まれ育った椿屋は、湯滝村の一番奥に建っている古い宿屋だ。椿屋は檜で造られた木造三階建てで、一階が玄関に食堂、そして大浴場がある。二階と三階は客室になっており、客室からは専属の庭師が丁寧に手入れをしている大きな庭と、見事な鯉が悠々と泳ぐ広い池が一望できる。その美しい景観は、思わず溜息が漏れるほどだ。
屋根に置かれた高価な瓦には雪が降り積もり、大きな氷柱が軒下に垂れ下がる。そんな氷柱が日差しを受け、きらきらと輝いていた。
椿屋の玄関には大きな提灯が吊り下げられ、夜になると明かりが灯される。紅色の大きな暖簾が、近くを流れる温泉の湯煙でゆらゆらと揺れる。そして、可愛らしい姫椿が客人を出迎えてくれるのだ。
正午を過ぎると、今晩宿泊する客がそろそろ椿屋にやって来る時間だ。凪は宿の広い玄関を丁寧に箒で掃く。その宿の印象は玄関で決まる、幼い頃から父親に何度も教えられてきた。
箒の掃き掃除が終わると、今度は玄関の硝子を一枚一枚丁寧に拭いていく。「はぁ」と凪が硝子に息を吹きかけると、息は白い雲となって空へと昇っていく。
そんな吐息を視線で追いかけて空を見上げると、ひらひらと粉雪が空から舞い降りてきていた。
「どうも冷え込むと思ったら、また雪か……」
湯滝村に雪はとてもよく似合う。村の真ん中を流れる川に雪が落ちると、温泉の熱気で一瞬で消えてしまった。真っ赤な橋の欄干にはうっすらと雪が積もり始めている。
店先で咲き誇る姫椿と雪はとても相性がいい。その美しい光景に、凪は思わず目を細めた。
「おい、凪よ」
「……! びっくりした。あんたか……」
「そんなに警戒しなくてもいいだろう? いくらワシだって、湯玄様の花嫁に手を出すほど馬鹿ではない」
そう凪に声をかけてきたのは呉服屋の和助だ。和助は、ことあるごとに気持ちの悪い声を出しながら凪の体に触れようとしたが、凪が花嫁に決まってからはそれもなくなった。
「お前さんの白無垢ができあがったぞ? 言われた通り、打掛に長春色の糸で姫椿の刺繍を入れてやったからな」
「本当か? ありがとう! なぁ、頼んでおいた通り、可愛く仕上げてくれたか?」
「あぁ。可愛らしい娘が着るような白無垢にしてやったさ。しかし、なんでそんなに可愛らしい白無垢にこだわるんだ? お前さんの容姿なら、綺麗な白無垢のほうが似合っているだろうに……」
和助はねっとりとした視線を凪に向ける。その舐めまわすような目つきに、凪は胸が悪くなるのを感じた。
凪は湯玄に嫁入りするときに着る白無垢を、できるだけ可愛らしくしてほしいと和助に頼んだのだ。可憐な少女が身を包む……そんな白無垢がいい、と。
「だってさ、可愛らしい白無垢を着ていけば、もしかしたら男だって気付かれずに床入りができるかもしれないだろう? 一度でも肌を重ねてしまえば、もしかしたら俺に対して情が湧くかもしれない」
凪は先程まで窓を拭いていた雑巾を握り締めたまま、湯花神社の方を仰ぎ見る。
「俺のことを、可愛いとか、愛おしいって思ってくれるかもしれないし……」
こんなことを言っている自分が恥ずかしくなって、凪は思いきり鼻をすする。これでは、好いた男の元へ嫁入りする娘そのものではないか。凪は思わず和助に背を向けた。
「凪よ……」
「ひゃあッ!」
突然和助が腰を撫でてきたものだから、凪は咄嗟に悲鳴を上げた。つい先程凪にはもう触れない、としおらしいことを言っていたものだから、すっかり油断してしまっていたのだ。
「お前さん、いつのまにそんなに色っぽい顔ができるようになったんだ? こんなことなら少々強引にでも手を出しておけばよかった」
「ふざけんなよ、狸じじぃ」
凪が思いきり和助の手を振り払うと、残念そうな顔をしながら凪の顔を覗き込んだ。
「まぁ仕方がない。明日にでも白無垢を届けるから待っておれ」
「本当か? ありがとう」
一体どんな白無垢ができあがったのだろうか。
白無垢を着た自分を、湯玄様は可愛いと言ってくれるだろうか。
不安と期待が入り交じり、凪の心臓が痛いくらい高鳴る。とても嬉しいのに、なんだか照れくさい。
「早く見てみたいな……」
凪は雪が降り続く空を見上げながら、そっと呟いた。
◇◆◇◆
翌日、和助が大きな箱に入れられた白無垢を届けてくれた。桐で作られた立派な箱には、金色の糸で編まれた紐が丁寧に巻かれている。その重厚感漂う雰囲気に、凪は思わず息を呑んだ。
「凪。届けていただいたばっかりだけど、今、開けてみる?」
「うん。そうだね」
心配そうに自分を見つめる母親を心配させてなくて、凪は大きく頷いて見せた。本当は心臓がドキドキして仕方がない。桐の箱に触れる手が小さく震えた。
「よし」
気合を入れて箱を開けた凪は、思わず目を輝かせる。
桐の箱には真っ白な糸で織られた白無垢が綺麗に畳まれて入っていた。
「綺麗……」
白無垢には文字通り「無垢」という言葉が含まれており、花嫁の汚れない純粋さを意味していると言われている。正
今凪の目の前にある白無垢は、真っ白な
真っ白で統一された白無垢は,一本一本の糸まで白で統一されている。白い打掛はかすかに薄桃色に染められており、姫椿の刺繍が施されているが、その精巧さは思わず目を奪われるほどだ。
「可愛らしい白無垢にしてほしい」。そう望んでいた凪は、想像以上の可愛らしい白無垢の出来栄えに、思わず溜息を吐いた。
「まぁ、なんて立派な帯なのかしら」
母親が目を細め、そっと帯に手を伸ばす。真っ白な帯には空色の糸がまるで流れる川のように刺繍されている。それは、湯滝村の真ん中を流れる温泉のようにも見えて……凪の胸は熱くなった。
「本当に、湯玄様の元に嫁に行ってしまうのね」
「え?」
「凪、結婚おめでとう。湯滝村の為に精一杯頑張ってくるのよ」
「……うん……」
目元を真っ赤に染めながら微笑む母親の姿を見ると、凪の胸は締め付けられるように痛む。届けられたばかりの白無垢を見て、浮かれてしまっていた自分が情けなくなってしまった。
「さぁ、お父さんにもこの白無垢を見せてあげましょうね」
母親が白無垢を整えて箱の蓋を閉めようとしているのを、凪は無言で手伝う。
凪の父親はあいかわらず体調が悪く、最近は起き上がることさえ難しくなっていた。どんな医者に見せても原因はわからず、父親を診察した医者たちは揃って首を傾げるのだ。
――この白無垢を着て湯玄様の元に行けば、俺は気に入ってもらえるだろうか?
不安から、心の中にさざ波が立っていくのを感じる。
――源泉が復活すれば、きっと父さんだって元気になる……。
凪はぐっと拳を握り締めて心を奮い立たせる。
もう迷わない。全ては湯滝村の為に。そして椿屋の為に……。
そっと桐の箱に手をのせて、凪は誓ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます