第2話 いぶきと一緒に登校する
二日後──。
二学期の始業式の朝は、あまりよい目覚めとは言えなかった。相変わらず暑くて寝苦しい夜だったし、いろいろと考えごとをしていて寝つけなかったから。
◇
心待ちにしていた晶からの通話が入ったのは、昨夜、晩ごはんを終えて自分の部屋に戻った直後のこと。
『今、いぶきと話をしたよ』
それが、スマホのスピーカーから流れてきた、晶の第一声だった。ただ、その声の調子からして、晶自身がいぶきとのやり取りにすっきりしないものを感じているらしいことが、なんとなくわかってしまったんだ。
『最初に、遼太がここんとこ元気ないんだが、何か心当たりないか、って切り出してみた』
「──へぇ、なんだか晶らしくないよね。僕が落ち込んでる理由知ったうえでの、遠回しなアプローチって」
『まあ、そう言うな。ちょっと思うところがあって、いぶきの出方を確かめてみたかったんだ』
「何だよ、思うところって?」
『ん、まあ……』
わずかな戸惑いがスマホの向こうから伝わってきた。そういえばおとといも、晶との会話中、同じようにかすかな違和感を覚えたっけ。
そんなことを頭の片隅に思い浮かべながらも、僕は先を促す。
「それで、いぶきの反応はどうだった?」
『こっちの意図を探ってるような感じで、少しだんまりを続けたあとに、遼太が何か言ってたの?って、質問に質問を投げ返してきた』
「……」
『あいつからは特に何も聞いちゃいないよ、って答えたんだが……』
思い出した。僕が引っかかりを感じたのは、その台詞だったんだ。
おととい、晶は僕に対して「いぶきからは何も聞いていない」と言い、昨日はいぶきに対して「遼太からは何も聞いていない」と──嘘をついた。
晶のやつ、ホントは僕の知らない何かを見るか聞くかしているんじゃないだろうか。
ああ、いやだいやだ。ここんとこ、いろいろなことにどんどん疑い深くなっている自分がいやだ。
あえて疑念を振り払い、僕は晶に問う。
「で、いぶき、なんか言ってた?」
『そうなんだ……って、妙に沈んだ調子だったな』
晶が教えてくれた、それ以降のいぶきとのやり取りはこんな感じ。
「ところで、いぶきは相変わらず忙しいのか? 野球部のマネージャー業は引退したんだろ」
『うん。ただ後輩への引き継ぎとかいろいろあって……。遼太には何度か誘われたんだけど、都合がつかなくって断っちゃんだ』
「……」
『夏権が終わるまでは、ずっと気持ちが張り詰めてたから、一気に疲れが出ちゃって、誘いに応えるのがつらいときもあったの。でも、遼太には申し訳なかったって思ってる』
「立ち入ったことを訊くが、あいつに飽きたとか、そういうわけじゃないんだよな」
『そ、そんなんじゃないよ。ずっと大切な人だよ』
「わかった。それ聞けて安心したよ。まあ、遼太のこともときどき気にかけてやってくれ。あいつにとっても一番の支えは、いぶきなんだから」
『うん。これからは今までの埋め合わせするように頑張るよ』
「頼む。大事な従兄弟と大切な親友には仲良くやってってもらいたいからな」
いぶきが僕の誘いを断り続けていたのを気にしているらしいこと、僕に飽きたんじゃないこと、大切だと思ってくれていることが、彼女の口から──直接じゃないけれど──聞けたのは、収穫だった。
ただ、いぶきの弁解がやや上っ面な感じがしないではなかったし、「安心した」なんて言葉とは裏腹の晶の微妙な態度に引っかかってもいたんだ。
◇
あくびを噛み殺しながら自室で登校の支度をしていると、不意に玄関のドアが開く音がして、階下から来客の気配が伝わってきた。
誰だろ、こんな朝っぱらから。
首をかしげた瞬間、「おはようございまーす」と若い女性の声。
えっ──今の声、いぶきじゃないか?
