第18話
「青柳さん、早いよ。」
「そっちが遅いんだよ。」
休憩を終わりにして、高速道路の向こう側に渡り、志賀重昂銅像と三河男児歌碑に向かうわたしに、後方から投げかけられた言葉だった。
たしかにこの坂は急だと思うけれど、コツがある。
「こういうのは一息で越えちゃうのがコツなんだよ」
ランニングでも、何でも同じだ。
途中で気を抜くと、そこから一気にダメになってしまう。
わたしのようなさぼり癖、先延ばし癖のある人間なら特に。
中学で部活に打ち込んでいた時は毎日のように3キロのランニングをさせられており、そこから得た教訓であった。
「青柳って、何部だったの?」
「テニス部、県大会に出たことだってあるさ」
テニス部にいたころは、楽しかった。
自分がおかしくなったのは、引退してからだ。
――――
はてさて、どうしたものか。
志賀重昂銅像と三河男児歌碑の撮影を片付け、自分と唯以外の三人を本多忠次邸に向かわせて、私達は本多光太郎資料館に向かってみた。
取り敢えず、自分には唯一の上級生としての課題が多いことが分かった。
一つは、唯と他三人との関係。
唯が一人暮らしをしていることを彼らは知らず、唯が岡崎に住んでいる理由に嘘をついている以上、トラブルの火種になる。
唯は噓が下手くそなのもあるが。
もう一つは、体力差。
唯が予想以上に体力があることも驚きであったが、意外と他三人の体力がない。
加賀さんは陸上部だと聞いていたのだけれども……
外活動はグループ分けするべきだろうか?
去年は先輩が引退してからは一人でやってきたからか、その辺の知識が足りない。
「先輩、きて!」
資料館の中から聞こえるその声を合図に、私は意識を現実に引き戻す。
「どうしたの?唯」
「ロボットだ!ロボット!」
資料館は、岡崎の誇る物理学の研究者、本多光太郎のもので、この資料館も、彼が使っていたものを移築したもの……というのは、岡崎に住む人ならほぼ常識クラスの話。
小学生の時にここまで来たし、もちろんロボットがいることも知っている。
駆動部がむき出しで、如何にも繊細そうなロボットは、U字型磁石の形をした椅子に座り、指をカタカタと鳴らながら彼の研究内容や開発したもの、そしてそれが今の生活にどう役立てられているかについて、唯に語っている。
自分たちにとっては対して珍しいものではないが、唯にとってはそれこそ未知との遭遇ともいうべき出来事なのだろう。
子供のように目を輝かせ、ロボットの……正確にはスピーカーの流す解説に聞き入る唯は、可愛いと思う。
傲慢で、本来であれば間違った選択肢であることは重々承知の上で、あえて。
あの三人より唯を優先したいと私は考えている。
「唯」
「どうしました?」
「キスしようか」
これはきっと、欲だ。
わがままな私を許してくれて、そばに居てくれる唯を離したくないという欲だ。
――――
「青柳が起きてる、珍しいな」
そんなことは無い、わたしが授業中丸ごと寝てる時なんてほとんど無い。
まあ、ずっと起きてる時は、もっと無いんだけども。
午後の最初の授業は、寝ている生徒も多く、静かで居心地がいい。
考え事にはうってつけだ。
いつものように目を閉じて、思考の海に意識を沈める。
考えたいことは、ハイキングの時の先輩について。
キスの後、他三人と合流してすぐ、解散したのはなぜか。
自分がミスをした?売店での会話以外ではミスは無かったはず。
キスがまずかった?キスをせがんだのは向こうだ、文句を言われる筋合いが無い。
それらについて考えるために目を閉じたはずなのに、頭に浮かぶのは別の内容だった。
今日の朝、酷い夢を見た。
あいつを、車椅子の少年を力一杯殴る夢。
骨の軋む感触、命を奪うことの感触。
人を殺したことなんて、もちろん無い。
しかし、命を奪うこと、奪われることの怖さだけは知っていた。
「……母さん」
もうそろそろで10年、母さんが殴られ、突き落とされたあの日。
唐突に、自分は普通では無いことを知った。
近所に住む父方の祖父は、障害者であるわたしとそんな出来損ないを産んだ母を疎んでいた。
そして、そんな出来損ないではない兄に期待していた。
母さんが殴られた理由は一つ。
兄さんを叱ったからだ。
何故叱られていたのかはよく覚えていない。
兄の泣き声を聞いた祖父が家に乗り込み、母親に暴力を振るい、わたしを蹴り飛ばしたことだけが、純然たる事実として残っている。
「この出来損ないが」という言葉と、自らの下腹部の痛みは、すぐに思い出すことができる。
わたしは母さんを守ることが出来なかった。
青柳の家の方から母さんが嫌がらせをされていることに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
最近、昔の夢をよく見る気がする。
ここの生活は楽しい。
しかし、「逃げるな」と言われている気もする。
だめだ。今日は嫌なことばかり思い出す。
意識を現実に戻そうとしたわたしの足を何かが掴む。
「逃げるなよ、障害者サマ」
思考の水底から伸びた触手が、息継ぎのために思考を辞めようとしたわたしの足を絡めとり、水底に引きずり込もうとする。
「逃げるな」
「逃げるな」
「逃げるな」
「逃げるな」
「障害者のくせに」
「……違う」
違う、わたしは青柳唯だ。
「なぜそう言える?ハイキングの時だって、あんなどうでもいい質問一つ答えられなかったのに?」
「それは……」
言えるはずがない。
「噓をつくことだって、できただろう?」
「違う、わたしは……」
水底に開いた口はまだ続ける。
「本当はわかってるんだろう?お前は障害者にしかなれない」
「自分が障害者じゃないと思い込んで、母親が殴られたのは自分のせいじゃないって言い聞かせたいんだよな?」
「やめろ……」
やめてくれ、そんな現実、知りたくない。
「責任を兄に擦り付けて、悲劇のヒロインをしていたいだけなんだよ!」
「やめろぉッ!!」
背中を勢いよく床にたたきつけた衝撃で、わたしの意識は現実に引き戻された。
息が苦しい。
兄さんに背負い投げされた時よりずっと、背中が痛い。
受け身も取らずにクリーンヒット、痛いはずだ。
「青柳さん、大丈夫?」
仰向けになったわたしを机の上から覗き込む赤城さんに答える。
「大丈夫じゃない」
「かなりうなされてたね」
「授業中考え事した罰かも」
倒してしまった椅子を立て直しながら、溜息を吐いた。
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