第16話
脱兎の如く逃げる《連邦》の戦艦の情けない姿を見て、ノウト・ササヤマ大尉はエクシア級戦艦『メナデル』の戦闘ブリッジから口元を歪めながら眺めていた。
「さて、後は御覧じろ、といったところか」
ノウトの呟きに、逃げる《連邦》艦の様子を追っていたセンサー長が、小姑めいた口調で質問を投げかけた。
「本当に上手くいくでしょうか?このまま巣に逃げ帰ってしまう可能性もあるのでは?」
「当然の疑問だ。だが、敵の要塞からの増援の気配はないのだろう?」
「はい」
今のところは、と言いたげなセンサー長の様子にノウトは涼やかな笑みを浮かべつつ、根気強く説明してみせた。
「いくら辺境の部隊だろうと、我々との接敵は既に報告を入れているはずだ。しかし未だに援軍一つ寄越さずに味方を孤立させておく理由とはなんだ?」
「深紅の大鷲が相手ということで、対応を決めあぐねいているのやも?」
「ハハ、たしかに大いに有り得る話ではある。連中が臨機応変であった試しなどない。となると、やはり連中はこないさ。誰が大佐に殺されるのかで責任の押し付け合いだ」
日々の訓練や哨戒だけが仕事となっている《連邦》の辺境部隊の脆弱さを前に、実戦渦中にありながら、ブリッジのクルーたちの表情も緩んだものになっていた。
そんな彼らの背骨に、いきなり氷柱を突っ込んだかのような、冷えた緊張を強いる人物がブリッジへとやってきた。
「随分と手荒く追い払ったではないか。ノウト大尉」
ドアを潜ってきたのは、この戦艦『メナデル』の主であるフェルト・フォン・タイヒその人である。
新雪のような柔らかく透き通った銀髪と、神代の名工すらその美しさを前にしては、表現を諦めるほど艶やかな美貌の女性。
黄金の双眸で射抜かれたらしい警衛兵は、敬礼の姿勢のまま、いっそ哀れを誘うほど萎縮しきっていた。
「あの場は、私に任せて貰えると思ってたが?」
ノウト大尉はセンサー長の座る座席からフェルトへと向き直り、敬礼の姿勢を取った。
「大佐があの艦を撃沈させる気でなければ、私も横槍など入れませんでした」
「……フン」
不満気に鼻を鳴らしながらも、渋々とフェルトはノウトの言い分を認めた。一〇年間想いを馳せた男から熱烈な誘いを受け、思わず力を入れてしまったのは事実だったからだ。
「如何でしたか。《連邦》の軍神との戦いは?」
「良かったよ。まだ核心には触れていないが、やはりあの人は何かが違う」
《連邦》の軍神ことジョバンニ・シスとの戦いを思い返しているのだろうフェルトの表情には、淡い恋心を抱く乙女のような笑みがあった。
そんな彼女の様子を見たノウトは、内心僅かな苛立ちを涼やかな笑みで糊塗した。
確かにノウトは深紅の大鷲に忠を尽くすと誓った身である。だが、この猫のような好奇心と熊のような執着心だけは、頭痛の種だった。ノウトが副官となってからこのかた、フェルトが興味を示したモノがトラブルに発展しなかったためしがないのだ。
今回だって《連邦》の戦艦を撃沈しやしないかと、気をもみながら待機していれば、フェルトが見境をなくしかけたせいで、大慌てで出しゃばる羽目になったのである。
そんな部下の気持ちを知ってか知らないでか、フェルトは感慨深げな表情で語る。
「私の殺意を大尉が止めに入ると分かっていた。そう、絶対に死なないという確信、のようなものがあった」
「そんなまさか。相手の破れかぶれの行動と、我々の目的がたまたま運良く合致しただけですよ」
大尉の意見に、しかしフェルトは頭を振った。
「いや違うな。それだと『メナデル』の潜伏場所の捜索を止め、私と勝算のない一騎打ちに挑む理由に納得がいかない」
「武人肌だったのでは?小規模戦闘を決闘と捉える指揮官は……まあ、いますから」
思想の差はあれど、《連邦》と《帝国》という軍隊の中には、総じて己の美学や拘りというものに、強い意識を持つ者が少なからず存在する。《連邦》の軍神が破滅を前にして悲壮感に酔いしれる軍事ロマンチストだったとしても何ら不思議ではない。
だが、そんなノウトの考えは再びフェルトが、頭を振って否定した。
「そう。だから引っかかる」
そう言ってフェルトが胸元から取り出したのは、記録カード。おそらく先程の戦闘の記録が入ったものを通信兵に手渡した。
「ここから、ここまでの通信音声を、相手の艦長の声だけ出してくれ」
男口調でそう命じているフェルトに、解せない様子のノウトたちは顔を見合わせながら、スピーカーから音声が出るのをただ待つしか無かった。
『全艦、回頭。目標、敵FMG。砲雷長。ジャミングミサイルをオレが指示した位置に――』
低く、ただどこか飄々とした男の声が、『メナデル』の戦闘ブリッジに響いた。
最初の方は『U粒子』が散布されていなかったため、音質は悪くないのだが、『U粒子』が散布された後の音質は、ノイズ混じりで聞き取りにくいものになってしまっている。
『……ではどういう形を望まれる?』