僕の期待は、応対に出た母さんのひと言で現実のものになった。
「あら。おはよう、いぶきちゃん。久しぶりじゃない」
やっぱり。急に胸がドキドキしてきた。
柄にもない昂ぶりを抑えながら、手早く支度をすませて階段を降りていく。
母さんと言葉を交わしていたいぶきが、僕の姿を認めて、とびきりの笑顔を見せた。
「おはよう、遼太。一緒に学校行こう」
その瞬間、このところの胸のわだかまりなんて、どこかに吹き飛んでしまっていた。
「いってきまーす」と、二人そろって挨拶を残し、連れ立って玄関を出る。
とたんにムッとする熱気に包まれた。二学期が始まるとはいえ、まだ八月。朝から容赦ない日射しが照りつける。
二人一緒の登校は、僕が部活を辞めて以来、久しぶりだ。
歩き始めてしばらくは、ぎこちない雰囲気でお互い無言のままだったけれど、やがて思いきったようにいぶきが口を開いた。
「二学期からは、毎朝一緒に登校できるよ。わたし、迎えに行くから」
横を歩くいぶきの顔を、久しぶりにまじまじと見つめる。
やっぱり、かわいいよな。
三つ編みを両サイドでおさげにした髪。黒目がちのつぶらな瞳。上気したように薄っすらと赤みを帯びたつややかな頬。小さめで健康的なピンク色の唇。
やや幼く見られがちな、いわゆる童顔なんだけれど、彼女の性格にぴったりマッチした面立ちだと思う。
野球部の敏腕女子マネという公の顔とは別に、いぶきには、ひとりっ子で少しわがままというか、寂しがり屋で甘えん坊な一面がある。
そんなところもひっくるめて、僕はいぶきのすべてが好きだったんだ。
大好きな彼女が、並んで一緒に歩きながら僕の顔をのぞき込む。
「ここんとこ、遼太の誘いをずっと断っててごめんね」
謝罪の言葉を口にしたあと、少し唇を尖らせるようにするのは彼女の癖だ。そんな仕草もかわいい。
「うん。でも、いぶきにとって最後の夏権で忙しかったんだから、仕方ないよ」
いぶきが昨夜、晶に対して使った言い訳(?)を、そのまま本人に返すような返事だ。
でも、本当にいぶきが一生懸命、野球部のマネージャー業に取り組んでいたのは間違いない。
いぶきの野球好きは、小学生の頃からの筋金入りだった。
テレビのプロ野球中継を欠かさず視るのはもちろん、父親にせがんで球場での観戦にもたびたび出かけていた。僕も誘われて、一緒に連れて行ってもらったこともある。
近隣に女子野球のチームがなかったから、自分で本格的にプレーすることはなかったけれど、その代わりに中学ではソフトボール部に入って活動していた。そういえば、晶もいぶきに誘われて入部してたっけな。
二人ともソフトボールを続けるのかと思っていたけれど、晶は店の手伝い、いぶきは自分のプレーよりもマネージャーとして選手のお世話をすることを選んで、女子ソフトボール部のない、この私立相郷秀嶺高校に進学したんだ。
そもそも、僕が野球を始めることを決意して、リトルシニアのチームに入ったのも、いぶきに勧められたからだ。
右打ちで伸び悩んでいた僕に、左打ち転向のきっかけを与えてくれたのも彼女だった。
「右ひじが身体から離れて肩が早く開いてる」「左打ちのほうがバットがスムーズに出てる感じ」「長打は少なくなるかもしんないけど、率は上がりそう」などという、いぶきの玄人はだしなアドバイスに半信半疑で従ってみたところ、長打が思ったほど減らなかったこと以外、ほぼ彼女の言うとおりになった。
おかげで僕は、丸二年の野球部生活では、ショートのレギュラーで打順は三番という主力選手の一人になることができたんだ。
いぶきのほうも、選手の練習のサポート、キャッチボールの相手やティーバッティングのトス、さらには試合でのスコア記録や選手への技術的アドバイスなどをこなし、なくてはならない存在として、最後の夏が終わるまで頑張っていたのだ。
それほど熱心にいぶきがマネージャーの仕事を頑張っていたのは、生来の野球好きというのもあるけど、一番の動機は「身近で僚太を応援したいから。活躍を見たいから」なんて言ってくれていた。
それなのに、僕は野球を続けられなくなってしまった。いぶきの期待に応えることができなかったんだ。あのアクシデントさえなかったら──と、また気持ちがマイナスの方に傾きそうになる。
それをなんとか意思の力で食い止め、僕は大事なことを切り出すことにした。
一昨日の晩、晶との会話に出てきた〝サプライズ企画〟。
