ショートの『彼』に憧れて

砂原泉

第1話 例えシニアではなくても

「君が井原友樹くん?」


 粉雪の降る日、俺は一人で公園にいた。公園で一人で野球の練習をする。ジャングルジムの棒を狙って送球したりとか、滑り台の斜面にグラブトスをしたりとか。


 だけど、公園に見知らぬ男の人が入ってきた。こんな田舎に見たことのない人が来るのは絶対に怪しい。不審者かもしれないから、俺は男から一歩距離を取った。グラブを盗まれないように脇にしっかりと挟んだ。


 それでも怖い。

 男は二十代くらいで、体が引き締まっている。もしも殴られたりしたら、絶対に勝てない。


 男は何の遠慮もなく、俺に距離を詰めてきた。逃げようとしたが、足がすくんだ。


遠園とおえん東少年野球チームの井原いばら友樹ともきくんだろう?」


「え?」


 男はにこりと少年のように笑った。

 俺を知っている?

 やっぱり怪しい人なのだろうかと、考えていると男は言葉を続けた。


「中央少年野球チームの監督さんに話を聞いたんだよ」


「中央の?」


「あの試合の話をね」


 去年の五月の、小学生最後の大会で、初戦で運悪く強豪チームの『中央少年野球チーム』とあたり、俺たち『東少年野球チーム』ボロ負けした。

 それなのに、どうして『中央』の監督さんが、この人に俺のことを話したんだろう?


「それにしても、一体何の練習をしていたの?」


「グラブトスの練習です」


 怪しい人だけど、変なことを聞かれたわけでもないから、つい答えてしまった。


「面白いね。グラブトスなんてリトルでもシニアでも見たことないや」


 ちょっとむかついた。

 本当は、行けるものならリトルに行きたかった。この男はそれを知らないだろうけど、腹が立つ。


「……どなたですか」


 変な人なら早く帰ってください。


「ああ、ごめんね」


 男は少し申し訳なさそうに笑った。

 男はダウンコートのポケットから金属製の名刺入れを出した。人から名刺を受け取るなんて、初めての経験だ。マイナス七度のせいで名刺はよく冷えていた。


『遠園リトルシニア守備走塁コーチ 浅見あさみ渚』


『遠園シニア』。知っている。

 遠園市唯一のシニアで東北ベストエイトの常連で、全国大会に出場したこともある。

 俺には決して手の届かない世界……。


「遠園シニア!」


「そう。君を誘いに来たんだよ」


 手の届かない世界が、俺を誘いに来た!?

 浅見さんが俺に手を差し出す。寒さのせいで赤くなっているが、大きくて頼もしい手だった。

 どうして俺を!?

 確かに、『東チーム』で俺は一番うまかった。誰よりも練習していたからだ。でも、まさかわざわざこんな田舎の外れまで誘いに来てくれるなんて!


 この大きな手を取れば、新しい野球の世界に行けるんだ!


 リトルに行けなかったから諦めていたっていうのに。

 そう。リトルに行けなかったから……。

 どうしてリトルに行けなかったかを考えると、リトルシニアにも行けないと気づいた。


「ごめんなさい。シニアには行けません」


 取りたい手に背を向けて、俺は公園を出ていく。浅見さんを決して振り返らないようにした。公園から出ると、家まで走った。

 涙をこぼしたらきっと凍ってしまうから、頑張って泣かなかった。


「ただいま」


 家に入ると、パジャマを着たぼさぼさの髪のお母さんが、のろのろと俺を出迎えた。この感じだと、たった今起きたんだな。


「おかえり」


 お母さんは怠そうにしている。だけどにこにこする。お母さんはどんなに怠くても、俺には辛い顔を見せない。


「早く寝てて」


 でもいくらにこにこしてたって、本当は体調が悪くて辛いんだってこと、俺は分かってる。お母さんは居間のソファベッドに横になった。


 泥を払った野球道具を玄関のたたきにしまうと、二人分のお茶を淹れた。


 お母さんが一口茶をすする間に、浅見さんのことを話すかどうか考えたが、言わないことにした。

 だって、きっとお母さんは気にしてしまうから。

 

