移動式祝祭日⑥
ホテルのラウンジだった。
開放的な空間だ。
床にはタイルのようなデザインの絨毯。高い天井に吊るされたシャンデリア。
ソファとテーブルとイスが規則正しく並んでいた。ビジネスマンたちが商談をしている。ラウンジそばの通路には宿泊客たちが通過していく。
室内の照明は控えめで、今がまだ日が高い時間帯であることを忘れてしまいそうになる。壁際に設置されたスピーカーから流れてくるBGMは……多分ジャズだと思う。古い音楽は全部同じに聴こえる。
ラウンジの隅にある席、ちょうど柱の影となり人目につきにくい位置に(灰色のソファ)私は座っていた。道大会の決勝以降、私は地元ではちょっとした有名人になってしまった(いや、野球をするまえから私はそういう存在だったかもしれない。地元で1番勇名を馳せていた不良として)。私は不快な眼に遭うことを避けるためこの席を選んだ。
私に向かい合う形で座っているのは
学校帰りの私たち、私の方は私服に着替え、颯太は制服姿のままだ。
「
颯太は島時代の呼び方で私を読んだ。拾兵衛を略して拾と。私をその
私は周囲の風景を見回してからこう言った。
「おまえがマキナと初めてあった場所がここだと聞いてここを会合の場所にしたが、きてみれば驚いた。高校生がこんな場所に女を連れこむとはな」
「泣いて困った女の子を助けようとしただけだよ。ア○パ○マ○を観て育ったからな、人助けには目がないんだ。……そのときは純粋に」
「そう、その純粋さも損なわれてしまった。颯太、おまえはマキナと男と女の関係になったのだろう?」
「今はただの恋人だよ」
颯太は焦ったのか私の言葉を即訂正してくる。
「今は。おまえたちの関係がどこまで進展しているのか興味は尽きぬ——」
「いや尽きろよ! マキナはおまえの女じゃない」
「わかったわかった」両手を上げ降参してみせる私。
「……マキナはいい女だよ。夏の大会中ずっとサポートしてくれたし。代わりに僕も彼女にしてやれることをするつもりだし」
颯太がマキナにしてやれること。そのことについては私も認知しているところだ。マキナはただのかわいいだけの女子高生ではないということだ。
——全国高等学校野球選手権大会南北海道大会決勝が終わってはや1週間。
野球部の全権はもはや私の手を逃れ、眼の前の1年生、
1年前ボーイズリーグを制覇したチームの主力選手。4番セカンドとして大会MVPに輝いた超エリート野球選手。その颯太がなぜ野球を辞めたのか。
それは中学時代の公式戦最終戦最終打席。
その大会絶好調だった颯太が相手投手からインコース攻めに遭い、そしてついには——
頭部へのデッドボール。硬球がヘルメットを砕く。
そのまま球場近隣の病院に搬送される颯太。精密検査の結果なんら異常は発見されなかったがしかし、
過保護な颯太の父親は黙っていなかった。今後一切野球をやることを禁じ、道内外から複数あった強豪校からの
進学先さえ野球部が強くない(全国大会未出場)ことを求められたという。その結果がこれだ。
私が道を正した。
間違いなく野球ができる深道颯太という逸材を拾い上げた。1年目にして道大会制覇、颯太は全試合でヒットを飛ばし、
颯太は自分の父親の言うことに従い続けてきた。それは間違っていないのだろう。
島にいたときからしてそうだった。悪童中の悪童である私と交友関係を持つことを言外に否定し続けてきた。それが私と颯太との友情を妨げることは一切なかったが、決定的だったのは自転車で二人乗りをして事故を起こし、颯太が骨折したあの事件のことだった。
二人乗りを提案したのは私だった。颯太はただ従い、後部座席に私を乗せただけ。
事故後、あの中年男は颯太を背負い病院まで搬送した私を褒めた。口先だけは。事件から1ヶ月後男は1人息子とともにあの島から去った。それが3年前にあったことだ。
息子に悪影響をおよぼす同い年の男子から遠ざける。まったく尊い親心ではないか。
これは皮肉ではない。
3年ぶりにあった颯太はどこに出しても恥ずかしくないほどの好人物に育っていた。優しい人格者に。それが私の気に食わなかった。
堕ちて欲しかった。私のように。
女たらしであって欲しかった。自分の才能に自惚れるような傲慢な少年であって欲しかったのだ。
いくつもの偶然が発動した結果、私は私の望みを果たしたわけだ。
私の元から逃げ去ったマキナを颯太は助け、色々あってマキナは颯太に惚れ告白した(そう颯太は証言している)。実際学校でもよく2人で行動しているところを目撃していた。
私が誘った野球部に颯太は父親に黙って参加し、夏の大会でついに極北を眠らせることに成功したわけだ。この有能は貢献度という意味で私と評価を二分している。
これで驕らない高校1年生がどこにいるだろうか? 田舎出の、どこにでもいるようなパッとしない少年が、遅れてきて入学した高校生活で勝ち組とやらになっているのだ。学年で1番の美女を侍らせ、校内の体育会系の頂点に君臨する野球部で主力選手、かつチームは甲子園出場だという。
