第3章「隠された記憶の断片」(1)
白山シンは、鏡の前でネクタイを結びながら、小さく息を吐いた。
「昨日のメモを見返しても、やっぱり思い出せなかったな……」
背後からは母親の声が聞こえる。
「シン、そろそろ降りてきなさい!」と半ば呆れたようだ。
シンの外見は、一見すると、制服のブレザーはきっちり着こなしている。
ただし、よく見るとネクタイの結び目が少し曲がっていたり、シャツの裾がわずかに乱れたりと、落ち着かない雰囲気がある。
二年生に進級したばかりで、以前はこんなに慌て者ではなかったのに——自分でも最近の様子がおかしいと思う。
「もう行くよ! あと……なんか、俺、忘れ物してないかな……」
階段を下りながら声をかけると、母親がキッチンのほうから顔を出す。
「大丈夫なの? 毎朝あなた同じこと言うわね。ほんとに何も忘れてないんでしょうね?」と念を押してくる。
シンは苦笑いするしかない。
「うん、たぶん……大丈夫。行ってきます!」と鞄を背負い、玄関へ向かう。
だがドアを開けかけたところで、はっと立ち止まる。
「うーん、やっぱり何か落ち着かない……」
その姿に、母親が首をかしげる。「どうかしたの? ほら、時間ないわよ」
「ううん、平気……」とシンは頭を振って靴を履いた。
正直、自分でも理由がわからない不安に苛まれている。
昨夜、日記やメモを読み返しても思い出せないことがやたらと多く、まるで“記憶に穴が空いている”ような感覚が増していたのだが、母親に打ち明けるわけにもいかない。
結局そのまま外へ出たとき、シンはほんの一瞬だけガレージの物置を見やる。
「あれ……昨日、俺、あそこから何か出さなかったっけ……」
そんな既視感がちらりと脳裏をかすめるが、思い当たる物は何も浮かんでこない。
「気のせいか……」
小さく独り言をつぶやいて、深く息を吸う。
(この数週間、物忘れが酷くなってる……。やっぱり“能力”と関係あるのか……)
頭の隅でそんな不安がよぎる。
シンにはまだうまく説明できない超常的な力、いわゆる“念動力”のようなものがあると気づいたのは物心ついた頃だった。
誰にも言えずに隠してきたが、それを使うと強い頭痛や記憶障害が進む感触がある。
しかし確証もないし、誰かに話す勇気もない。
「普通の物忘れだろう」と自分をごまかしていたが、最近その度合いがあまりに深刻になりつつある。
そうして思考に沈むシンを見つけたのは、いつもの親友・御影コウタだった。
坂の途中で並走するように追いかけてきて、背中を軽く叩いてくる。
「シン、おはよー! またギリギリか? 顔色わりーぞ」
「ああ、コウタ……おはよう。うん、ちょっと寝不足でさ……」
「寝不足ってか、昨日のお前、いつにも増して変だったじゃん。ナツミも心配してたし、大丈夫かよ?」
コウタが真剣な眼差しで尋ねる。
シンは苦笑いしつつ首をふった。
「大丈夫……のはず……」と曖昧に返す。
コウタは呆れたようにため息をついて、「なんかあったら絶対言えよ。マジで」と念を押す。
シンは「うん……ありがとう」と言いながら、胸の奥に小さな罪悪感がわいた。
何も話せないのが申し訳なく思えるが、それでも“念動力”なんて話を打ち明けるわけにはいかなった。
◇
学校の門をくぐり、急ぎ足で自転車を停めて教室へ向かうと、風間ナツミが入り口で腕組みをして待ち構えていた。
ショートヘアに色とりどりのヘアピンを重ね使いし、活発な雰囲気をかもしだしている。
「シン、ちょうどよかった! あんた、あたしに借りたノート返してないわよね?」
「ノート……?」とシンはキョトンとする。
「え……ごめん、そんなの借りたっけ?」
ナツミが目を丸くする。
「昨日の放課後に渡したでしょ! 数学の小テスト範囲、確認したいって言って、あたしのノート貸したじゃん?」
「え……いや……記憶にない……」
シンが正真正銘「覚えていない」という表情で首を傾げる。
近くで聞いていたクラスメイトが「いやいや、確かに見たよ。ナツミが『ちゃんと返してね』って渡して、シンが『ありがとう助かる!』って言ってた」
「わたしも見た! シン、ニコニコしてたよ」と次々に証言する。
ナツミが「ほらー!」とドヤ顔をするが、シンは青ざめて頭を抱えた。
「ごめん……全然覚えてない……。でも本当に受け取ったの?」
「受け取ってたってば! 嘘つくなー!」
「嘘じゃないんだ……ほんとに覚えてない。ごめん……」
不穏な空気になりかけるが、コウタが「おいおい、まあノートは探せばあるだろ! そのへんに落としたのか、家に持ち帰ったんじゃねえか?」とやんわりフォローする。
ナツミも「まあ、すぐ返してくれればいいけどね」と軽く溜め息をついた。
ホームルームのチャイムが鳴ることで話はうやむやに終わる。