僕は、いぶきの労をねぎらうため、彼女が熱心に応援しているプロ野球チーム・明急フェニックスの観戦チケットをプレゼントするつもりなんだ。
バックネット裏のペアチケット──もちろん僕との──だから、それなりに高額だし、入手には苦労したけれど、幸いちょっとしたツテがあったから希望はかなえられた。
そのためにせっせとバイトに励んだってのもある。いぶきの喜ぶ顔を思い浮かべながら。
ただ、肝心の彼女に話をする機会をもてないまま、時間が過ぎていったんだ。
あさっての日曜日のゲームだから、晶が心配していたように、すでにいぶきが予定を入れてしまった可能性もある。これ以上、先延ばしにするわけにはいかなかった。
胸を高鳴らせながらタイミングを窺い、話題が一段落したところで、意を決して僕は切り出した。
「ところでさ、あさっての日曜日って、いぶき、空いてる?」
「あさって?」
一瞬の間をおいて、少しバツの悪そうな声色のいぶきの返事。
「あ、日曜日かぁ、ちょっと予定が入っちゃってるなぁ……」
ついさっき「誘いを断っててごめんね」の台詞を聞いた直後だけに、脱力しそうになった。冷水を浴びせられたように萎縮する心を、なんとか奮い立たせて粘ってみる。
「サプライズイベントのチケットを手に入れたんだ。いぶき、喜んでくれると思うんだけど……」
「えーっ、何? 何なの、それって?」
「だからサプライズだよ」
「あーん、気になるなー」
いぶきはすがるような表情で、ひとしきり「気になる」を連発したのち、
「わかった。予定を調整するから、少し待って。お願い」
と、僕に向かって手を合わせてきた。
どうやら脈がありそうないぶきの仕草に、僕は少し安心して、
「うん、頼むよ」
と頷いたけど、ここは自分の優柔不断さを反省。今度からもっと早く誘わなくちゃいけないよな。
かろうじて望みをつないだ形でいぶきと別れ、僕は三年二組の自分の教室に入っていった。ちなみに、いぶきは一組、晶は三組で、僕たちはクラスはバラバラなんだ。
「遼くん、久しぶりー」
「おう、遼太。元気だったか? てか、おまえ、色白っ!」
僕の姿を目にとめた友達二人が、さっそくからんできた。僕を「遼くん」と呼ぶのが、中学のときから付き合いのある伊東で、もう一人が野球部仲間の坂倉だ。
「僕が色白っていうより、おまえが黒過ぎなんだって。夏権終わってひと月経つのに、メラニンが焦げて皮膚に定着してしまってるじゃんか」
と、僕も、黒焦げの野球小僧・坂倉に対してツッコミを入れた。
「過去二年半、野球漬けで遊べなかった分、俺は青春を取り戻すつもりで、この夏は遊びまくってやったんだ」
「あのなぁ、僕ら、いちおう受験生なんだけど」
「そんなこと言って、遼くんもイブちゃんとどっか遊びに行ったんじゃないの?」
伊東が、いつものオネエ言葉に近い口調で言う。
「イブちゃん」というのは、いぶきのこと。マネージャーとして部活に深く関わってきた彼女を、野球部の面々は親しみをこめて、そう呼んでいる。その習慣が、野球部と関係のない一部の男子生徒に広がっているんだ。伊東のように。
「いや、それが──いぶきとはなかなか予定が合わなくてさ」
「日焼けの跡すらないところを見ると、遼太、おまえずっと家に引きこもってたとか」
「引きこもりじゃない。夏期講習に通ってた。くり返すけど、受験生だからさ」
「へぇ、どこの夏期講習? もしかしてうちの?」
柳橋駅前にある、その名もズバリ『駅前塾』に通っている伊東が、目を丸くする。
「いや、あそこは定員いっぱいだって断られてさ。代わりに──」
そこで、僕は思わせぶりにいったん言葉を切り、
「美人女子大生に教えてもらってた」
と続けた。案の定、伊東に加えて坂倉まで丸くなった目をさらに見開く。
「はぁっ? なにそれ。おまえの妄想?」
「んなわけあるか。リアルに現実だよ」
これは本当のこと。ちょっとした人間関係があったおかげで、ある女子大生に勉強をみてもらえることになったんだ。
「おい遼太、それ詳しく聴かせ──」
坂倉の言葉の途中で、始業のチャイムが鳴った。
二人は名残惜しそうに自席のほうに戻り、僕も着席して机の上のほこりを軽く払う。
まあ、続きは昼休みにでも話してやろう。
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