第17話 黎明は遥か遠く.2
ばちばちと弾ける篝火の音が、作業を終えた者たちの間に流れている。そんな中を燐子は労いの言葉をかけながら村の出口まで進んでいく。
見事なものだ、と数日前まではただ門構えがあっただけの場所を見上げ、感嘆の声を漏らした。
川が両側に流れている隙間に作られたこの門は、もはや城門、と表現してもいいほどに堅牢なものと化しており、木材でできていることさえ除けば上出来であった。
もちろん両側の川を抜けられれば意味はないが、そうさせないための策も考えてある。それに、川岸に近づいてみると分かるが、それなりの深さがあり、馬や鎧を着た状態で泳いで渡るには厳しい。
たとえ、泳いで渡ったとしても、防護柵で隔てているので、そう簡単に浅瀬のほうへは出られない。
さらには、門の先、丘から下ってくる道中に簡易的な木の柵を作っていて、鋭利な先端を丘の方へ向かって突き出すように設置している。
別にそれで相手を仕留めることが目的ではなく、相手の侵攻を遅らせ、なおかつ通る道を狭く、一点に絞ることが目的なのだ。
(これだけしていれば、そう簡単には通過できまい)
後は騎士団到着までの時間に全てがかかっている。
騎士団が先に到着すれば、こちらは一切何もせずに済むだろうし、逆に向こうが先に到着しても、時間次第では耐えきることもできるだろう。
まあ、余程の手練がいればそれも叶わないが、昨日の帝国兵を見た限り、たいした練度ではあるまい。
ただ、随分と到着時間に差ができてしまった、そのときは…。
「燐子」
物思いに耽っていた燐子の頭上から、自分の名前を呼ぶ声が響いてくる。
聞き覚えのある声の先には、燐子が想像していたとおりの顔があった。
「ミルフィ」
梯子を使って城門の高台に上がり、そこで丘の上を監視していたらしいミルフィとドリトン、それからエミリオに声をかける。
ミルフィは普段とは違って、矢筒を複数腰に括り付けていた。その他にもベルトに、何本かナイフを差している。
「まさか、今まで寝てたの…!?」
「まさかも何もそのとおりだが…、何か問題があるのか?」
そう素直に返した自分を見て、ミルフィは眉間に皺を寄せた。
「さすが燐子さん、肝っ玉が大きいね!」
「変な言葉を知っているな、エミリオ」と得意げなエミリオを見やる。
「こいつは度胸があるとかじゃなくて、ただネジが飛んでるのよ、二、三本ね。そうじゃなかったら、普通いつ攻めてくるかも分からないのに、眠っていられないわよ」
自分が能天気だと思われるのも癪だ。面子を保つためにも、一言告げておく必要があると燐子は思った。
「案ずるな、私は戦に寝過ごしたことはない。自慢ではないが、戦いに対する嗅覚は人並み外れている」
「本当に自慢にならないわね…」
高台の上から丘のほうを見つめると、遠く草木が揺れていることだけが分かった。
まだ帝国の気配はない。
「あ、そうだ」
不意に、ミルフィはポケットに手を突っ込んでから何かを取り出すと、固く握りしめたままの拳を燐子の前に突き出した。
「な、何だ?」
「いいから、手、出しなさい」
大人しく言われたとおりにしたところ、ぽんと自分の掌に昨日、千切れてしまった髪紐が落ちた。千切れていた部分は、似たような緑色の糸で結び直されている。
「もう完成したのか、早いな」
「別に普通よ」
軽くお礼を告げてから、自分の手に握られている髪紐へと視線を落とす。
(恩を受けているばかりでは、道理が立たん。とはいえ、女中のような真似はどうかと思うし、大事な物だが…まぁ、こいつなら構わないだろう)
じっと髪紐を見つめている燐子に、不思議そうな眼差しを送るミルフィ。燐子はそんな彼女に視線を移すと、静かに口を開いた。
「ミルフィ」
「ん、何?お礼ならいいわよ」
「少し後ろを向いてくれ」
燐子がそう言うと、ミルフィは訝しんだ様子を見せながらも、大人しく背中を向けた。
この辺りか、とミルフィの濃い赤の三編みを優しく掴むと、彼女は燐子が何をしようとしているのか分かったらしく、大きな声を出して身をよじって逃れようとした。
「ま、待って、何するつもり!?」
暴れられるとミルフィの力には敵わない。
燐子は、組手の如き手さばきで素早くミルフィの体を引き寄せると、抱きかかえる恰好になって、余った片手で作業を進めた。
「ちょ、ちょっと!待って、待ってってば!」
「そんな大声を出すな、すぐ終わる」
喚き散らすミルフィを無視して、臙脂色の髪の毛を改めて結び直す。
ミルフィの三つ編みは本来、髪留めなどいらないくらい綺麗に結んであるため、輪を二重にして通すぐらいで済んだ。
「終わったぞ」
「ち、違う、違うってば!本当にそういうんじゃなくて!」
「…一体、何を言っているのだ」
必死で何かを否定し始めたミルフィを、今度は燐子が正気を疑うように見つめる。