「……通信はここまでです」
「もう一度」
短く、だが有無を言わせぬフェルトの声音に、通信兵は再び同じ音声を流した。
『全艦、回頭。目標、敵FMG。砲雷長。ジャミングミサイルを――』
再び流される《連邦》の軍神の声。そこには、決然と、だが断固とした態度を持って深紅の大鷲と対峙するという意思を感じられる。
指揮官としていっそ理想的とすら言える態度だ。戦場にあっては、こういう上官の元で戦いたいと、敵であるノウトですら感じ入るほどだった。
「この音声を聞いて、大尉はどう思う?」
フェルトの問いに、ノウトは一呼吸の間を置き考える。
「非常に落ち着いた印象を受けます。深紅の大鷲を前にして、これだけ冷静な言葉でクルーに指示を与えられるのは驚嘆に値します」
ノウトの答えに、フェルトは上出来だとばかりに薄く微笑んでみせた。
「私も大尉と同じ考えだ。ただ落ち着きすぎている。軍の記録映像で聞いた声とまるで変わらない」
「それはつまり……」
「あの人の心は、殺される直前にあって尚、平時のそれと変わっていない、ということだ」
フェルトは、そう結論付けた。その言葉の意味することを理解したノウトの背筋に冷たいものが流れる。
戦場では目を覆いたくなるような虐殺すら、眉一つ動かさず淡々と行える者もいる。上官からの命令だったから、だとか。感情や思考が欠落している、とか。そういう者たちをノウトは戦地で何人も見てきた。
当然、深紅の大鷲も、いや彼女はノウト以上に戦場の深淵を覗いている。そんな彼女が断じてみせた。《連邦》の軍神の言動は、すべて演技だと。
それは間違いなく〝異常〟と言えるべき物である。舞台や撮影など、特別なその日に向けて自分を、その場に相応しい役へ変化させる役者はいる。長く役に入り込みすぎたせいで、自分と役との境目が無くなることもあると聞く。
だがこの声の主の場合はどうなのだ。役者でもないただの軍人が、常日頃、一挙手一投足を誰かに見られていると意識しているという事実。或いは彼が、潜伏工作員であるのなら、頷くこともできる。
しかし、だとしてもだ。大佐の言う通り、自分の命がかかった場面ですら、必死さが出ないなど、人間性を凌駕した何かでなければありえない。
「恐ろしい人だ。仮面で覆われた軍神殿の素顔が見えてこない事もそうだが、しかしそれ以上に、私は彼の手の長さが怖い」
「手……ですか?」
ノウトの疑問にフェルトは首肯する。
「あの人の手玉に取られていたという感覚が拭えない。或いは、我々とメニンゲン中将との秘密を知った上での行動だったのかもしれない」
「しかし、もしそうだとするならば、なぜ我々と会敵する選択をしたのですか。十分回避できたはずのリスクです」
間髪入れず返ってくるノウトの反論に、フェルトはだが頭を振る。
「リスクとすら感じていなかったのだろう。何かに守られているかのような……その存在がいる限り軍神殿が、絶対に死なないと確信させるのだ」
「まさか……あの艦には、神か悪魔が取り憑いているとでも?」
ノウトの問いに、肯定も否定もせず、ただスピーカーから流れてくる男の声にフェルトは耳を傾けた。理想の指揮官という仮面を被っている《連邦》の軍神。彼の仮面の奥に潜む物を暴こうとして。
「……」
スピーカーから聞こえてくる男の遍歴をフェルトは知っている。
実家や軍のコネを駆使して、可能な限り揃えたジョバンニ・シスという男の記録を頭の中で思い返す。《帝国》の大軍を退け、民間人を救い出した《連邦》の英雄。望めば今頃は、将官となり艦隊の総司令官の椅子にでも収まっていただろう人物だ。
だが彼には出世の野心など微塵もなく、ただ《連邦》という組織の歯車であり続けた。その結果が、僻地の老朽艦の艦長という役割だった。
彼を傍目から見れば、徐々にすり減り動かなくなっていく歯車として映ったことだろう。
同じ毎日を繰り返し、少しずつ老け込んでいきやり直しが効かなくなる。自分という人間に与えられた時間を社会に捧げた愛国者。《連邦》という巨大な組織からすれば、いくらでも換えのきく、大勢いる部品のうちの一つ。
多くの者たちがそうしたように、歳を重ね役割を終えるのを待つだけの男。
だがその全てが演技だったとしたら。
「貴方には何が見ている?」
自分も他人も偽り、役に徹し切る。そうまでさせるモノとは何か。
ブリッジのメインスクリーンに映し出される宇宙を見遣る。
もう一度。再び戦場で相まみえた時、彼の素顔を知ることが出来るだろうか。
スクリーンには、敵の潜伏宙域を予測する青い円が表示され、ゆっくりと明滅を繰り返している。その光が奇妙に心をざわつかせるのは、これから多くの人間の運命を狂乱に巻き込むと知ってるが故か。
静謐な光を放つ星の海。その中に隠れ潜む敵艦は、今は隠れ正確な位置を把握することは出来ない。
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