第7話 抜き身の刀.3
食事場に入ってきたエミリオは、燐子と一言、二言交わすと急いで姉の元へと駆け寄り、今日の夕飯である肉料理に釘付けになっていた。しかし、昼間の件で反省の色が一向に見られない彼は、頭頂部に拳骨を食らう。
馬車に踏まれたヒキガエルのような悲鳴を上げたエミリオは、実の姉にあらん限りの文句をお見舞いするも、二発目の制裁を受けて完全に沈黙する。
そんな二人の姿を微笑ましく眺めていたドリトンに、燐子は、「そういえば、あの騒ぎの間どこにおられたのですか?」と尋ねた。
「申し訳ありません。ちょうど、隣町に用事があって出かけていたのです」
「隣町?」と燐子が問う。
聞くと、この蜘蛛の巣のように伸びた川沿いの果てに大きな湖があって、そこにここよりも大きな町があるとのことだった。
「…町、か」
ここより栄えた場所となれば、色々とこの世界のことについて分かるのではないか。
もしかすれば、自分の心だって定まるかもしれない。
「お祖父ちゃん、また駐屯所に行ったの?」
「うむ…」
「無駄よ、あんな奴らに何言ったってさ」
ただでさえ険しい顔つきをしていたミルフィが、その話を始めた途端、一段と不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
「あいつらは、辺境のちっぽけな村になんて興味ないのよ」
「まあまあ、ミルフィ。そう邪険にするものじゃない。彼らの全てが我々を軽んじているわけではないのだから」
「ふん、どうかな。少なくともアズールの連中は、この村が滅んでも構わないと思ってるんじゃない?」
「ミルフィ、よしなさい」
度が過ぎた発言だと判断したのか、ドリトンが彼女を優しく咎める。
ミルフィが不服そうに次なる言葉を探しているうちに、燐子が横槍を入れる形で口を挟む。
「話の腰を折って申し訳ないが、あの獣はよく村に下りて来るのか」
「いいえ、普段は森の中で大人しくしているのですが…」
そこでドリトンは言葉を区切ると、言いにくそうに燐子の目を覗いた。
「ああ、私が同胞を斬ったからか…」
「違うわよ」
不意に、ミルフィが豪快に焼いたハイウルフの肉を机の上に叩きつけるように置いた。
「帝国があいつらの住む森を焼いてまわってるのが、そもそもの原因よ」
胃袋を刺激するいい香りを吸い込みながら、燐子が首を捻る。
「帝国とはなんだ?」
人数分の皿を食卓に並べ終えて席に着いたミルフィは、燐子の問いかけを無視してナイフで肉を切り始めた。後から聞いたのだが、『ステーキ』と呼ぶ料理らしい。
ふっ、と燐子は口元を歪めた。
日を追うごとに激増していく異世界言語の語彙が、燐子にはどことなくむず痒いような、馬鹿馬鹿しいようなものに感じられた。
皿の上で、未だに熱を持って肉汁を迸らせているステーキに、形の不揃いな箸で手をつける。
この箸はこちらに来て悲嘆に暮れていた頃、エミリオがせっせと手作りしてくれた一点ものである。
使いづらいが気遣いの込められた作品で、燐子は気に入っていた。
ほんの数秒間だけ思い出に浸っていた燐子は、気を取り直して、ステーキの解体に取り掛かった。だが、どうにも上手く切ることができず、結局は箸で摘まみ上げて噛み千切ることにした。
(最初の頃は、あんな獣の肉を食べるなど、野蛮人でもあるまいし…と正気を疑っていたものだが…これが一度食べてみると、なかなかどうしてやみつきになるな)
重厚な歯ごたえ、あふれる肉汁、そして胃に入れた後に湧き出て来る、この不可思議な活力…。
喉元に滴る肉汁には気にも留めず、獣じみた動作で肉に食らいついていた燐子を見て、エミリオが大きな声で笑い声を上げる。
明らかに馬鹿にされたのが分かったので、彼女はエミリオを無言で睨みつけたのだが、そんな態度もお気に召したようで、少年はより大きな声で笑った。
