第10話 駆ける、光.3
声をかけられたミルフィは、初めのうちはぼうっとしていたのだが、もう一度燐子が強く声をかけると、今まで眠っていたかのように飛び上がり、小さく返事をして数歩後ろに下がり、弓矢に手を伸ばした。
相手を刺激しないよう、少しずつ移動していくミルフィの姿を、ぎょろりとした爬虫類独特の瞳が追っている。
こんな図体をしておきながら、気配を隠すのが上手い魔物だ。
少女が警告してくれなかったならば、背後からの一突きで勝負は決まっていた。
(強い、な。間違いなく)
命のやり取りを始める前の静けさが、辺り一面に霧のように立ち込めているのを感じながら、燐子は舌で乾いた唇を舐めて微笑した。
久しぶりに、自分よりも強大な相手と一戦交えることができる。
私の刃は、あの外殻を通せるだろうか。
あの槍のような尻尾の一撃を、何度潜り抜けられるだろうか。
見るからに凶悪な爪や、牙は、容易く私の体を切り裂くのだろうか。
そんなことばかりを考えている。
(そうだった。ずっと、そうだった…)
強者と戦うことはいつだって、自分の中の、満たされない感情を埋めてくれた。
馬で地を駆けるときと同じだ。何もかも忘れさせてくれる。
身分も、性別も、血筋も。
そういう、私を悩ませる何もかもを。
この昂揚感に、余計な介入はなかった。
ずっと、私の中にあったものだ。
「久しぶりに血が滾る」
すっと、目を細め、怪物を見やる。
「お前はどうだ」
魔物に言葉が通じるわけもないと分かっていながら、ついつい嬉しくて、言葉がこぼれてしまう。
すり足で間合いを詰めて、尻尾の一撃を誘う。
まずは、どこからが有効射程距離で、どこまでが安全なのかを把握する。長物を相手取るときの基本だ。
背後でミルフィが矢を番え、弦を引き絞るキリキリという音が聞こえてくる。
その音が数秒鳴ったかと思うと、風切り音が自分の体を追い越して、瞬く間に魔物へと飛んだ。
矢は脳天目掛けて、一直線に突き刺さったかのように思えたが、堅固な外殻に阻まれてその場に落ちた。
「そんな…!」
そして、その一撃を皮切りにしたかのように、大トカゲが唸り声を上げながら姿勢を屈め、尻尾の先端を素早く燐子に向けて突き立ててきた。
「り、燐子!」
血相を変えて、ミルフィが叫ぶ。
小さく息を吐き、呼吸を合わせて槍先をさばく。それから、尻尾の伸び縮みを計る。
思ったよりも尻尾の動きが鈍い。
「案ずるな。見えている」
まだ余裕があるな、と燐子はわずかに後退し、ミルフィに命じる。
「ミルフィ、もう一射だ」
「でも、効かないわよ!」
「いいから早くしろ!」
最初から、あのような簡素な弓矢に殺傷能力など期待していない。
「な、なによ、ばか、偉そうに…!」
よく聞き取れない愚痴を吐きながら、ミルフィが次の一矢を放つと、案の定、外殻に阻まれ、矢の中央から真っ二つにへし折れる。
「ほぅら!言ったでしょう」
それでも魔物の関心を買うことはできたようで、一瞬だけミルフィのほうへと視線が動いた。
「ひっ」
(今だ…!)
燐子は勢いよく地を蹴り、魔物のほうへと一直線に突っ込んで行く。
刀は胸の前で斜めに構えて、いつでも先ほどの一撃に対応できるように備える。
逸れていた注意がすぐに燐子のほうへと戻ってくる。
再び尻尾の先端が彼女を狙うが、燐子の計算には寸分の狂いもない。
「ぬるい…っ!」
攻撃の鋭さを感じさせないぐらい容易く刀で弾き、一気に眼前に飛び込む。
おどろおどろしい爪や牙に視線が向くが、魔物の動きは予想よりも遥かに遅く、相手が前足を振り上げるよりも数段早く、首元目掛けて刀を横に振るった。
殺った、と腕を振るうと同時に確信した燐子を襲ったのは、強烈な手の痺れであった。
「くっ!」
喉元までこんなにも硬いのか、まるで岩のようだ。
じんと痺れる両手に喝を入れて、しっかりと刀を握りこんだのも束の間、体の感覚に意識を持っていかれていた燐子の聴覚に、ミルフィの悲鳴にも似た叫びが届いた。
「燐子!前!」
弾かれるように視線を上げると、大トカゲが右前足を持ち上げているのが見えて、とっさに後方へ飛んだ。
ぶん、と目の前を人の腕半分ほどの大きさの爪が横切り、心臓が一際大きく鼓動を打つ。
(危ういところであった。ミルフィの声がなければ死んでいたかもしれない)
自分の頭上を、引き戻される尻尾の影と、ミルフィが放った矢が過ぎ去る。それと逆行するように燐子は勢いよく後ずさりした。
「この馬鹿燐子!ぼさっとしてんじゃないわよ!」
「すまん、助かった!」
きちんと謝罪と礼を口にされて、ミルフィは目を白黒させたが、燐子が、「もう一度仕掛ける!」と叫んだことで慌てて矢を掴んだ。
「ちょっと、一旦慎重に――」
「行くぞ、続け!」
ミルフィの矢とすれ違うような形で、お決まりの攻撃が飛んでくる。
もはや、刀で攻撃をさばく必要もない。
燐子は横に躱し、体を捻る勢いを利用して、左手で尻尾を下から切り上げた。
ぎぃん、と高い音が木霊する。
「ここも駄目か…!」