しかしシンの胸には冷たい汗がにじむ。
(昨日ノートを借りた記憶が、まったくない……。本当に何してたんだ、俺……)
ホームルーム中も、シンは教室で座る姿勢が落ち着かず、どこか上の空になる。
コウタが視線で「大丈夫か?」と問いかけてくるが、シンは目を伏せて小さく頷くことしかできない。
脳裏には「昨日の記憶がごっそり消えている」恐怖が絶えず渦巻いていた。
◇
最初の授業が終わり、クラスが休み時間に入る。
コウタとナツミがシンの机を囲み、「本当に覚えてないの?」と詰め寄るように尋ねる。
「うん……ごめん……帰ったのは覚えてるけど、その前にナツミからノート借りた記憶がまったくなくて……」
「ヤバいな、お前。笑い事じゃないだろ、このレベルは……」
「病院行ったほうがいいんじゃないの?」とナツミがやや真面目な調子で言うが、シンは「うーん……」と沈黙。
(病院で“念動力”とか言ったらどうなるんだ……そもそも本当にそれが原因かどうかも確証ないし……)
何も言えず困り果てていると、教室の隅で黙々とノートを開いていた黒江ユキの姿が目に入る。
ユキはセミロングの黒髪を整然と垂らしており、制服の着こなしも完璧で、スタイルの良さも相まって一見モデルのような雰囲気がある。
しかし、表情はほとんど動かず、周囲の輪に入ることも少ない。
クラスでは“クールな美少女”として扱われ、話しかける人も限られていた。
◇◇◇
ユキは今まさにシンらの会話を“感知”していた。
彼女には“読心(感情読取り)”の能力があり、近距離にいる人間の感情を拾ってしまう体質なのだった。
シンの焦り、コウタの苛立ち混じりの心配、ナツミのやるせなさ……そんな空気が頭に流れ込み、ユキはこっそり顔をしかめる。
(また頭がチクチクする……どうしてこんなに一気に入ってくるの……)
彼女はわざとノートに視線を落とすが、一瞬だけズキンと痛む頭に耐えきれず、席を立って廊下へ出る。
するとナツミが「あれ、どこ行くの?」と声をかけるが、ユキは「何でもない……」と断ち切るような言い方で足早に教室を後にする。
周囲は「相変わらずだな……」と流してしまうが、ユキにとっては読心から逃れるための必死の行動だった。
(どうして他人の不安や苛立ちにここまで巻き込まれるの……。嫌だ、こんなの……)
ユキは廊下の隅で小さく息をつき、“他人の感情”が薄れていくのを待つ。
彼女自身は心の表現が乏しく、自分の感情が失われていくのを感じる一方、読心力だけは強まっているかのようだ。
そのアンバランスが苦痛になりつつあるが、このことは誰にも言えなかった。
◇◇◇
昼休みになる頃、シンは再び頭が重くなってきて、「すまん、保健室行ってくる」と教室を出る。
コウタが「ほんと大丈夫かよ?」と念を押し、ナツミも「無理しないでね」と声をかける。
しかし、シンは「うん」と笑って装うしかなかった。
◇
保健室のドアをノックすると、中から「どうぞー」と柔らかな声が返ってくる。
白衣をまとった榎本真理がデスクに座り、何か書類を見ていた。
彼女は髪を上品にまとめ、白衣の下にはパステル調のカーディガンを着ていた。
表情は優しげだが、探るような鋭い瞳が印象的である。
「また頭痛? 君は最近よく来るわね。ちゃんと寝られてる?」
「はい……寝てはいるんですけど……どうも頭が重くて」
「何か悩みがあるんじゃない? もしあれば気軽に相談してね。ストレスが原因の場合もあるし」
榎本が椅子を進めて手招きし、シンは「すみません……」と座る。
少し逡巡したが、「物忘れがひどいんです……昨日のことをあまり覚えてなくて……」と口を開く。
榎本はうなずき、「そのせいで頭痛が起こっているのかもしれないわね」と真剣な眼差し。
「本当につらくなったら、私に言ってね」
榎本の言葉に、シンは思わず目を伏せる。
どこまで話していいのか迷うが、念動力や記憶障害が結びついていることを確信しつつある。
しかし、まだ確たる証拠がないし、自分でも怖い。
結局「わかりました……ありがとうございます」とだけ答えた。
すると、榎本が机の引き出しを開けて小さなメモ帳を取り出した。
「これ、よかったら使ってみない? 悩みがある生徒には、日々の記録をつけてもらうといいかなって」
「メモ帳ですか? スマホも使ってるんですけど、さらに紙ってことですか?」
「ええ、紙のほうが記憶に残りやすいし、書く行為自体が気持ちの整理にもなるの。あくまで一例だけど……使ってみて」
シンは受け取りながら表紙に目を落とす。
シンは軽く礼を言い、ベッドでしばし休憩してから保健室を出たのだった。
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