二章 抜き身の刀
第5話 抜き身の刀.1
燐子が切腹を申し出てから、数日が経った。まだ、彼女は知らない匂いの中、息をしていた。
朝早くに目を覚まし、日が昇る前から刀を振る。
日が昇ってからは、ドリトンの手伝いをする。
望んでなったわけではないが、居候の身である。毎日美味い飯を準備してもらい、寝床を用意してもらっている以上、何かしら恩を返さねば。
手伝いのためにあちこち歩き回っているうちに、次第にこの村のこと、そしてこの世界のことが分かり始めた。
まず、この村には若い男がいない。
これに関しては、徴兵でほとんどの者が兵役に出ているのだそうだ。
ここから相当離れた場所にある『聖ローレライ王国』という国がこの土地の所有者らしく、他の国との戦争に若者が駆り出されているとのこと。
次に、この世界での武装集団のことだ。
正直に言って、これが一番自分の感情をかき乱した。
それは『騎士団』だとか呼ばれる武装集団、つまりは武家のような存在であるらしかった。
侍の代わりにこの世を席巻する紛い物の話は聞くにたえなかったが、世界が変わっても、人間は争うばかりか、と何だか燐子は安堵した。
木材でできた階段を数段上がって、玄関をくぐる。両手に担いだバケツの中の水が静かに揺れている。
リビングに入る前に、廊下でドリトンと出くわして声をかけられた。
「おお、いつもありがとう。助かっとるよ、燐子さん」
「この程度で大げさです。水はいつもの場所で?」
「いや、申し訳ないですな」
「私が好きでやっていること。貴方が謝るようなことは一切ありません」
「面目ない」
台所に入れば、慌ただしく料理を作っているミルフィの姿があった。
赤い三編みを左右に揺らして野ネズミのように俊敏に駆け回る彼女に、どんなタイミングで声をかけるべきか悩んでいると、先に彼女のほうから声が上がった。
「お祖父ちゃん、お水まだ?」
「…持ってきたぞ」
燐子の気配を祖父のものだと誤解していたミルフィは、未だ聞きなれぬ声に飛び上がるようにして振り返ったのだが、声の主が彼女だと知るや否や、舌打ちをしてまた正面を向いた。
時折、こうしてミルフィの元に、水や道具を届けなければならないことがあるのだが、彼女は往々にして親の仇のような扱いをしてきた。初めのうちは文句をつけていたのだが、何を言っても無視されるため、こちらも諦めていた。
どうせ今日もそうだろうと思い、さっさと退出しようと燐子が考えていたら、思わぬことにミルフィのほうから声をかけてきた。
「まだ死にたいの、アンタ」
「…なぜ、そんなことを聞く」
「いいから、答えなさいよ」
彼女が納得しないのを分かっていたが、仕方がないので答えてやることにする。
「もちろん。私の覚悟に変わりはない」
それを受けたミルフィはわざとらしく深いため息を吐いた。
「…はぁ、『誇りのため』だったっけ?そういうのって、生きていなきゃ意味ないんじゃないの?」
「生きていること、死んでいること、それらが問題なのではない。大事なのは、どう生き、死んだかだ」
「ふん、理解できないわ。やっぱり」
やはり、互いに不快な思いをするだけではないかと馬鹿馬鹿しくなる。
ミルフィは竈に火を点けると、ちらりとこちらを一瞥してから、また大きなため息を吐いて、点けたばかりの火を消した。
それから、体に巻いていたエプロンを脱いで乱暴に机の上に投げると、こちらを睨みつけて言った。
「私が、アンタみたいなよそ者に、何でわざわざご飯を作っているのか分かる?」
「自分たちのついでだろう」
