ロマンティストのアザラシ

増田朋美

ロマンティストのアザラシ

寒かったり暖かかったり、どうも最近は極端な天気が続いているようだ。寒いなあと思ったら急に暖かくなったりして、なんだか予測のつかない日々が続いている。

歩ける人であったら、すぐに寒いところから暖かいところへ逃げることも可能なのだろうが、車椅子の蘭にはそうはいかないのであった。車椅子で移動できると言っても、歩ける人と同じように寒い寒いと言って、動くことはできない。

その日、蘭がいつも通り刺青の施術をし終わって仕事場からリビングに戻ってくると、珍しく妻のアリスが戻ってきていて、何故か誰かと電話をしていた。

「はい、ああ、主人ですか。おりますよ。ちょっとまっててください。蘭、山崎さんから電話。」

そういってアリスは、蘭に受話器を渡した。今どき固定電話をつけているとは珍しいなと受話器から聞こえてくる声がする。

「もしもし。」

蘭は、アリスから渡された受話器を受け取った。

「蘭、俺だよ。親友の山崎だ。」

一瞬特殊詐欺のような電話のかけ方であるが、蘭はその時に、小学校のときに同じクラスであった、山崎裕貴だとすぐわかった。

「ああ、裕貴?あんな真面目な優等生だったお前がどうしたの?」

蘭は思わず言ってみる。

「何を言ってるんだ。優等生なんて。お前のほうがよほど頭が良かったじゃないかよ。それよりお前は今どうしてる?たしか、ドイツへ留学して、美術学校で。」

電話の声はそう言っているので蘭は嫌になってしまった。

「まあ美術学校は出たけど、結局仕事できなくて。」

「それで、有名な刺青師の先生に師事できて、刺青師として、いっぱい活動できてるじゃないか。俺みたいにさ、病院で下っ端とは偉い違いだよ。いいなあ。お前はちゃんと、人生やってる。蘭は幸せものだ。」

山崎裕貴は、そんなことを言っているのだった。

「それで、何のようで電話をかけてきたんだよ。」

蘭がそう言うと、

「いやあねえ。ちょっと人生嫌になっちまってさあ。それで、どうしても聞いてほしくて、電話したんだよ。」

電話口で話している山崎裕貴は、とても、楽しそうに話しているのであるが、

「嫌になったって、お前は、有名な病院で働いているんだから、少しのことで泣いたりしないでちゃんと患者さんを助ける仕事をしろ。嫌になったなんて言ってはいけないんじゃないの。」

と蘭は彼に注意するように言った。

「まあ、蘭は、そう言うよなあ。お前は歩けないからさ。どうしても人生のこととか考えちゃうんだろうなと思って電話したんだけど、お前にそういうことを言われるとは思わなかったよ。ごめんねえ。お前に電話なんかかけちゃって。」

山崎裕貴はそう言っているのだった。蘭はその態度が頭にきて、

「お前はとても優秀な医者なのに、そんなこと言うからだめなんだ。」

と言ってしまった。それと同時に、ごめんねと言って電話はブツッと切れた。

「誰から?」

アリスから言われて蘭は、

「僕の小学校で同じクラスだった、山崎裕貴からだ。」

と、答えた。

「あ、なんか聞いたことあるな。看護師をしている友達から聞いたことあるんだけどさあ。顔は良くないけど、性格はめちゃくちゃいいお医者さんだって。だから、看護師や他の関係者からは評判は悪いけれど、患者さん、特に子どもの患者さんからは大人気みたい。」

ということは、山崎裕貴は、かなり有名になっているようだ。

「はあ、子どもの患者さんって言うことは、小児病棟があるのかなあ?」

蘭が聞くと、

「違うわよ。内科だから、子供さんから大人まで色々来るのよ。」

とアリスは、ケラケラと笑った。

「そうなんだねえ。あいつはそんな医者なのか。全然知らなかったよ。僕が知ってる山崎裕貴は、頭が固くて、成績は良かったけど、なんか付き合うには憚られるタイプの男だったから。でも大学に入って、少し変わったみたいで。」

蘭は、頭をかじった。

「大学を出て、山崎は、すごく明るくて、まるでクリニクラウン見たくなっちゃって。確か、2,3年前のとき、突然尋ねてきてね。いきなり大学病院はやめて、地元の病院で働くからって嬉しそうに話していたよ。何を言うのかと思ったら、これからは、大学に閉じこもってるより、地方の病院で頑張るって張り切ってた。そんなやつが悩みを持つとは何事だと思ってさ。全く、あいつも気まぐれで困るわ。」