どうやら彼女は自分ではなく、ドリトン等に対して、釈明を図っているようだ。
状況が飲み込めない燐子は横に一歩移動して、何とも言えない顔をしているドリトンに視線を送った。
しかし、彼は表情を変えずに目を逸しただけで、何も答えはしない。そんな中、エミリオだけがニヤニヤと笑っている。
「へぇ、燐子さんとお姉ちゃんってば、そういう感じなんだぁ」
「何だ、そういう感じとは…。もう少し、私にも分かるように話せ」
エミリオを叱るような口調で咎めた燐子だったが、突然、隣でミルフィが大声を上げたことで目を丸くして顔の向きを変えた。
「あ、あ、あんたのせいよ!よくも、人前でこんな、こんなこと!」
わけも分からぬうちに激昂を始めたミルフィに、一歩後ずさりした燐子は、その理由を問いかけたのだが、顔を真っ赤にした彼女には馬耳東風だ。
掴みかかってきたミルフィの手を受け止めるが、やはり、彼女の馬鹿力には叶わず押し倒される。
「おい、戦いの前に燐子さんが怪我したらどうするんだ」
ドリトンが慌ててミルフィを制止したことで、ようやく彼女は動きを止めた。だが、酷く息の荒いミルフィは、両手の力を一向に緩めなかった。
「いい加減、説明しろ!いや、それよりもどけ!馬鹿力め、こんなときに余計な力を浪費させるな」
ミルフィは、どれだけ怒鳴られても、じっとこちらを睨み続けていた。だが、エミリオが陽気に挙手したことで、ばっと素早くそちらを振り返った。
「あのね、若い女の人が髪を結ばせるってのはね、『貴方の愛を受け入れます』ってことなんだぁ」
「子どもは黙ってなさい!」
「ほぅ、それは珍妙な風習だ」
女性が髪を結わせただけで求婚の受け入れになるとは…。自分の元居た場所では、女性が女性の髪を整えるなど、日常的な風景であったというのに。
しかし、郷に入りては郷に従えだ。
知らなかったとはいえ、自分の行動が軽率であったために、ミルフィに恥をかかせたのであれば、形だけでも謝罪が必要だろう。こう見えても嫁入り前の生娘だ。
まだギャーギャーうるさいミルフィのほうを向き直る。怒りで顔が茹でられたように真っ赤だ。
謝罪しようと口を開きかけたが、それをミルフィが素早く遮った。
「『ほぅ』、じゃないわよ、馬鹿燐子!――これだから流れ人は嫌なのよ、ほんと、常識ってのがなってないんだから」
その言葉を聞いて、燐子も黙っていられなくなる。
「おい、黙って聞いていれば、随分と好き勝手に言うな。そもそも、昨日お前が自分の髪紐で私の髪を結ったのだろう」
ミルフィはその事実に今更思い至ったのか、口をぽかんと開けてこちらを見つめた。だが、すぐに挙動不審に瞳を右往左往させると、燐子の上から慌てて飛び退いた。
「お姉ちゃん…さすがに謝ったほうがいいよ。控えめに言っても、正直最低だよ」
「う、うるさいわね…」
いつも正論で叱っている弟に、正論で返されてしまったのがよほど悔しいようで、ミルフィは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
ズボンについた埃を払った燐子はじっとりとした目でミルフィを睨んだ。
「分かっているとは思うが、別にお前に求婚したわけではない」
「馬鹿!そんなことは言われなくとも、分かってるわよ!」
「大声を出すな…」
大げさに肩を落とすドリトンと、大笑いしているエミリオを一瞥して、軽く首を振る。
「全く、緊張感のない…」
「あんたに言われたかないわ!」
不意に、強い風が燐子の頬を撫でつけた。
(…あぁ、いつもの風が吹いている)
一陣の風に対して、自分の心は凪いでいる。
燐子はゆっくりと瞳を閉ざしながら、漠然と考える。
(やはり私は、生まれながらにして戦士なのかもしれない)
この予感を外したことはない。
自分の細胞は、戦火の予兆を感じて眠りから覚めるようにできているのだ。
「もう、こんなの返すわよ!」
最後になるかもしれない会話がこれは嫌だな、と多少感傷的になり、燐子は静かな声で言った。
「いいから持っていろ」
「だから、いらないって!」
「全てが終わったとき、返したければ、そうしてくれ」燐子はそう言うと、梯子を使わずに高台から飛び降りた。「汚すなよ」
燐子は、遠く丘の上を見ていた。
それにつられるようにして、みんながその視線の先を追った。
丘の上に、数本の旗印が見える。
旗には十字架が描き出されており、その中に黒い星が輝いている。
「…あれが帝国の旗印か」
一頭の馬が、斜面を流星のように駆け下りてくる。
丘の上に群れを成す、人の形をした影から必死で逃げてくるようだ。
東の夜空を振り返る。
夜明けは、まだ遥か彼方だ。
「以上が、我々帝国第三陸上部隊からの勧告である!」
そう言って書状を読み終えた男は、余裕たっぷりという顔つきであった。
「我らが隊長の慈悲だ、有り難く思え!」
