第5話 湖畔の影

 松田修平は網走監獄を後にし、雪の残る道を北東へ進んだ。網走刑務所からの脱走から数日が経ち、彼は知床半島を目指していた。


刑務所の北側を出たせいでテント山の坂道を登り、網走監獄にたどり着いた経験が、彼の道選びを導いた。


南や西は追手の目が光る国道、東は海で隠れ場がない。北東の知床なら、森と山が彼を隠してくれる。国道238号を斜里方面へ進み、知床国立公園の入り口にたどり着いた時、彼は新しい名を呟いた。


「高田晋也」。これが次の仮面だ。


 知床五湖は、知床連山のふもとに広がる五つの湖だ。修平は湖畔の管理小屋で「臨時作業員募集」の貼り紙を見つけ、ドアを叩いた。


「お前、誰だ?」


出てきた五十代の管理人・藤原が無愛想に聞く。


「高田晋也です。仕事探してて、ここで働けませんか」


「こんな季節に来る奴なんかいねえ。まあ、雪かきと遊歩道の整備やれ。人手が足りねえからな」


と藤原は面倒臭そうに鼻を鳴らし、修平の知床五湖での日々が始まった。

仕事は静かで厳しかった。雪の積もった遊歩道を掃き、倒木を片付け、湖畔の看板を拭く。


 ある日、雪かきを終えた修平は、五湖の遊歩道から一湖を見下ろした。


知床連山が背後にそびえ、羅臼岳の白い頂が雲を突き抜けている。一湖は凍りつき、薄い氷の下に澄んだ水が静かに眠り、周囲を囲む原生林のエゾマツやトドマツが雪をかぶって静寂に佇む。風が止んだ瞬間、湖面が鏡のように山を映し、遠くでオオワシが一声鳴いた。


修平の息を奪う景色だった。漁村の灰色の海しか知らなかった彼にとって、こんな透明で広大な美しさは初めてだった。


「こんな場所が…あったのか」


彼は一瞬、罪の重さも忘れた。だが、


「俺にこんなもの見る資格なんかねえ」


と目を伏せ、シャベルを握り直した。

 湖畔で作業中、通りかかった二十代スタッフの亮は、修平を一瞥し、


「新入りか。こんなとこで働くなんて物好きだな」


と素っ気なく言う。興味なさそうに肩をすかし、


「まあ、勝手にやってくれ」と去った。


修平は一人、湖の静寂に身を委ねた。

 夜、管理小屋の隅で寝ようとすると、風の唸りと湖の遠い音が耳に届く。目を閉じると、漁村の夜が蘇る。血に染まった床、美奈の小さな手、ナイフの感触。でも、それが自分の罪なのか、誰かの影なのか、輪郭はぼやけたままだった。「俺は…知らなきゃいけない」と呟き、汗を拭う。外で物音がし、覗くと藤原が薪を運んでいた。「お前、寝ねえのか」と藤原が低い声で言う。修平は「少しだけ」と答え、黙って布団に戻った。


 数日後、小屋で小さな出来事が起きた。亮が遊歩道の雪かき中にシャベルを落とし、湖畔に転がした。


「おい、気をつけろ」


と藤原が遠くから一瞥し、修平が近くにいたので拾って戻す。


「…悪い」


と亮がぶっきらぼうに呟く。


「お前、余計なことすんなよ」


と藤原が横を通りながら無関心に言う。修平は黙って頷き、凍った湖を見た。

その夜、亮が小屋の外で


「お前、変な奴だな」と一言だけ言い、立ち去った。


 だが、静寂は長く続かない。ある朝、物資を運び入れる配達員が別のスタッフと話す声が耳に届いた。


「そういや、最近斜里の方で警察が何かやってたらしいな。網走絡みだってさ」。


修平の手が一瞬止まり、シャベルを握る指に力が入る。


「へえ」と呟き、平静を装って作業を終えた。


その夕方、「お前、なんか落ち着かねえ顔だな」と藤原が無愛想に言う。


修平は「疲れてるだけです」と返すが、


藤原は「ふん、好きにしろ」と興味なさそうに背を向けた。


修平は小屋に戻り、「ここも長くはいられない」と荷物をまとめた。


 知床五湖を去る夜、修平は次の道を選ぶ時、網走での吹雪を思い出した。北へ進んだせいで坂道を登り、監獄にたどり着いた。あの時、南や東は危険だった。


「道は…隠れる場所を選ばせる」


彼は南西へ向かうことにした。知床から斜里を経て、国道334号を下り、釧路方面へ。森と湖が隠れ場だったここを離れ、湿原の広がる土地なら追手を撒けるかもしれない。


雪の遊歩道を歩く彼の背後に、遠くで風の音がした。

藤原の「おい、高田。どこ行くんだ」という声が小さく響き、亮は無関心に眠っているようだった。


修平は振り返らず、闇の中へ消えた。知床五湖の静かな湖畔が彼の足跡を包み、罪の輪郭を追い求める旅が、次の名所へと移っていく。

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