エッセー 「ヘーゲル哲学」自問自答

よひら

勝手にヘーゲル問答 vol.1 主人と奴隷 奴隷に自由はあるか?

 ヘーゲル「精神現象学」は、超難解で有名な19世紀のドイツの哲学書ですが、今なお多くの研究者を惹きつけている書物でもあります。多分たくさんの考えるヒントが詰まっているからではないでしょうか。

 そんな本を久しぶりにひっぱりだして読んでみました。いろいろな解説書の手助けを借りつつ、少しずつ読んでいますが、その読書体験を自問自答という形式で書いてみました。第1回めは「主人と奴隷の弁証法」という、割と有名な章の部分を材料に頭の体操をしてみます。


【問い】

 主人は奴隷の命をいつでも止める権力がある、表面的には主人は自由、自立しているが奴隷は主人の命令に服従するしか無いので不自由、自立していない。本当だろうか?

 奴隷に自由は皆無なのか?というヘーゲル「精神現象学」における思考実験です。

 この問題提起は、「もしも強制収容所で強制労働させられるとしたら、自由はあるのか?」とイメージしてよいかもしれません。

 *また、以下の文章での自分勝手な解答案ですが、正誤のレベルは正直わかりません。哲学は、「正解を出すのではなく、逆に問いを作る」学問だとすれば、100%の正解はありません、問いのみが続々生まれる変わった学問なので、あくまで一解釈に過ぎません。でも、こんなことを趣味で書いている文章、そんなふうにして流していただければ幸いです。



【答えを探る】 

 ヘーゲルは、「精神現象学」の中で「奴隷は、恐れの中で、奉仕と服従の訓練をさせられる」と述べる(ここでは、ロシア・ソビエト連邦や中華人民共和国の強制収容所、第二次大戦下のドイツのアウシュビッツ収容所など、奴隷状態の存在した場面での主人と奴隷というモデルで思考実験をしてみます)。

 このような状況では、主人には行動の自由であり、自立しており、奴隷を意のままに使う、奴隷に命令する権力がありますが、奴隷は不自由で、主人の命令に隷従するしか生きるすべはありません。いったん強制収容所に収容されてしまうと、解放されるまでは一生そこで不自由に強制労働に従事するなど、主人の命令に従わざるを得ません。

 ざっくりいうと、主人は「自立」しているが、奴隷は「自立していない」のです。

 しかし、ヘーゲルは「ものの見方」をちょっと変えてみて、「意識の経験」の面では奴隷が有利である、ということを述べているのです。そして、「意識の経験」を通して、奴隷は「他の存在」になりうる(可能性がある)ことを述べています。

 

 (*精神現象学は、「意識の経験の学」を述べた本です。意識の経験は、ある行為を行うことで意識を外化し、その反照をうけで学ぶこと(人だけが何かの目的をもち、そのためのアクションを行い、アクションの結果のフィードバックをうけ、さらに改善を行う、という意識の運動のこと、ヘーゲルは円環、形成とも表現している)をいいます。)

 

 その奴隷の意識の経験の契機となるのが、「労働」です。 

 奴隷は強制労働かもしれないが、労働を継続することでその作業に熟練し、自己を形成することができます。奴隷は、労働を通じて多分ヘーゲルが「意識の経験」と言っているプロセスを好むと好まざるに関わらず実践している、というのです。(服従の労働の中で、いろんな気付きがあり、自分の先入観を否定され、悩み、絶望する過程で新しく自分の気持ちを変えていくこと、やり方を変えていくという精神の運動を行っている)。

 繰り返しだが、その意識の経験プロセスの中で、常に何かのアクションを世界におこない(外化)、その結果からフィードバックを受け(反省、反照)、やり方を修正、改善していく、というプロセスを実践している。     

 

 (*繰り返しです。ヘーゲル言葉では、自己⇒外化⇒自己への反照という円環運動、いわゆるヘーゲル的「意識の経験」を実践して、自己を「形成」している、というのです。)

 

 しかし、だから主人と奴隷の立場が反転するとか、革命が起きるとか、そこまでのことは述べていません。しかし、ヘーゲルは、この瞬間、「意識が経験」する瞬間の繰り返しの中に、奴隷は自立する契機(チャンス、要素)がある、というのです。奴隷は、労働を通して意識の経験、形成という自立の状態をその時に持てるというのです。その点、主人より奴隷のほうがアドバンテージがある、ということだと思います。

 (*実際には、主人も「意識の経験」をする機会はあると思うのですが、、、。そこまでのことはヘーゲルは述べていません。むしろ、ここでは、主人が自由、奴隷は不自由という一見自明に見えることも、じつはそうじゃないよ、とこんなふうにも言えるよ、と考え方しだいで奴隷の優位を伝えることをしたかったのでしょうね、、、。)


【解答案、まとめ】

 「主人は奴隷の命をいつでも止める権力がある、表面的には主人は自由、自立しているが奴隷は主人の命令に服従するしか無いので不自由、自立していない。本当だろうか?」

 の問いに対しての解答案は、

 「いいえ、必ずしも、主人は自由、奴隷は不自由とは言い切れない。

 なぜなら、奴隷にも意識の経験を実践するチャンスがあるから。」


以上第1回目の散文を終わります。







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