2.魔王さま、目覚める

 途切れた意識を取り戻したのは、体感——死んだのだから魂感だろうか——一瞬も経たぬ頃。


 死してからでも瞼を開けるという感覚があるものなのかと、アズは感心をしてしまう。何せ、死んだのはこれが初めてだからだ。


 しかし、冥府にしてはどうにも可笑しい。何せ今、アズを誰かが抱えながら、息を切らして走っている——何かから逃げるような動きに、己を抱える存在を助けてやろうと魔術を発動しようとした。


 けれどもそれが成らないことに驚きを表情に描き、つい肩に捕まっている自分の自分の手に視線を落として——更に驚愕することとなる。何せ、彼の手は幼い子供のそれだったからだ。


「あの女、ダンジョンに逃げ込む気だぞ!」

「ハッ、俺たちから逃げたって、そんなところに入っちまえば魔物に食い散らかされてしまいだぜ! なら最期にイイ思いした方が良いんじゃねえのか!?」


 追いかけて来る男たちの下世話な言葉と笑い声が、幼子を抱えて必死に走る存在——女へと浴びせられる。


 思わず眉を顰めてしまいたくなる嫌な声に、それでも女はただただ森の中を走るばかり。


 上下に体が揺れる感覚が少々気持ち悪い。そして、魔力を魔術に変換したというのに出力出来ないもどかしさが歯痒い。そうしている内に、女は洞窟へと飛び込むように入り込んだ。


「ごめんね、ごめんね……!」


 血反吐を吐きそうな勢いで謝る女に、それでも男たちは追うのを止めず——ついには行き止まりへ追い詰められて、女はようやくアズの体とを魔術陣の上に乗せ、背を向けた。


 足はすっかり血と泥で汚れ、疲労からだろう、がくがくと震えている。


 それでも女は二人の子供を守るように立ちはだかり、追いついて来た男たちに——ではなく、その細首にナイフを宛てがう。


「おいおい、そんな脅しが効くとでも思ってんのかあ!? 蝶よ花よと育てられて来たお嬢様が、自分の首かっ切れるわけねえだろうが!」

「いいえ、ここでお終いです。——我が子たち、愛しています。母は、ずぅっとあなたたちの味方ですからね」


 こちらを一瞬だけ振り向いて、首を掻き切った女の体が、ぐらりと横に倒れ込む——それと同時に魔術陣が輝きを放ち、二人の子供を包み込んだ。


 それに焦ったのは、アズでももう一人の子供でもない、男たちだった。


 彼らは女の姿などどうでも良いとばかりに二人の元へ駆け出し、手を伸ばす——が、触れる直前にアズの目の前は真っ白に染まる。


(転移魔術か。……一体何がどうなっている、何故私は幼子になり、女に抱えられて男たちから逃げることになっていたのだ?)


 その問いに答える者はいない。ずっと倒れ込んでいるわけにもいくまいと、体を起こして周囲を見る——そこは、先程の洞窟とは異なる美しい内装が施された、言うなれば玉座の間。


 次に己の体を確かめようと水を作り出し自身の前へと広げる。


 するとそこには、純白の長い髪を持ち、真っ赤な瞳をした——魔王アズ、その幼き頃の姿があった。寸分違わぬそれに、流石のアズも目を見開いてしまう。


 一度深く呼吸をしてから、魔術を解除してもう一人の子供へと歩み寄った。


 顔には布が被さっており、どうやら気絶しているらしい……ならば覗き見ても良いだろう。そっと布を捲ると、そこには見知った顔——いや、面影のある黒髪の子供が目を閉じていた。


(……! 勇者! 一体どういうことだ? ここは我が城でもなくば、見知った場所でもない。こいつから目を離して辺りを確認するのは……いや、気絶している今こそやるべきか)


 静かに布を下ろして、裸足のまま冷たい大理石をぺたぺたと歩く。


 見える範囲では普通の豪華な玉座の間といったところで、感知魔術を部屋全体に広げても何かが引っかかることはない。


 そこで、アズはずっと感じていた違和感と向き合うことに決めた。


 それは自身の体が縮んだけにしては、魔力が馴染んでいないこと——まるで異なる体に魂と魔力を押し込められたかのような違和感が、目覚めてからずっとある。


「……」


 手を広げて、閉じて、また広げる。動作に遅れや違和感はないのだが、けれど違和感はある。何とも形容し難い感覚に眉を寄せつつ、一人玉座へと歩いて行った。


 子供の背丈では攀じ登ることになる高さの椅子なので、足元に空気を固めて階段を作りそれを上る——そうして玉座へと腰を下ろしたのは、今まで王として椅子の形は異なれどそこに座して来た慣れから来る無意識。


 腰を下ろして一息ついたところで、ふと眼前に石版が浮いていることに気づく。


 気配も空気の揺らめきもなく、そこにあるのが当たり前とばかりにあるそれに、誰も触れていないというのに文字が綴られ始めた。


【祝。新たなるダンジョンマスター、我らが王よ。あなたの誕生を待ち望んでおりました】


 それは、見たこともない文字だというのに理解出来る気持ち悪さがあった。


 恐らく体に残る記憶——記録によるものなのだろうが、アズは厳しい顔をする他ない。だが、石版はそれに反応することなく、次々と文を綴り続ける。


【問。我らが王、このダンジョンを統べる方。あなたの望みはなんですか? 富、名声、力、永遠、ここには全てがあります。あなたの望むままにダンジョンは育ちましょう】


 声なき言葉に、背もたれへ背中を預けてから、ふと息を吐き出す。高い天井を見上げて、石版に書かれた言葉を頭の中で反芻した。


(望み。望み、か……、それこそたった今壊されたばかりなのだが。まあ、口に出してみるのも良いのかもしれない。本当に私が望むままに育つというのならば——居心地良く育てよう)


 何が起こっているのか、アズにはさっぱり分からない。ここがどこなのかも、どういった経緯で小さな体になっているのかも、これからどうすれば良いのかも——推定勇者をどうするかも。


 全て一度に押し寄せて来て、正直に言えば勘弁してくれ、というところだ。ようやくゆっくりと冥府で過ごせるようになると思っていたのに、それがこうして台無しにされているのだから。


 ならば、望みの一つや二つくらい、言っても良いのではないだろうか。


 長年願い続けて、終ぞ叶わなかったアズの本心を。誰にも伝えたことのないそれを、ただの石版——ただの、と呼んで良いかは分からないが——になら。


「……自堕落に過ごしたい」


 そう、争いに身を投じることなく、全て他の者に任せて、ゆっくりと過ごしたい。それがアズの心からの願いだった。

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