「あぁ、ああもう、そのシャツだって私のなんだからね。全く、汚れちゃうじゃない」
そう言ってハンカチ片手に身を乗り出したミルフィは、燐子の喉をつたう肉汁を拭き取った。
それから、「こういうときくらいナイフを使いなさいよ」と愚痴をこぼしながらも、燐子の皿の上に乗ったステーキを自分のナイフで切り分け始める。
そして、自然な手つきで、等分に切ったステーキの一片をフォークで刺し、燐子の口元に運ぼうとする。
「口、開けなさいよ」
「こ、子ども扱いはよせ」
「そんなんじゃないわよ。私のシャツが汚れるのが気に入らないの」
「いや、しかしだな…」
「いいから!意地なんて張ってないで、さっさと口を開けなさい!」
恥ずかしさに顔が熱くなった燐子だが、ミルフィの勢いに負けて口を開き、その肉片を頬張った。
噛む度にあふれ出る肉汁に、舌が小躍りしながら喜んでいるのが分かる。
「どう?美味しい?」
小首を傾げながら尋ねるミルフィ。目の錯覚で、可憐な感じがした。
「あ、ああ、美味い」
「そう、良かったわ」
先ほどと同じ種類の笑みを向けるミルフィに、燐子はふっと口元を綻ばせる。
「いつもそんな顔をしていろ」
「は、はあ?どういう意味よ」
「そうしていれば、多少は愛嬌があるように見える」
ミルフィは一瞬、面食らったような表情をした。だが、すぐにつっけんどんな顔に戻ると、「別に要らないわよ、愛嬌なんて」と返して自分の座席に腰を下ろした。
「で、何なのだ。その帝国というのは」
部屋の中を照らしていたランタンの炎がゆらりと震え、一瞬だけ室内が赤々と照らし出される。
それによってはっきりと照らされたエミリオの顔が、深い悲しみに沈んでいるのを見て、燐子は臭いを感じ取っていた。
嗅ぎ慣れた、戦場の臭いを。
「『シュヴァルツ帝国』…聖ローレライ王国がずっと戦争をしている相手だよ」
なるほど、と話の陰りを敏感に察知していた燐子は、良い潮時だと思い質問を重ねる。
「この国からすると、敵国というわけか」
「うん。悪い奴らなんだ」
「悪い、か…」
戦争に善悪はない。だが、エミリオはそれを知るのにはあまりに幼すぎる。彼の父親を奪ったのが帝国との争いなら、なおさらだろう。
「少なくとも、この村からすれば、森を焼く者は『悪者』だろうな」
「ふん、迷惑千万よ」ミルフィがつくづく迷惑そうに顔を斜めに傾ける。
「あの森の向こうは、もう帝国の所領なのか」
ドリトンが神妙な顔で頷く。
「馬鹿な、目と鼻の先ではないか。ならば、王国とやらの領主は何をしている。戦時中の国境に、兵を駐屯させないとはどういう了見だ」
「そのために、アズールの駐屯地に赴いて陳情を申し上げておるのです」
「陳情?」
冷ややかな笑みをこぼした燐子は続ける。
「国境に兵を置かぬことについての申し立てを、その領民からされるなど、いい恥晒しだ」
他人事ながらも顔をしかめて苛立つ燐子だったが、それをエミリオが咎める。
「違う、帝国が全部悪いんだよ」
「なぜだ、領民を守るのは、領主の仕事だ」
「戦争を仕掛けてきたのは帝国だもん」
本当か、とドリトンに目だけで合図を送ると、彼は重々しく頷いた。
燐子はエミリオの頭の上に手を優しく置いて、「そうか」とだけ呟くと、何となくミルフィが過保護になる気持ちが分からなくもないなと思った。
ちらりとミルフィのほうを一瞥すれば、彼女はエミリオのことを心配そうに見つめていた。そして、弟の純朴さが争いによって汚されていくのを憂うみたいにため息を吐いた。
(姉と弟の血の絆、というだけでまとめてしまうには些か短絡的すぎるか…)
私にも、血の絆はあった。
父や腹違いの兄弟たち。
戦争の中で『侍』として死んでいった兄弟たち。
『侍』でも何でもない私の手で葬られていった兄弟たち。
血筋は、戦国の世においては死の絆だ。
決して、このように美しく、儚く、見るものに望郷の念を抱かせるものではなかった。
