第9章「迫り来る影と見えぬゴール」(2)
夕方、コウタとナツミはタクシーでユキを自宅まで送り込んだ。
ユキの母はまだ仕事から帰っておらず、誰もいない。
二階建ての一軒家。
片づいたリビングにユキをソファへ横たえ、氷枕や水を用意する。
ユキは青ざめて「ごめん……」と謝るばかり。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「はいはーい!」とナツミが出ると、息を切らしたシンが立っている。
「彼女は? 大丈夫?」
シンの声は切迫しており、普段の冗談めかした雰囲気は消えている。
ナツミが落ち着かせるように肩をぽんと叩く。
「今ソファで横になってる。頭痛がひどかったみたい」
コウタがリビングから顔を出す。
「シン、お前来たのか」
シンはすぐに靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
そこには、クールな美貌をいつも保っているはずのユキが、痛みに耐えて弱々しい姿をさらしていた。
表情は苦しげで、頬がわずかに紅潮している。
シンが静かにソファのそばに腰を下ろすと、ユキはか細い声で訊ねる。
「どうして……?」
「そりゃ、心配だからに決まってるだろ」
シンは苦笑いを浮かべるが、その目は本気の心配を宿している。
ナツミが「じゃあ、あたしたちは別の部屋にいるから、何かあったら呼んでよ」と声をかけ、コウタも同意する。
リビングで二人きりになった。
シンはユキの前に立ち、「ホント、大丈夫? 顔色悪いし……」と問いかける。
ユキは薄く笑って「ごめん……こんな姿見せて……」とうつむく。
クールな外見からは想像できない弱った口調が、シンの胸を締めつける。
「気にするなよ。俺も病院から帰ってきて、正直メンタルやられてるし。お互いボロボロなら、おあいこってことで」
ユキは一瞬だけ笑みを見せるが、すぐに表情が曇る。
「何かあったの?」
「うん。医者に“脳波が変”とか言われてさ……」
「そっか……」
沈黙が落ちる。
ユキは苦しそうに目を伏せながら、決意をこめたように口を開いた。
「私……もしかしたら小さい頃、“特別支援センター”みたいな名前の場所に通ってたかもしれない。白衣の大人たちに囲まれて、何か……実験みたいなことされてた記憶が……ぼんやり残ってるの」
シンは息を呑む。
「それ、俺の母さんも、俺が小さいときにそこに通っていたって言ってた」
「じゃあ……私たち、同じ場所に通っていたってこと?」
「そうかも……お互い、助け合わないと……ヤバいかもな」
シンが冗談めかして言うが、その笑みは弱々しい。
ユキも「うん……」と小さく返事し、潤んだ瞳を隠すようにそっとまぶたを閉じる。
もしこのまま記憶が全部消えたら。
もしこのまま感情が死んでしまったら。
二人とも、自分が“自分でなくなる”恐怖を味わいつつある。
だが、今の会話で“同じ苦しみ”が共通することに気づいた。
シンはテーブルにあったコップの水をユキに差し出す。
「ほら、水、飲めそうか?」
ユキは弱々しく頷き、少し口をつけてから、「……ありがとう」と呟く。
「どういたしまして。俺も、何かわかったら教えるからさ。ユキも辛いなら、なんでも言えよ」
「うん……」
かすかながら、二人の間に生まれた連帯感。
それは、これから先に待ち構える“闇”の入り口に過ぎないとわかっていても、不思議な安堵をもたらした。
そして、記憶と感情、それぞれを失いつつある二人が、初めて“同じ苦しみ”に気づいた瞬間だった――。
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