「颯太、うれしいだろう?」
「うれしいよ。うれしいのはこれからも厳しい戦いがまっているからだ。自分の限界を超えてチャレンジして、目標を達成しようとするのは面白い」
珍しく自分を語る深道颯太。
「……思ったのとは少し違う反応だな。4月のときのおまえに比べ、今のおまえはすべてを手に入れているではないか?」
「僕はまだなにも手にしてない。マキナとは……お試しでつきあっているだけだし、野球だって全国で勝てるかなんてわからないし」
颯太はきっぱりとそう言った。
こいつは自分を過小評価しすぎなのだ。私のように
「……私はおまえが自尊心を持つかと期待していたが」
「拾、おまえが野球を始めたのは、極北の復讐を代行し南北海道区を代表し全国制覇するためだろ? 僕が参加することなんて想定外のはずだ」
「初心は忘れるものだ。極北のことなんて忘れたよ。私という漢は……おまえに良い影響をあたえてきたよな?」
「おまえがいなければハードルも高くならなかったよ。拾が不真面目な人間だから逆に野球とか勉強とか頑張ってきたところがあるかもね。正直」
まったく颯太の言うとおりだ。私は移り気な人間である。そうでなければ女をとっかえひっかえ週替わりで手をつけたりはしないだろう。
美形で俊敏で頭が回り魅力に満ちている。大抵の場合、生まれついてスペックが高い人間はそれを伸ばす努力をしようとしない。まぁ、比較的という意味だが……。
私はつい最近まで鍛錬とか修行とかその手のアクションを忌み嫌っていた人間だった。これ以上強くなったら勝負が楽しくなくなってしまうではないか。ならば何事もぶっつけ本番で臨めば良いと。
それだけでやっていけなくなったのは——そう、野球を始めたからだった。競技の専門性に
3ヶ月前、颯太が野球部に入ってからというもの私はこいつに教えを求めてばかりだった。
島にいたころ、私についていき、私の言うことにしたがうばかりだったあんな小さな少年が私の師。伝道師。メンター。それが深道颯太。
立場が逆転してしまったことを強く認識している。
幼馴染にリードを奪われたのなら奪い返すまでのこと。この夏、内地にあるとかいう甲子園なる球場、あの劇空間で私が本物に返り咲こう。
「正直、正直ね……。おまえという人間の底が見えぬ。今のおまえは私を恨んでいるか?」
颯太は私の問いに答えない。
「拾、簡単にいえばこれは『ゲーム』なんだよ。そういう状況なんだ。——参加は強制だったけれど報酬は悪くない。野球で勝ち続けることも、マキナのこともそう。なにかに挑戦するなら逃げずにベストを尽くす。僕の場合はただそれだけだ」
私は颯太がテーブルに置いた英語の参考書を指して言った。
「そのT○EICとやらもそうなのか? 来週英語のテストを受けることも?」
「そうだ。マキナが僕たちを応援してくれたでしょ? そのお返しでこれのテストを受ける。一緒に僕もやることになって——どうせなら高得点をとろうかなって……」
野球だけではなく英語学習にまで時間を費やしている。日本一多忙な高校生候補に名乗りを上げるつもりか(私にしたって大会が終わってからは女たちを悦ばせることで忙しかったが)。
「マキナの英語力……中学時代弁論大会で全国出ているほどの才媛だぞ。勝てるのか?」
颯太は手を頭にやりながら答えた。
「正直自信なんて全然ないよ。あの子怒ったら英語で怒鳴ってきて全然ききとれないし……でも少しくらい聴きとれたら面白いでしょ? やりたい動機なんてそんなもんだよ」
そして参考書のページをめくる。
熱心な眼で文字を読み込んでいる。
=======
第10X回全国高等学校野球選手権大会。
出場する高校は予選を勝ち上がった四九校だが、それらすべてのチームを取り上げはしない。
この大会を制するのはこれから物語られる一〇校のうちの一校である。すなわち——
青海大学附属(東東京代表)
如月東(山形代表)
横浜銀星(神奈川代表)
西之園学院(愛知代表)
明石実業(京都代表)
天沢(石川代表)
神威(南北海道代表)
??(??代表)
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北海道札幌市所在の神威高校。小学生時代離島で暮らしていた幼馴染2人が、高校で再会しバッテリーを組む。
高校から始めた野球で急成長を遂げ、神威の躍進の原動力となった
ボーイズリーグの昨年度制覇者。日本一の選手と呼ばれながら一度は野球から離れていた深道颯太。
『奇跡の再来』極北高校の5季連続全国大会出場を食い止めた神威高校が、夏の甲子園で過去最強の敵——神奈川代表横浜銀星高校と激突することになる。
——夏の選手権、開幕まであと10日。
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