第19話 黎明は遥か遠く.4

 人が変わったように激しく斬り結ぶ燐子に、ミルフィは思わず番えていた矢を地面に落とした。


「燐子…?」


 二本の刀を手に、敵の囲いの中で激しく乱舞する彼女は、見るからに楽しそうで、帝国兵の決死な表情と反比例するように、口元には歪んだ微笑みが浮かんでいた。


「燐子さん、何だか様子が変だよ」


 エミリオが新しい矢筒を両手にぼやく。


「あんなの、たまたま死んでないだけじゃない…!色々限界が来て、おかしくなったんじゃないでしょうね?」


 ミルフィはそう言うと縄梯子を拾い上げて、門の外側に下ろした。


「ちょ、お姉ちゃん、どうするの!?」


「ここからじゃ援護できない、下に降りるわ!」


 ミルフィは弟や祖父の制止の声を振り切って、素早く下へと降りた。


「み、ミルフィ!」


「大丈夫よ、おじいちゃん!あの馬鹿の目を覚まさせたら、すぐに戻るから!」


 当然、彼らが納得する様子はない。だが、今は肉親の声を振り切ってでも燐子に近づきたかった。


「燐子…!」


 少し前方で、燐子が多勢に無勢なりに奮戦を続けているが、勢いだけで相手を圧倒しているだけだ。次第に押し込まれるだろうことは、火を見るよりも明らかだった。


 燐子から一番距離の離れた相手に狙いをつける。


 十分に引き絞った右手を離すと、矢は帝国兵に向けて一直線に飛来し、喉を横から串刺しにした。


 帝国兵たちが、目を白黒させて倒れた仲間を見つめていたところ、その隙を見逃すわけもない燐子が、片手で脇腹を引き裂いて、振り向きざまにもう一人の片腕を切り落とした。


 辺り一面、血の海だ。


 苔のように地に張り付いている血液の上に、さらなる血が流れる。


 それをたった一人で繰り返していた燐子が、ゆらりと体を起こして幽鬼のように立ち尽くした。


 呼吸は荒く、肩を上下させて苦しそうにしているが、まだ瞳は生気を失っていない。


 彼女のそばに近づきつつも次の矢を番え、息を殺して敵兵を射抜く。


「燐子、大丈夫?」


 後ろに下がった兵士を横目にしつつ、燐子の背中に近づく。


「無茶しすぎよ」


「ミルフィか…」と燐子は夢見心地のように呟いた。「どうして、ここに」


「どうしてもこうしてもないわ。あんたが人の話も聞かずに、敵の中に突っ走るからでしょう」


「そうか」


 無気力に呟いた燐子の体がかすかに揺れる。


「ちょっと、大丈夫?」


「寄るな、敵に疲れを気取られる」


「そうは言っても、まだ丘の上には兵士が残っているわ。一旦門まで下がって、体を休めなさい」


 燐子を案じ、彼女の肩に手を置いたミルフィだったが、その手は燐子によって激しく払われてしまった。


「り、燐子…?」


「手出しは無用だ、ミルフィ。ここで死ぬなら、ただそれだけの人間であったということ。全くもって、問題はない」


 独特な美しさを放つ日本刀に似た燐子の空気に気圧されたミルフィは、その孤独と死を厭わぬ背中に、ぐっと喉を押し潰されるような感覚を覚えた。


(燐子は、ここで死にたがっているんだわ…)


 違う世界からやってきて、ずっと寂しさという亡霊に付きまとわれていた燐子。


(ここで死なせてあげることが、彼女のため…?)


 ふと、燐子の後ろ髪をまとめている安物の髪ゴムに目が止まった。


『お前との時間は、やけに落ち着く』


 そう告げた、あのときの燐子の表情が脳裏に蘇る。


 あの顔は…、心の底から、いつ死んでもいいと思っている人間のものではなかったはずだ。




 ミルフィは、自分がここで引き下がっては駄目だと強く感じて、決然と立ち上がった。それから、燐子の肩を強く掴んで後方に押しのける。


「問題大有りでしょうが、馬鹿。アンタの腕一つに、みんなの命がかかってるのよ」


 つい先ほどまで、餓狼のような形相を四方に向けていた燐子だったが、ようやく落ち着きを取り戻したようで、一度両手の太刀を振り払うと、鞘にゆっくりと納めた。


「すまん。冷静さに欠いていた」


「…あんまり、心配かけないで。ばか」


 ほどなくして、再び敵が斜面を駆け下りて来る音が聞こえ始めた。


「…夜明けはまだ先か」


 東の空を見つめる。しかし、未だ黎明の輝きは見えず、山の頂は暗黒に染まるばかりだ。


「もう少しだとは思うけど」


「だといいがな」


 燐子は太刀の柄に手を伸ばし、凛とした目つきで抜き放つ。


「こちらの消耗が先か、騎士団の到着が先か、いい勝負になりそうだ」


 空気中に響き渡った、刃が鞘を滑る独特の音が消える頃には、燐子の息も整っていた。


 しかし、その横顔には疲労の色が如実に表れており、彼女にだって限界があることを示している。


「とにかく準備をしなきゃ」とミルフィが矢筒から矢を抜いて、それを弦に番えた瞬間だった。


「だ、誰か!」


 門の右側。つまり、河川のほうから悲鳴が聞こえた。エミリオのものだ。


 反射的に振り返った二人の視線の先に、川へ向けて弓を構えているドリトンの姿があった。


 駆け足で木の柵まで近づき、様子を確認する。そうすれば、川の流れに耐えつつ、じわりじわりと門を迂回して村へと迫る敵兵の姿が見えた。


「あ、あいつら、川を…っ!」


 川は決して浅くはない。その証拠に、まともな速度で進めていないし、時折、川の流れに足を取られて転倒し、浮かび上がってこない者もいた。それでも、強硬するつもりのようだった。


「あぁ、もう!」


 エミリオが、お祖父ちゃんが、みんなが危ない。


「何をしている、早く行け」


 不意に、燐子が告げた。


「ここは私一人で十分だ」


「で、でも」


「よいと言っている。門の向こうに回れ。そのほうが狙いも定めやすいはずだ」


 だが、燐子のほうだって、これ以上一人で凌ぐのはきっと限界だ。


「燐子、あんた、もう…」


「くどいぞ。村の者たちに死なれたら、何のための戦いか分からなくなるだろうが」


 燐子の言い分は正しい。だが、ここで燐子を見殺しにできるほど冷徹ではなかった。


 しかし、ミルフィの逡巡を無視して、燐子が早口で告げる。


「今朝も、ミルフィの飯を食った」


「は?」


「生きるための飯だ。…違うか」


「燐子…」


「ふん、さっさと行け。時は金だ」


 言葉と共に、燐子の瞳に生きようという意志が見えた。その輝きによって、ミルフィの覚悟は決まる。


「馬鹿じゃないの」と呟いたミルフィは、全力で門のほうまで駆け出した。「死なないでよ、馬鹿燐子!」


 同時に、炎の壁の向こうから敵兵が飛び込んでくるのが分かる。


 だが、ミルフィはもう振り返るつもりはなかった。

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