第3話
彼のお名前は貫田さんと言うらしい。
貫田さんはそのまま、私を家の玄関先まで送り届けてくれた。まだ少し顔色が悪いし、雪澄さんの奥さんをこのまま放っておけないからと、そう心配して。なんて親切な人だろう。
お礼に中でお茶でもどうですかと誘ったものの、それは断固として断られてしまった。「流石に怒られます、俺が」と蒼い顔で。そんなことないと思うんだけど……。
気にしないでくださいと遠慮する貫田さんに、せめて何かしらのお礼はしたい私。
折衷案として次に提案したのは、自宅から徒歩一分の場所にある喫茶店でのお茶だった。
せめて一杯だけでも、と食い下がる私に、遠慮を続けていた貫田さんも最後には折れてくれて……私たちは現在、穏やかな店内に揃って足を踏み入れている。
「なんだかすみません、気遣わせちゃって」
「いえ、私も無理やりお誘いしてしまい……よく考えたらお仕事中ですよね。お時間大丈夫でしたか?」
席に案内されてすぐの今更すぎる私の質問に、貫田さんは「大丈夫ですよ」と笑った。
「……今日は、お出かけ先で具合が悪くなっちゃったんですか?」
ドリンクとケーキが運ばれてきたところで、貫田さんにそう訊かれる。
アイスティーで喉を潤しつつ、私はこくりと頷いた。
「はい、多分厚着すぎたのかと……。最近、たまにあるんですよね」
「そうですか……」
「あ、でも全然大したことないので! 雪澄さんにはご内密に……」
「言ってないんですか?」
「はい。……心配させちゃいそうで」
雪澄さん、たまに過保護なところがあるから……。
なるほど、と貫田さんは納得したようなしてないような、どちらともつかない返事をして、ふと表情を緩めた。
「そういえばちょっと気になってたんですけど」
「はい?」
「お弁当作られるんですか?」
本の表紙が見えちゃって、と微笑む貫田さんに視線を泳がせる。
「えっと、そうですね……」
「ありがたいです。あの人、食生活狂ってるんで」
「え、そうなんですか!?」
それはもう、と貫田さんは大仰に頷いた。
「忙しくなればなるほど疎かになって、最近はエナドリばっかなんですよ」
「そうだったんですか……。でも、逆に迷惑にならないですかね」
あまりにも快適な暮らしをさせてもらっているから、雪澄さんのために何か出来ることはないかと考えて、思いついたのがお弁当作りだった。
だけど、雪澄さんがお昼をどうしているのか全然分からなかったし、逆に邪魔になる可能性も考えて、中々実行に踏み出せずにいたのだ。
レシピ本を見るのは楽しくて、本屋に寄るとつい書籍を買ってしまうのだけど。
「ならないっすよ! むしろ大喜びじゃないですか?」
「そ、そうですか?」
「俺が保証します。あ、なんなら、サプライズとかしてみます?」
「サプライズ?」
「はい。俺宛に届けに来てくれたら、お昼、二人きりにしてあげられますよ」
に、と不敵に笑う貫田さん。
「それは流石に……」
渋る私に「絶対大丈夫ですって」と貫田さんは強気だ。
「なんならそれが一番喜ぶと思うんで、奥さんが嫌じゃなければぜひ。一度だけでもいいんで」
「ええ……?」
喜んで、くれるのだろうか。それはお世辞すぎる気もするけど……。
「そろそろ会食も増えてきて、機嫌損ね始めるはずなんで」
「会食……」
「今は奥さんがいるから、早く家に帰りたくて仕方ないみたいで。まあ、前は会社に住んでるのかってくらい帰らなかったんで、俺的にはすごく感謝してますけど」
やれやれといった雰囲気の貫田さんに、思わずくすりと笑ってしまう。なんだかこんな扱いを受けてる雪澄さんは珍しい気がして。
「わかりました。ちょっと、チャレンジしてみます!」
実は、雪澄さん用にお弁当箱も購入済みだったりするのだ。今は食器棚の奥、雪澄さんに見つからない場所に隠してある。
「お願いします。あ、会社の場所はわかりますか?」
「大体は……」
「一応、名刺渡しておきますね」
そう言って差し出された名刺を、大切に財布の中にしまう。
貫田さんと解散した後、家に帰った私は早速レシピ本を開いた。
◇
貫田さんから伝えられていた通り、それから雪澄さんは忙しさを増したようだった。
やっぱり、無理して帰ってきてくれてたんだな。
忙しいからこそ、食事くらいはきちんと栄養のあるものを摂ってほしい。その想いは日が過ぎるほどに強くなり、とある日、私はついに決意を固めた。
「……よし」
彩り重視のミニトマトを隙間に詰めて、小さく呟く。
雪澄さんに内緒で何度か練習したお弁当作りは、それなりに形になってきていた。きっとこれなら、他の人に見られても恥ずかしくはない。
チラリと壁掛け時計に視線を遣る。丁度いい時間だ。今から向かえば、お昼休みの十分前くらいには到着するだろう。
まだ真新しい、木の香りがするお弁当箱を保冷バッグにしまう。
最後に貫田さんから貰った名刺を手に取って、私は家を出た。
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