この二人と、私たちは何が違ったのか。
同じ戦国の時代に生きて、どうしてこうも違う絆を見せるのか。
私には分からなかった。
きっと、分からないままだ。この先も、ずっと。
「それで、どうだったのだ。その駐屯所の連中というのは」
話題を戻しながら、ステーキの最後の切れ端を口に放り込んだ燐子に対して、ドリトンは残念そうに首を左右に振った。
「西で別の戦線が開かれたらしく…このような場所に回す兵力はないとのことでした」
「ちっ、やっぱりね」
舌打ちするミルフィを横目に燐子が肩を竦める。
「ありえんな…」
「でしょ?」
同調した燐子を、ミルフィは少しだけ満足した様子で見やる。ただ、新たな話題を切り出そうとしていた彼女と目が合ったことで、弾かれたように視線を逸らした。
「隣町とは、どういうところなのだ?」
燐子の問いかけを受けて、ドリトンは隣町――アズールについて丁寧に説明してくれた。
湖の真ん中に建てられた、大規模な町。
長い橋があって、石段がたくさんあり、周囲の村の特産物を市場で売っている活気のある町ということだ。
「ふむ」
正直に言って、大変興味をそそられる話の内容だ。
きっとアズールには、自分が知らないことが無数にある。
燐子は、『この世界のことを知ってどうする』と叱咤する自分の影に見つめられながら、その影に対して、『本当に腹を切るべき時は今なのか』と問い返している日々を繰り返してきたが、今はもう、少なくとも、この少年の前で腹を切ることだけはするべきではないと理解していた。
「興味がおありですか?」
「ええ」
「であれば、ミルフィに案内させましょう」
さらりとドリトンが行った提案に、ミルフィが目を丸くして立ち上がる。
「えぇ!?ちょ、お祖父ちゃん、なんで私が!?」
ドリトンは孫娘の叫びを無視して、燐子に「どうですか?」と問いかけた。
とても魅力的な提案だった。うるさいミルフィを伴うことには心配もあったが、一人ではたどり着けるかどうかも怪しい。
燐子は大人しくドリトンの提案を受け入れた。ミルフィはいつまでも騒がしいが、祖父に頼み込まれ、渋々黙り込んだ。
「でしたら、ついでと言ってはなんなのですが…」と一度席を立って、奥の部屋に消えたドリトンは、しばらくして戻ってきたかと思うと、その手に書簡らしきものを握っていた。
ドリトンは日焼けして古めかしくなった紙を燐子に手渡した。
「これは?」
「陳述書です」
「それは分かっていますが、どうするのです。また軽く扱われるだけでは?」
「かもしれませんな。無理に渡せとは言いません。隣町に出られるのであれば、是非お持ち頂きたいのです」
そう笑って言い放ったドリトンの明るい表情から、あくまでこの陳述書は、燐子がアズールに出かけるための言い訳にしかすぎないのだと察した。
また戻ってきても大丈夫である、そう言ってもらえているような気がして、燐子はついほっとした心地になってしまう。
右も左も分からない生活だ。頼りになる人がいるほうが、安心して情報収集に専念できる。
もう少し、この世界のことを知ろう。
そうすれば、自分がこの先どうするべきか見定められる。
理解ある者を探して腹を切るのか、
諦めて、後始末も無しに腹を切るのか、
可能な限り早々に腹を括らなければならない。
このままでは――。
その先を考えそうになった燐子は、皮肉な笑みを口元に浮かべた。
「分かりました。お心遣い感謝します」
「おぉ、ありがとうございます」
燐子は、ドリトンの礼を右から左に聞き流しながら、頭の中では全く別のことを考えていた。
…このままでは、何だ。
(私の志は、侍の子としての意地は…覚えてはいられない夢のように、儚く消えるものではないはずだろうに)
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