 お母さんは体が弱く、一日の半分以上を眠って過ごす。

 リトルに行けなかったのは、お母さんが車で片道一時間のリトルのグラウンドへの送り迎えができないためだ。

 お父さんも、土日は大抵働いているため送り迎えができない。


 お母さんがすっかり眠った。お母さんを起こさないように気をつけながら俺の部屋に行った。


 俺の部屋はちょっと特別だ。

 十畳の部屋の半分は本棚と映像ソフトとパソコンの棚だ。

 残りの四分の一に玄関に収まらなかった野球道具を置いている。

 それらの残りに洋服ダンスと鏡、そしてベッドがある。

 ベッドの上にも数個の軟式ボールが転がっている。寝ているときもボールを握れるように。


 本棚ののれんをめくり、今まで録画してきたソフトを五本出した。

 パソコンの電源ボタンを押した。そして本も三冊床に広げた。

 たくさん録画した映像ソフトは古い物から新しい物まで合わせて六十本ほど。

 本は全てひっくるめて四十冊ほど。


 どのソフトもどの本も内容はだいたい覚えているが、できるようになってから見たり読んだりするとまた新しい発見があるので取っておく。


 古いパソコンが立ち上がるまでの間に本をめくり、付箋を五か所に張った。


 パソコンが立ち上がる。動画サイトを開いた。


『しゃす!』とユーチューバーが挨拶をしたので、特に意味はないけど俺も「しゃす!」と返す。


 元プロ野球選手のユーチューバーだ。現役のときは凄かったんだ。今はお腹が出てるけど。


『今日は『右に強い打球を打つ』には!』。


 俺はまだ一五三センチで、凄く小柄だ。お父さんが一七○センチなので、俺も将来そんなもんかもしれない。だから力に頼らずに技で勝つ必要がある。

 一二塁間をしっかりと抜ける右打ちを身につければ、中学の軟式に行っても大丈夫なはずだぞ。


 動画を十回見ると、雪が積もった庭を転ばないようにしつつ勢いよく走り、小さな車庫に入った。

 素振りを始める。

 素振りを繰り返す。自分の素振りを録画して、それを何度も見てやり直す。汗で手を滑らせスマホを落としかけたくらいだった。危ない危ない。


「よし、いいぞ」


 動画をチェックすると、最後に納得のいくスイングができた。


 次は車庫の壁にボールを当てて捕球するという壁打ちを始めた。

 壁にとん、と投げて同じくらいの力で跳ね返る球を捕る。


 これがショートバウンドを取る練習に最適だ。リズムに乗って投げる力をどんどん強くする。


 どんどん球の勢いが強くなって、車庫の薄い壁をメリメリいわせる。ちなみに、車庫には既に五か所、穴が空いている。最初はお父さんに凄く怒られたけど、最近はあまり怒られなくなった。お父さんは諦めたのかな。


 家に戻ると、お母さんのいるリビングをちらっと見て、まだ眠っているのを確認して、自室に戻った。

 お母さんに、俺が野球のデータを研究してる姿をあまり見せないようにしていた。

 強いチームに行けない未練だと思わせたくなかった。お母さんはきっと、「私の体が弱いせいで友樹を強いチームに行かせてあげられなかった」と気にしてしまうから。

 お父さんに本を買ってもらうときも、「お母さんには内緒に」といつも言う。

 だけど本当はばれているような気もする。お父さんとお母さんは仲がいいから、内緒にしないで裏で話しているかもしれないし。


 机の上にキャンパスノートを開いた。


『野球ノート三十七』


 小学三年生の頃からつけている野球ノートのページをめくる。

 一冊目から全てしまっている本棚が、そろそろ一杯になりそうだ。


 文字と図を使って野球について調べたことをノートに書いている。

 何冊も書くごとに少しずつ改善してきた、俺のオリジナルの描きかただ。


『二月二十五日』と書き、今日の走り込みと素振りとグラブトスの練習の成果を書いていく。


『どうして昨日よりよくなった?』それを書くことが俺の野球ノートの最大の特徴だ。


 できないことではなく、できたことを書き、書けることを増やしていく。そして、なぜできたのかということを、最もページを使って書く。


 浅見さんの名刺を栞みたいに挟んだが、彼のことは書かなかった。


 後から思いだして悲しくなるのが嫌だったから。

 別に、あの手を取らなかったことを後悔はしない。お母さんに無理して送り迎えをさせて、お母さんの体調がますます悪くなったら困るからだ。お母さんは俺のためならきっと、無理をしてしまうから。

 だから、浅見さんのことは、綺麗さっぱり忘れたい。


 ノートを書くと、スマホで動画を見る。

『中央チーム』と『東チーム』の試合を見る。


 動画の中の俺は今の俺より少し幼い。


『しっかりしろ! いつもとやることは同じだ!』


 動画の中で俺が仲間に叫んでる。そうだ。そんなことを言っていた。しっかりしなければならないのだ。

 あの人が来ても来なくても、俺はただ毎日練習をしていればいい。


 ノートをつけ、プロ野球選手の動画を見て練習する。それが俺のやりかた。

 これからも続ければいい。

 例えシニアではなくても。

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