降伏勧告の書状を手に降りてきた男の口調は傲慢で、野卑で、なおかつ滑舌の悪い聞き取りにくい喋り口であった。
燐子は相手の滅茶苦茶な要求を聞いて、慄くようにあちらこちらでざわめき声を上げている村人を横目にしてから、男の一番すぐそばに立って様子を窺っていた。
「当然、これに従わねば、今すぐにでもこの村を焼け野原に変える所存である!」
悩む必要などあるまい、などと付け足した男の顔からは、邪悪な笑みが絶え間なくこぼれ出していた。
ちらりと、村の全権を委ねられているドリトンが燐子のほうへと視線を送った。
その目つきから、自分の意見を求められていることが察せられたが、燐子はあえてそれを無視した。
(村の命運は、村の者たちが決めるべきだ。所詮はよそ者である私の出るべき幕ではない。…少なくとも、今は、まだ)
そのドリトンの目線を追った兵士は、じぃっとこちらに焦点を当てると、小馬鹿にしたように鼻を鳴らして言った。
「ふん、女風情が剣など差して男の真似事をしよって」
瞬間、全身の血液が沸騰しているのかと錯覚するほどの怒りが込み上げて、燐子のこめかみに青筋が走った。
灼熱の激憤が、今すぐ抜刀して目の前の男を斬り捨てろと命じるが、どうにか一歩踏み止まり、重い息を静かに漏らす。
燐子がその激情を抑えたことが、いかに奇跡的かを知る者たちは、固唾を飲んで彼女の動きを見守っており、燐子が、ギラギラと光らせていた瞳を閉じたことで、ぐっと怒りを堪えきったことを悟った。
周囲は剣呑とした雰囲気で、高台の上には下からは見えないが、無数の矢と、いくつかの弓、それから予備の剣が置かれている。
弓矢はミルフィだけではなく、ドリトンの足元にも置かれていた。
篝火に誘われた羽虫たちが、自ら身をその火中に投げ出し命を散らしていく。
「帝国のお方」重々しい声である。「何だ、ご老人」
「故郷は、遠いのですか?」
「何を言うか、気でも狂ったか」
ドリトンは小さく首を振る。
「生まれ育った故郷を失う辛さ、どうかご想像頂きたい」
「ふん。降伏すれば、別に殺しはしないし、焼きもしない」
そう吐き捨てた後、男は愉快そうに笑いながら、「ただ、帝国の将兵たちの『手伝い』をしてほしいと言っているだけだ」
村人たちは、一様に顔をしかめて男の話を聞いていたのだが、何とか誰も足並みを乱さず、村長であるドリトンの言葉を粛々と待っていた。
ドリトンは、男の横柄ぶりにも落ち着いた声で応じていたのだが、とうとう断固たる口調で降伏拒否の意思を告げる。
「私たちの家族はここで育ち、ここで生きているのです。断じて、そのような暴力に屈するわけにはいきませんな」
これには男のほうも驚きを隠せず、吃りながら何度もその返答を確認したが、結局返ってくる答えは全て拒否だった。
そのため男は、屈辱に顔を赤らめ、口汚く唾を吐き散らしながら相手を罵った。
「お、お前たち!後悔するぞ、俺が合図をすれば丘の上の隊が駆け下りてくる!そうなったら、すぐにでもみな殺しだ!こんな木の柵や門が何になるか!」
「とっと帰れ!クソ野郎!」
一際幼い声が罵声を浴びせると、村人たちが口々に男を罵る言葉を吐いた。
「見とれよ!お前ら!」
そう言って男が丘の方を振り返った刹那のことだった。
「その必要はない」
彼の眼前に、憤激を放つときを今か今かと待っていた燐子が、亡霊のように立ち尽くしていた。
「え、お?」
男が思わず間抜けな声を上げて後ずさったところ、彼女は氷のように冷たく、無感情な声でこう言った。
「私が、『手伝ってやる』」
「なにを――」
男が言葉の全てを発し終わる前に、頭上に煌めく月にも似た白い軌跡が描かれて、静かに彼の首が地面へとずり落ちていく。
首と胴が離れ離れになって、血の噴水を巻き上げながら土に倒れ込むのを見向きもしない燐子が、小さく、しかし、はっきりと言った。
「お前が触れたものは、いわば、竜の逆鱗」
刀を振り払い、付着した血と脂を飛ばす。
「案ずるな。残りも私が送ってやる」
ほんの少しだけ溜飲の下がった燐子は、明らかに空気が変わりつつある丘の上を見上げ、不敵に微笑んだ。
激しく拍動する心臓は、まるで歓喜に打ち震えているかのようだ。
白月と星々が煌めく天空は、この戦を讃えている。
私は、私が戦う理由が欲しかった。
腹を切れない本当の理由を知りたかった。
それが、この戦いの中でなら確信を持って得られる気がした。
行こう。
それを今すぐにでも確かめなくては気が済まない。
私はここにいると、叫ばなければ。
たとえ、この異世界が私を村八分にしようとも。
抜き放った切っ先を、丘の上に向けて構える。
「戦華絢爛――さぁ、来い。血の華を咲かせてやる。」
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