「何言ってるの。それだけいいお医者さんだってことでしょ。あたしが知っている、山崎裕貴先生は、確かに太っていてアザラシみたいな体型だけど、ダジャレばっかり言って、子どもからは大人気だって聞いた。その先生が、あんたのところに電話よこすんだから、よほど悩んでいるに違いないわよ。だから、話だけでも聞いてあげたらどうなの?」

アリスは、お茶を飲みながら、そう話をした。

「でも、あいつがどこの病院で働いているのか、ちゃんと知らないんだよな。」

蘭がそう言うと、

「私知ってるんだもんね。」

とアリスが言った。蘭がはあと言い返すと、

「吉原の、小嶋病院の消化器内科。あたしのところへ来てる、若いお母さんがそう言ってた。」

アリスはさらりと言った。

蘭は、アリスからそう言われてしまったので仕方なく、小嶋病院へ行ってみることにした。その病院は、大きな日本庭園まで備えている、大規模な病院で、本当に個人病院なのかなと思われるほど広かった。蘭が、消化器内科の、山崎裕貴という医者はいるかと聞くと、受付は嫌そうな顔をして、はいはい、こちらにいますと言って、蘭を、休憩室に連れて行った。

「おう!蘭!来てくれたか!」

でかい声で蘭を迎えたのは、山崎裕貴だった。確かに小学生時代同級生だったので、見覚えはあるが、随分太ってしまったなという印象があった。まあ、蘭が記憶している限りでも、よく太っていて学校一のえびすこと言われていたから、アザラシみたいな体と表現されてもおかしくない。

「お前、どうしたんだよ。変なところで僕を呼び出したもんだな。」

蘭がそう言うと、山崎裕貴は、

「ここじゃだめだから、ちょっと庭に出ようぜ。ああ、もちろん、車椅子は俺が押す。」

と言って、蘭の車椅子を押して病院の中庭に出た。庭には何人か入院患者さんが看護師と一緒に散歩していたが、山崎裕貴に声をかけるのは確かに子どもの患者さんばかりだったし、一緒にいる看護師は、嫌そうな顔であった。

「一体なんで僕をわざわざ呼び出したの?」

蘭は、庭のベンチの近くで車椅子を止めてもらって、そう聞いた。

「いや、見てみればわかるだろ。全く、この有り様でさ。看護師も、他の医者もみんな俺のことは無視ばっかりさ。だから俺、何のために仕事をしているのかわからなくなってしまって。」

と、山崎裕貴は言うのだった。

「何のためって、医者は患者を救うことが仕事でしょ。」

蘭が言うと、

「そうだよねえ。だから、患者さんの前ではできるだけ優しくするように心がけているが、それが、かえって仇になっちまったようなんだ。」

山崎裕貴は真剣に言った。

「どういうことだ。医療ミスでもしたか?」

蘭が思わずそうきくと、

「いやあねえ。実は、この間、女が一人飛び込んで来たんだよ。多分、吉原って言ってたから多分女郎さんとかそういうもんだろうな。様子を見たら、食中毒かなと思ったので俺は彼女に、抗菌剤を投与した。彼女は無事に症状も治まって、無事に帰ってくれたんだけど、それで俺は、他の看護師から、遊女を治療したロマンティストのアザラシと言われてバカにされるようになってしまって。」

と、山崎裕貴は言うのであった。

「はあ、そんなもの関係ないじゃないか。だって、患者を助けることは医者の勤めだろう?それなのになんでいじめられなくちゃいけないんだよ。」

蘭がそう言うと、

「だよな。まあ、院長には気にするなって言われてるんだけど、看護師や、他の医者からはバカにされ続ける一方で、どうしたらいいのかわからなくなってね。俺は一体どうしたらいいか。このままこの病院にいてもなんだか意味がないような気がしてしまったんだ。」

山崎裕貴は、がっくりと肩を落とした。

「そうかも知れないが、お前の仕事は、患者さんを助けることだ。人の噂も75日というだろう。そのうち、女郎さんを治療したことも忘れられるよ。そうすればお前だってまた、医者としてやれるようになるさ。今は、少しの間の辛抱だ。まあ、しばらく我慢しろ。」

蘭はアドバイスのつもりでそう言うが、

「蘭は幸せだな。そういうこと言えるんだから。蘭、お前はドイツに留学して、きれいな外国人の奥さんをもらったそうじゃないか。それだからお前は一人者の悲しいところがわからないんだよ。今は、親の意思で強制結婚させられるような時代じゃないし、女は、男を選べる世の中だから、俺のところには誰も寄り付かないんだよ。誰か、話を聞いてくれる存在がほしいもんだ。あーあ、寂しいなあ。」

