海
久里 琳
海
おさない頃、海にあこがれた。話に聞く海はどこまでもひろく、ふかく、豊かでうつくしい。
昼に空を見あげてはその青さとはてしなさに海を想った。見晴るかす遠い稜線のむこうまでにも空はつづき、はるかな先でいずれ海とつながるはずだった。
夜はベッドに兄貴と枕をならべて、いつか海を見るのだと熱く語り合った。その兄貴もいまはもうこの世にない。頭の良かった兄貴は新しく
兄貴は海を見る機会を得ることなく死んだ。おさない日の夢を果たすのは俺の手に託された。山頂に雪をかぶったはるかな山なみに切られた青空をにらみ、まだ見ぬ海の青色もこうであろうかと想像する。だれに強制されなくとも俺には海は、いつか果たさなければならない神聖な義務だ。
青い海へのあこがれは、青い瞳のひとへのあこがれと結びついているのかもしれない。そのひとは短い夏のある日、オイルの香ばしい匂いするジープから降り立った。
その頃から異邦人はすでに珍しくなかったが、民俗文化の調査採録に来たという数人のなかに若い女性が混じっていたのには皆がおどろき、なにかと注目をあつめた。俺たち兄弟が彼女と仲よくなったのはちいさな偶然からだ。
西の涯からやってきた、気の遠くなるほど長い長い旅のすえに
異邦人たちがあきらめ去ったあとの草原で熱心にスカーフを探しつづけてついに見つけたのは当時八歳だった兄貴だ。夕食前、俺と兄貴とで彼女のゲルを訪れスカーフをわたした。ちいさな訪問者に彼女は最初おどろいたが、俺たちとスカーフを見くらべるとにっこり笑い、つたない言葉でゲルに迎え入れチャイとお菓子をごちそうしてくれた。お菓子は俺たちの知らない甘い味がした。一撃で俺はこのひとが好きになってしまった。俺は六歳だった。
きっと兄貴もこのひとが好きだったのだと思う。ふだんは饒舌でえらそうに俺にちっぽけな真理を語る兄貴が、彼女のまえでは口数すくなになった。おとなしくならんですわる俺たちに、彼女は遠い世界のことをおしえてくれた。とくに俺たちが心ひかれたのは海だ。おそらく彼女自身、海への憧憬がつよかったのだろう。熱っぽく海を語るときの彼女の瞳も、頬も唇もかがやいて見えた。
彼女が俺たちと行動をともにしたのはほんのひと月に満たない。そのわずかなあいだに彼女は俺たち兄弟の胸にまるで呪いででもあるかのように海へのあこがれを植えつけ去っていった。その呪いはいまも有効だ。
新政府が招集した軍に従いすすむ俺はいま、すこしだけ海に近づいているのかもしれない。やつらが言う「敵」はころころ相手が変わるしそもそも中央政府の連中にしても外からやってきたやつらの傀儡に過ぎないからこの戦争にどのような結着をつけられようが俺にはどうでもいいことだ。ただ俺は海を見なければならない。それまで死んではいけない、この歩みを止めてもならない。草原が西からの風に揺れる。となりをのろのろ進むジープは古い油の匂いをさせている。風は草の香りをつれてくる。
(おわり)
海 久里 琳 @KRN4
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