第10話 変化すること
「やっぱり……」
久しぶりに、本当に久しぶりに、声を聞き逃した。
わたしの忌々しいこの耳は、いったいどれだけわたしを苦しめれば気が済むのだろう。
普段どんなに聞きたくない言葉でも遠慮なく流し込んでくるのだから、こんな言葉くらい聞かせてくれてもいいじゃないか。
首元や手のひらに汗が浮かぶのは、少しずつ夏が近づきつつあるからか、聞きたい言葉があるという珍しい感情に驚いたからか。
制服のリボンと首元を緩めながら、わたしに背中を向ける先輩を見つめる。
「もう一度言ってください。」そう一言言うだけじゃないか。
「先ぱ……」
『やっぱり聴覚過敏なんて噓じゃない』
「……ッ」
先輩の背中に伸ばしかけた左手を押さえ、そう言いかけた口を噤む。
「唯、また放課後に。」
「……はい」
部室の扉が閉じられ、先輩の足音が聞こえなくなってから、呟く。
「先輩のせいだ」
先輩にあの日出会わなければ、こんな思いをしなくて済んだ。
たった一か月で、ここまで変化する必要も無かった。
人の声が聞きたいなんて思うことは無かった。
死人のように口を噤んで、三年間。
これまでと同じように生きることができた。
届くはずのない「普通」を無邪気に信じることができた。
「先輩のばか。」
我ながら、見事な責任転嫁だと思う。
でも、こう言うしか、自分を慰める方法を知らなかった。
世界の音はわたしを否定するけれど、文字はわたしを否定しなかった。
昔から本ばかり読んでいたのは、家の本棚にたくさんの本があったからかもしれないし、それを心のどこかで知っていたからかもしれない。
唯一わかることは、当時のわたしの世界は紙の上にあったということだけだ。
自らの世界を文章や絵にすることで伝えることのできる作家というものに憧れたし、作家の真似事をしたこともあった。
それで知ったことは、自分の考えていることを伝える一番楽な方法は自分の口を使うということだ。
小説家や漫画家と言われる人たちは、ある種の才覚と、努力によって紙の上に世界を作り上げており、その世界はわたしには簡単に真似などできない血と涙の結晶だった。
だからこそ、その紙の上の世界を尊いと思った。
この紙の上に広がる世界のどこかには、わたしの思いを受け止めてくれるものがあると思った。
沢山の本を買って、しがみつくように読んだ。
それによって得たものは、ほんの一握りの文章力だ。
今日の最後の授業は国語だった。
嫌になるほどの倦怠感をどうにか宥めながら、バッグに教科書を放り込み、「はぁ」と溜息を吐く。
今日の漢字の小テストは散々だった。
どうやらわたしは、文章を読むことに長けているが、字を書くことは苦手な人間であるらしい。
読みの問題はもちろん全問正解だったのだが、書きの問題は半分も当っていない。
これは最早聴覚過敏の次くらいに長く付き合っている問題であるためか、解決しようという気すら起こらない。
聴覚は生活に影響を与えるが、漢字くらい書けなくたって死ぬわけではないし、頭が痛くなるわけでもない。
どうしてもわからない漢字があれば、調べればいいのだ。
そのために、わたしたちはスマホを持っているのだ。
しかし、今のわたしの感情は、スマホで調べられるものだろうか?
ついついバッグの中の文庫本に手が伸びそうになる。
しかし、この本の中にも、答えはないだろう。
文庫本を読むことを諦めてバッグを持ち、部室に向かう私は、考えていた。
変化することとは、何だろう。
大人になることとは、少し違う気もする。
大人になるということは、築き上げるということ。
変化するということは、上書きすること。
変化することに、恐怖があった。
築き上げたものを上書きするということは、自分を否定することだ。
このままでは、すぐに自分を見失ってしまいそうな気がする。
個性とは、灯台に似ている。
周囲の人間たちの海の真ん中に浮かぶ、孤独な灯台。
有名なアニメ映画のワンシーンを思い出す。
ヒロインの半魚人の女の子の力で、主人公の家の周りがすべて海に沈む、あの光景。
子供の時、それに恐怖したのを覚えている。
家から見えるのは一面の海原。それが怖かった。
しかし、周囲から見れば、それはとても頼りになる、心強いものであるという。
きっと、個性とはそんなものだ。
膨張していく周囲のなかで、自分を見失わないようにする目印。
しかし、わたしのそれは、芹沢春という大きな波にさらわれ、少しずつ崩れかけている。
新たな灯台を建てるための新天地を目指す気力は、まだわたしに残されているだろうか?
ほとんど無意識で、脚だけ動かしているわたしが部室の階に着いたとき背中に衝撃が走った。
「青柳さん!」
「わっ、誰!」
呼び方的に先輩ではないだろう。
「私だよ、白井夏美。」
「ああ、あなたね」
「青柳さん、部室行こっ」
「今日の仮入部、うちのとこなの?」
「そう、この前見学もしたしね」
この人は部活に興味があるのだろうか?
どちらかというと「部活をしている自分」に興味がある人だと思う。
友達とおんなじ部活を選択しそうな印象だ。
つまるところ、うちの部に入る意味が分からない。
「なんでうちの部に?」
「青柳さんに興味があってね。」
「私に?」
真面目な顔だ、冗談や逃げが通用しなさそうな眼をしている。
「はっきり言えば、青柳唯がどういう人間かを知りたい」
「出来れば仲良くしていきたいけれど、嫌いになることだって相手を知らなきゃできないでしょう?」
「意外とはっきり言うね、もっとオブラートな表現を好む人だと思ってた。」
それは本心だ、自分の知る限りでも彼女は多くの人と仲良くしていた。
そして、相手によってまるで違う人になったように話す人だとも知っていた。
「青柳さんはこういうほうが好きかなって。」
「気に入った?」
「そういうところは尊敬するよ。」
これも本心だ。
器用なコミュニケーションが取れる人は、素直にすごいと思う。
「いつからわたしに興味があったの?」
「そりゃもう、入学試験の時からだよ」
「知らない制服、独特の雰囲気、それだけで高校生としては大イベントの予感がするでしょう?」
そんなに独特の雰囲気だったろうか。
確かに精神的に相当参ってた時期ではあったし、人によってはそれを感じ取れるかもしれないが。
「でも、今の青柳さんは、その時とは少し違うな。」
「そうかな?大して変わってない気もするけど。」
「あの時より、余裕がありそう。それは、芹沢先輩のおかげ?」
自分は客観的に見れば変化しているらしい。
もしそれが事実であるとするならば、確かに先輩のおかげと言えるだろう。
そのくらいの自覚は自分にもあるが、話したくはない。
「ごめん、具体的には話したくない。」
「じゃあ、芹沢先輩が青柳さんを名前呼びしてるのは?」
「……それも。」
「そっか。」
変化することが怖い。
自覚ないうちなら、尚更。
自らの灯台をすでに失っているのであれば、わたしが目印にしなければならないのは誰だろう。
親と兄は、300キロの彼方。
となりの白井さんは、わたしの目指す方向と違う気がする。
なら、先輩だろうか。
わたしの海に先輩は、まだ、見えない。
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