『罪の輪郭』

@nanonaruo

第1話 輪郭

 網走刑務所の独房は、冷たいコンクリートの壁に囲まれ、鉄格子の隙間から吹き込む冬の風が容赦なく肌を刺す。


2025年2月の夜、松田修平は薄い毛布にくるまり、固い床に身を横たえていた。彼は32歳、3年前に北海道の小さな漁村で起きた殺人事件の容疑者として逮捕され、終身刑を言い渡された男だ。


事件は、漁師の夫婦とその10歳の娘が自宅で刺殺された凄惨なもの。凶器のナイフには修平の指紋が残り、現場近くで彼の姿が目撃されたことで、法は彼を有罪と断じた。


だが、修平の心の中では、その罪の輪郭がぼやけたままだった。あの夜、血に濡れた床と倒れた家族の姿が断片的に浮かぶ。ナイフを握った手は確かにそこにあった—だが、それは自分の手だったのか、それとも誰かが彼の指を無理やり押し付けたのか、記憶は暗闇に溶けていた。



 修平は漁村で生まれ、両親を早くに亡くしてからは、漁船の手伝いや雑用で細々と生きてきた。被害者家族とは近所付き合いの間柄で、娘の美奈には魚のさばき方を教えたこともあった。


「修平おじちゃん、また遊ぼうね」


と笑う彼女の声が、今も耳に残る。それがなぜ、こんな結末に繋がったのか。独房の天井を見つめ、彼は呟く。「俺は…本当にやったのか?」。


裁判で彼は「覚えていない」と繰り返した。弁護人は「状況証拠だけでは不十分だ」と訴えたが、指紋と目撃証言が全てを押し潰した。修平の胸には、誰かが暗闇で嘲笑う影がちらつき、「俺じゃない」と叫びたい衝動が抑えきれなかった。




 網走での日々は過酷だった。極寒の中、囚人たちは木材運びや工場での単純作業に駆り出され、看守の目は鋭く、僅かな反抗も許されない。


ある日、作業場で同房の囚人・山崎が近づいてきた。五十代で、顔に深い傷が刻まれた山崎は、「お前、松田だろ。殺人犯って顔じゃねえな」と嗄れた声で言う。修平は黙って木材を積み、「そう見えるか」とだけ返した。


山崎はニヤリと笑い、「ここじゃ何も変わらねえ。自分の罪の形を知りたきゃ、自分で道を切り開けよ」と意味深に呟いた。その言葉が、修平の心に小さな火を灯した。


罪の輪郭—それが本当に自分のものなら、受け入れるしかない。だが、もし他人の影が描いたものなら、知らなければならなかった。


 脱走の機会は突然訪れた。


2月下旬、記録的な吹雪が網走を襲い、刑務所の監視が一瞬緩んだ。修平は山崎と目配せし、数日前から囁き合っていた計画を実行に移す。


山崎が「おれが看守の気を引く。お前は資材置き場の裏から外へ出ろ」と言う。


修平は「なんで俺を助ける?」と聞くと、


山崎は「冤罪っぽい目が気に入っただけだ。生きて真実を掴めよ」と笑った。


その夜、吹雪が視界を白く染める中、山崎が看守に絡んで騒ぎを起こす。修平は資材置き場へ走り、凍てついた鉄柵をよじ登った。冷たい鉄が手に食い込み、雪が顔を叩く。


背後で看守の怒鳴り声とサイレンが鳴り響くが、彼は森の闇へ飛び込んだ。森を走りながら、修平の頭に美奈の笑顔が浮かんだ。


「おじちゃん、魚釣りまた教えてね」


と言っていた彼女の死が、自分の罪なのか、誰かの仕掛けた罠なのか。息を切らし、雪に足を取られながら、彼は呟く。「俺は…知りたい。俺の罪の輪郭を」。


吹雪が彼の背中を押し、網走の闇が遠ざかる。脱走は成功し、彼の罪の形を追い求める長い旅が、今、ここから始まるのだ。

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