山崎裕貴は、そういったのであった。

「そうだけど、事実そうなんだからしょうがない。もし、どうしても誰かに話を聞いてほしいんだったら、カウンセリングに行くとか、そうすればいい。」

蘭が言うと、

「世間知らずだなお前。女はそういう場所がすごくたくさん用意されているが、男が話す場所というのは本当にちょっとしかないんだよ。」

山崎裕貴は否定した。

「カウンセリングルームとかそういうところは、みんな女のために開所しているじゃないか。いのちの電話だって繋がりにくいし、他の電話相談だって、いくらかけてもだめなことのほうが多いよ。だから、この世界、弱い人のために話を聞くやつになろうという人は多いが、それを更に限定して、女性ばかりを狙った商売ばっかりなんだよ。」

「そうだよな。僕のところに背中を預ける人も同じこと言ってた。」

蘭は、そう思い出しながら言った。

「だから、お前に話を聞いてもらおうと思って、電話をかけたわけ。俺、ここで確かに医者として働いてるけど、何もできないよ。重大な患者の治療は、他の医者に回されちまうし、俺が相手にするのは小さな子どもさんばっかりだ。子どもたちは、デブデブに太った先生は優しいからいいなと言ってくれるけどさ。」

「そうか、でも、見方を変えればお前は恵まれていることになるじゃないか。だって子どもの患者さんから、人気があるっていうのは、もしかしたらものすごい特権かもしれないぞ。子どもは嘘偽りが通用しないからね。本当に好きか嫌いかでかかってくるから。その子どもたちから人気があるってことは、お前はそれだけの人徳があり、慕われるってことだから。そこは自信を持って。」

蘭は、山崎裕貴を励ますように言った。

「お前は、いつも言ってたじゃないか。大学病院より、小嶋病院で働きたいって。ここの小嶋院長は大変情け深くていい人だって言ったのはお前じゃないか。大学病院の医者はいつも威張っていて、嫌だ嫌だと言っていたのはだれだ?そうじゃなくて、医者にとって本当に必要な技術、笑顔というものを獲得するために、小嶋病院で働く。そう僕に宣言したじゃないか。それを忘れないで、一生懸命働こうよ。」

「そうだねえ。確かに、大学病院で、研究し続けるのも、本当に、つまらなかったから、こっちへ来たんだもんな。それは俺もよく感じてた。まあ、親には、なんでそんな事を言うのかおかしいんじゃないのって言われたけどな。」

山崎裕貴は、太った顔でにこやかに言った。

「そうだろう。お前は、用意されていた出世街道をみんな捨てて、ここの小嶋病院に来たんだ。まあ、大学病院から来たって言われれば、看護師や他の医者から煙たがれてもしょうがないよ。人間は自分よりも人のほうが良くなると面白くないって言うこともあるから、多少そうなるリスクは有るんだって考えて置かなくちゃ。まあ、今は辛いかもしれないけど、頑張って耐えて、そのうち、そんなときもあったなって思えるときもあると思って、頑張りや。」

蘭は、そう言って山崎裕貴の背中を叩いた。確かに太った背中は叩き心地が良かった。

「そうだなあ。そう思うしかないかあ。まあ、お前はがそういう事言うんだったら、俺も頑張るよ。俺とお前の仲だから、これからもよろしくな。」

山崎裕貴はにこやかに笑った。すると、中庭の入口から、一人の女が、一人の人間を背中に背負って走ってきた。彼女は岳南鉄道の制帽をかぶっていたので、

「由紀子さん!」

と蘭は思わず言った。そこにいたのは紛れもなく今西由紀子に間違いなかった。そして背中に背負われた人間は、紺色に、白い格子柄の着物を着ていて、明らかに銘仙の着物とわかる。蘭はこの人物も誰なのかすぐわかった。

「あ、水穂!」

蘭が思わず叫んだのと由紀子が金切り声で、

「急に倒れてしまったんです!お願いです。止血してやってくれませんか!もちろん、ここに連れてきたら、病院のメンツが潰れるとかそういうことを言われるのはわかるけれど、私、それに負けないくらい、水穂さんが、好きだから!」

と言ったのと同時だった。由紀子の背中に乗っていた水穂さんは、えらく咳き込んでいて、口元が真っ赤に汚れていた。同時に看護師が追いかけてきて、

「あなた、こんなところに入ってこられても困ります。玄関先で待っていろといったじゃありませんか。それなのに勝手に病院の中に入って、中庭まで走っていくなんて。」

と、由紀子に言ったのであるが、待たされたあとどうなるのかは蘭も知っていた。どうせ、銘仙の着物を着ているので、新平民をこちらで受け入れることはできないという答えが待っているのだ。だからそれを聞く前に、由紀子は、中庭に飛び込んだのだろう。