喉元よりも、ほんの少しだけ手ごたえはあったものの、魔物の尻尾にはかすり傷程度しか負わせられていない。
それでも、傷をつけられたことが魔物の気に障ったのか、今までほとんど動かしていなかった体を前進させ、燐子に向けて牙を剥き出しにして襲い掛かってくる。
しかし、その動き自体は愚鈍だ。
「のろまめ」
飛ぶように二歩大きく後退し、その顎から逃れると、再び襲い来る尻尾をすんでのところで躱し、二度目の斬撃を叩きこむ。
「燐子!」
ミルフィがどこか遠くで叫んでいる。
刃の無駄だな、と刀身を見つめた燐子は確実な距離を保ってじっくりと相手を観察した。
(喉元も駄目、尻尾も駄目、脳天も駄目か)
全身岩か鉄で出来た大トカゲだ。
敵の強大さを分析した燐子であったが、だからといって逃げる素振りは一切ない。
ただ、不敵に笑うのみである。
どれだけ外殻が厚かろうが、牙や爪が鋭かろうが、所詮は自分と同じ生き物なのだ。
「完璧な生き物など存在しない」
首と胴体を切り離す、あるいは心臓を潰せば死ぬ、血を流し過ぎても死ぬ。
つまり、どんな相手であっても私にやれることは変わりない。
「…死ぬまで切り刻むか、急所を突くか」
そして、こいつが硬すぎて切り刻めない以上、狙いは絞る必要がある。
「そうすれば、生き物はみな死ぬ」
燐子はおもむろに刀を鞘にしまい、代わりに小太刀を抜き放った。
刀身が鞘を滑る音だけが頭の奥に木霊し、どこまでも透き通った感覚が全身に波紋のように広まる。
「ミルフィ、目を狙え」
「あのね、そんな簡単に言わないでよ!」
「外してもよい、頼む」
彼女らしくもない謙虚さが覗く言葉に、ミルフィもそれ以上文句は言わず、凛とした顔つきで弦を絞り、狙いを定めた。
「外すもんですか」
直後放たれた一射は、見事に眼球目掛けて空を駆けたのだが、大トカゲが顔を背けて躱したことで、矢は地に落ちてしまった。
「ああ、もう!」と悔しそうに呟いたミルフィに、「いや、これでいい」と苦笑いで返す。
燐子は、今まででも最高の速度で相手に接近した。
一気に縮まる相手との距離に、心臓の鼓動が急速に拍動していくのが分かる。
手の甲に焼き付いた火傷の痕が疼いた。
あの日、私の全てを燃やし尽くすはずだった炎の残り火が煌めく。
指先の先の先まで、もしかしたら指の周囲にある空気すらも、自分の思い通りに動かせるのではないかと錯覚してしまう。
(こいつは今、こちらの攻撃を初めて避けた)
他の攻撃は全く意にも介さなかったくせに、今回ばかりは反応したのだ。
(つまり、狙うべきは眼球)
目の前の相手に関すること以外、何もかもが自分の中から遠のいていく。
声も、景色も、風も、臭いも、もしかしたら、自分の命すらも遥か後方に置き去りにしてしまっているかのような、奇妙な高揚感が胸に宿っている。
今なら、何でもできるような気がした。
迫りくる大きな両顎が見える。だが遅い、こんなものに捉えられるほど、自分の動きは鈍くはない。
半歩横に動いて、その必殺の一撃をすんでで躱す。
眼前で、ぎょろりと、粘っこく光る瞳がこちらを見つめている。
呼吸が、落葉が、風が、光の粒が、それの全てが止まって見えた。
――勝機。
渾身の力を込めて、小太刀を左手に構え、その禍々しいガラス玉に向けて突き立てる。
迷いのない強烈な刺突がまず角膜を貫き、次に水晶体を穿つ。
耳をつんざく魔物の悲鳴が辺り一帯に轟く。
その痛みによって、大トカゲが滅茶苦茶に頭を振り回したことで、燐子の体もつられて左右に激しく振られ、ついには両足が地面を離れてしまった。
「手を離して!」とミルフィが叫び声をあげる。
離すものか、とミルフィの願いとは逆に、燐子は余った右手で小太刀を握り直す。
それから深々と突き刺さった小太刀を支えに体を曲げ、両足を魔物の顎に押し付けて、両腕にいっそうの力を込める。
もっと、深く突き立てる。脳髄に届くように。
悲鳴、揺れる体。
止めを刺す、この一撃で。
悲鳴、唐突な浮遊感。
燐子は、自分の体が宙に舞い上がってしまっていることを、ぼんやりとした思考で認識しつつ、その回転する景色から自分を切り離していた。
両手からは小太刀が消えている、ふと下を見やると、それは大トカゲの眼球に刺さったままであった。
自分の落下地点で、大トカゲが私を深淵へと引きずり込もうと大きな口を開いている。
その虚ろな赤い穴に、体が真っすぐ吸い込まれていくのを感じ、目をつむった。
(――…静かだ)
戦いに集中している自分とは、別の自分が考えていた。
途端に火傷の痣が熱くなったが、それに反比例するように、頭の中は冷静になっていく。
くるりと空中で姿勢を回転させて、太刀を抜き払う。
そのまま両手で逆手に握り、垂直に魔物の口腔目掛けて直下する。
燐子は、駆け上がるように、落下した。
これで――。
「仕留める」
半端に閉じたトラバサミのような口へと、流星じみた勢いで突き刺さる刀身。
その衝撃と、感触に、燐子は無感情なまま口元を歪めるのだった。
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