第7話 平野の灯り

 松田修平は釧路湿原を後にし、国道38号を南へ進んだ。彼の足跡は帯広の平野へと向かっていた。帯広の広大な平野なら追手を遠ざけられるかもしれない。釧路市街を抜け、車道沿いの細道を進むうち、彼は帯広に着いた。空気がどこか現実とずれているような、微かに甘い匂いが漂う街だ。彼は新しい名を呟いた。「中村亮介」。これが次の仮面だ。


帯広の名所「ばんえい競馬」は、世界で唯一の輓馬(ばんば)が重いソリを引く競馬場だ。修平は競馬場の裏手で「臨時作業員募集」の看板を見つけ、管理棟に近づいた。


「お前、誰だ?」と出てきた五十代の管理人・大森はぶっきらぼうに聞いた。


「中村亮介です。仕事探してて、ここで働けませんか」


「春先にこんなとこ来る奴なんかいねえ。まあ、馬場の掃除とソリの運び出しやれ。人手足りねえからな」と大森は面倒臭そうに目を細め、言う。


「分かりました」と頷き、ばんえい競馬での日々が始まった。


 仕事は慣れるまで重かった。馬場の砂をならし、ソリの木材を運び、馬糞を片付ける。だが、数日経つと手順が体に馴染み、馬の歩調に合わせるように動けた。ある日、馬場の端で砂を掃いていると、若いスタッフ・直樹が通りかかった。


「新入りか。こんなとこで働くなんて物好きだな」と二十代後半の直樹は、素っ気なく言う。


「旅の途中だ」と修平は箒を動かしながら短く返した。


「ふーん」と鼻を鳴らしつつ、「そこのソリ、重いから気をつけろよ」と一言だけ付け加えた。


「分かった」と頷き、少しずつ距離が縮まるのを感じた。


 昼休み、大森が「お前ら、飯でも食え」と紙包みを渡してきた。中には帯広名物の「豚丼」が入っていた。


炭火で焼いた豚肉が飯の上に乗り、甘辛いタレが染みている。修平が蓋を開けると、香ばしい煙が立ち上り、豚肉の脂が光って見えた。一口食べると、濃厚なタレが舌に絡み、炭の香りと豚の旨味が混じり合う。肉は柔らかく、タレの甘さが飯にしみて、噛むたびにじんわりとした満足感が広がった。どこか普通の豚丼と違う、時間がゆっくり溶けるような味わいだった。


「これ、旨いですね」と修平が言うと、


「帯広の豚は特別だ。タレもここじゃなきゃ出ねえ味だ」と大森は鼻を鳴らし、


「まあな、慣れるとクセになるよ」と直樹が珍しく笑った。


修平は黙って食べ進め、平野の風味に体が温まった。

数日後、直樹が馬場の砂をならす手伝いを頼んできた。


「お前、慣れてきたな。一人でやると疲れるからさ」


「いいよ」と答え、二人で砂をならした。


「お前ら、仲良くやってんな」と大森も通りがかり、無関心に呟きつつ、馬の世話を手伝えと一言加えた。


夕方、馬場で馬がソリを引く音を聞きながら、直樹が「お前、変な奴だけど悪くねえな」と小さく言った。修平は「そうか」と笑い、異様なまでに長い夕焼けが馬場を赤く染めるのを見た。この世界の時間が、少しだけ歪んでいる気がした。


夜、管理棟の隅で寝ようとすると、馬のいななきと風の音が響く。目を閉じると、漁村の夜が蘇る。血に染まった床、美奈の小さな手、ナイフの感触。でも、それが自分の罪なのか、誰かの影なのか、輪郭はぼやけたままだった。「俺は…知らなきゃいけない」と呟き、汗を拭う。


外で物音がし、覗くと大森がタバコを吸っていた。「お前、寝ねえのか」と低い声で言う。修平は「少しだけ」と答えた。


 だが、平穏は続かない。ある朝、物資を運ぶ業者が別のスタッフと話す声が耳に届いた。


「そういや、最近帯広の駅で警察が何か見てたらしいな。網走絡みだってさ」。


修平の手が一瞬止まり、箒を握る指に力が入る。「へえ」と呟き、平静を装って作業を終えた。


「お前、なんか落ち着かねえ顔だな」その夕方、大森が無愛想に言う。


「疲れてるだけです」と返すが、


「ふん、好きにしろ」と大森は背を向けた。


「ここも長くはいられない」と修平は棟に戻り、荷物をまとめた。


帯広を去る夜、修平は次の道を選ぶ時、網走での吹雪を思い出した。北へ進んだせいで坂道を登り、監獄にたどり着いた


。「道は…隠れる場所を選ばせる」


彼は南西へ向かうことにした。帯広から国道236号で広尾方面へ。平野の広さが隠れ場だったここを離れ、海沿いの小さな町なら追手を遠ざけられるかもしれない。馬場の道を歩く彼の背後に、異様に長い馬の影が揺れ、大森の「おい、中村。どこ行くんだ」という声が小さく響いた。直樹は無関心に眠っているようだった。


修平は振り返らず、闇の中へ消えた。平野の灯りが彼の足跡を包み、罪の輪郭を追い求める旅が、次へと移っていく。

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