「お願いします!なんとかしてください。このままだと、」

由紀子が水穂さんを背負ったまま、もう一度頭を下げると、

「わかりました。じゃあいきましょう。」

と、山崎裕貴は水穂さんを両手で抱き上げた。それができるくらい水穂さんは痩せて窶れていた。すぐに、彼を処置室に連れて行って、着物を脱がせて聴診し、口元を紙で拭いてあげて、痩せた腕に点滴を一つ打った。それをしてもらってしばらくすると、やっと、咳き込むのは止まってくれたのであった。

「いやあ、これはひどいですな。」

山崎裕貴は言った。由紀子は次に何を言われるか、予想していたらしく、でもそれを言えない顔になってただひとこと、

「ごめんなさい。」

と言っただけであった。山崎裕貴は、由紀子が何をいいたいかわかってくれたらしく、

「黙っています。水穂さんが、そのような事情があることは、誰にもいいません。安心してください。」

と、にこやかに笑っていった。

「本当に言わないでくれますか?」

由紀子は、怒りや悲しみや、嘆きを含んだ表情で言った。その顔は女性でなければできない顔だった。女性が男性を愛しているからこそできる顔だ。

「ええ。黙っていますとも。大丈夫です。」

山崎裕貴は、静かに言ったのであった。きっとこれで彼は更に他の医者や看護師にいじめられるようになることは、明白だったが、蘭はそれを言うことはできなかった。蘭にも水穂さんを助けてほしいという思いがあったのだ。

山崎裕貴は、その思いをわかってくれたのだろう。静かに血液で汚れてしまった水穂さんの顔を消毒液で拭いてくれたのであった。それをしてくれたことで、由紀子は、感極まって涙を流した。

それから数日後。蘭は、山崎裕貴からまた呼び出されて今度は自宅近くの喫茶店に行った。

「俺、小嶋病院辞めることにしたんだ。」

と、山崎裕貴はいう。

「辞める?」

蘭が思わずいうと、

「そうだよ。ほら、あのやせ細ったショパンの生き写しみたいな男を岳南鉄道の制帽被った女が連れてきただろう?あれから俺は、女郎を診察しただけではなく、銘仙の着物を着た男を診察したということで、院長から目をつけられるようになってしまったんだよ。」

と、山崎裕貴は言った。ということは、やはり同和問題は終わっていないなと蘭は思った。

「でも、俺、いいチャンスだと思った。そんなことしか考えない病院なんてどうせ碌なところじゃないんだと知ることができたからな。そういうところだったらこっちから払い下げだよ。」

「そうなのか。で、お前はこれからどうするんだ。やめたあと、なにか対策は取ったのか?」

蘭がそうきくと、

「そうだねえ。他の病院で働くのもいいし、どっかの空き家を借りて、開業するのもいいかなと思ってる。とりあえずは、まず、いじめられて疲れた心を休めることから始めて、それでは少しづつ、やり直していこうかなと思う。」

と、山崎裕貴は言った。

「そうなんだ。お前、すごく男らしい。そうやって決断力があるの、すごく男らしいよ。まあ、時間はかかるだろうが、今度こそお前にあっていて、お前が活躍できる、病院が見つかるといいね。」

蘭は、そういう彼に感動してしまった。

「願わくは、俺の悩みやぐちを聞いてくれる嫁さんがほしいところだけど、まあこの顔じゃ無理だ。どっかのテレビタレントにも似てないし。まあ、それは無理だと諦めて置くかな。」

山崎裕貴はそう言うが、

「いやあ、お前は、銘仙の男を治療してやれるほどの人徳があるんだ。だからそれに惚れ込んでくれる女はいると思うよ。だから、太っているとかこの顔だとか、そういうことは、あまり言わないほうがいいよ。」

蘭は、そう言ってまた、山崎裕貴の背中を叩いて励ました。

「そうだな。まあ、これからも、医者としていきていくよ。とりあえず、大学病院をやめて、出世街道をギブアップしたのは俺だもの。自分で選んだ道だから、俺がなんとかするしかないわな。」

「そうそう。幸いにも、僕らはそういうことができる身分でもあるんだし、それは、できるんだから、頑張ろうな。」

蘭と、山崎裕貴はそう言い合ったが、蘭はなんだか、そんなことを言い合って励まし会えるということは、ちょっと悲しい気持ちにもなった。そういうことができない、いや許されない身分の人間を自分は知っているのだから。

暖かい南の風が吹いていた。もうすぐ、春なのだろう。それは確かに、嬉しいのだけれど、ちょっとだけ違和感があるような気がする。本当に、気がつく人は稀だと思うけど。



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