「ええ、ええ、そうよ、ついでよ。でも、それだけじゃないわ。アンタには分からないだろうけれどね、毎日ご飯を作るのって、すごく大変なのよ?そんな面倒を一人分多くやってるのが、ただの『ついで』だけだなんて軽い理由と思うの?」
そんな想像のしようもない質問をするな、と文句を言いたくなったが、思いのほか、彼女の赤みがかった瞳が真剣な色に染まっていたので、燐子は無言で首を左右に振った。
それを確認したミルフィは、点けた瞬間に消されて、苛立ちに燻った竈が残した煙に目を細めてきっぱりと断言した。
「アンタが、まだ生きてるからよ」
「…それはそうだろう」
だから死のうとしているのだ、と口にしかけていると、ミルフィが燐子を凝視したまま口を開いた。
「私たちのお父さんは、知らないうちに兵役で死んでいたわ」
ミルフィが砥いでいたのか、砥石と包丁が洗い場の端に並べて置いてあった。どちらもほとんど擦り切れていて、もうどちらでどちらを研磨しているのか分からないぐらいだ。
燐子は、ミルフィの真剣な瞳に射抜かれながらも、そういえばミルフィの持っていたナイフはよく手入れがしてあったな、などと関係のないことを漠然と考えていた。
「名前を聞いたってピンとこない、この世の果てみたいな土地でね」
(…私からしたら、この世界の全域がそうだ。どこもかしこも、この世の果てだ)
ミルフィの話を聞けば聞くほど違うことを考えたくなるのは、自分が何か恐ろしいものから逃げ出したいからなのだろうか。それとも、異界の住人の身の上話など、知りたくもないと心が拒絶しているのだろうか
「私たちの母親は、まだ私とエミリオが小さい頃によそ者なんかと駆け落ちしたわ。私たちを捨ててね」
争いや邪な恋情が、二人から両親を奪い去ったのか。
しかし、そういうものだ。
不幸な身の上話など、戦乱の世と人間の情の最中にあっては、掃いて捨てるほどある話だ。
私だって、戦って、戦って、戦った。
母は短命でよく覚えていないうちに死んだ。尊敬する父も、この手で斬った。
腹違いの兄弟たちだって、とっくの昔に墓石の下。
その中の何人かは、私が殺した。謀反を企てたからだ。
それが戦国の世、あるいは、人間の世だ。
世界を隔ててもそれが変わらないのであれば、それが人間の本質だと考えるべきだろう。
「この近くでだって、争いは起きようとしてる」
私はそれが当然だった、その中で生きてきた。
「私もエミリオも、お祖父ちゃんも、いつ死んだっておかしくない」
そんなことを、偉そうに私に語るな。
血飛沫と、怒号と悲鳴が飛び交う戦場を知らぬ、ただの村娘風情が。
「でも、今日も、明日もご飯を食べるのよ。死なない限りずっとね」
…腹が立つのに、なぜ、彼女の言葉がこうも熱く感じるのだろう。
「なぜか分かる?」
「まだ、生きているからか」
「ええ、そう。明日も、明後日もしっかり生きるためには、まず食べなくちゃいけない」
あぁ、そうか。
ミルフィはきっと、私と変わらないくらいの年齢だ。
形や身分は違えども、彼女もまた戦っている。
…何と戦っているのだろうか。
「私は、戦争の時代に殺されるのも、誰かの都合に振り回されるのも、まっぴら御免なの」
それを耳にしたとき、燐子は思わず口元を綻ばせた。
(時代と来たか、なるほど、それは随分と負け戦に励むことだ)
全くもって阿呆らしい。世間知らずの村娘らしい。
「とにかく、これだけは伝えとく」
ミルフィは燐子を指差した。
「私に、アンタが死ぬためのご飯を作らせないで」
ミルフィとエミリオが裏手で洗濯をしているときに、その事件は起きた。
互いに小言を言い合いながら手を動かし、日々の仕事に打ち込んでいたところ、突然、空を切り裂く警鐘が一帯に鳴り響いた。
エミリオが驚きのあまり飛び上がって、桶の中の水をひっくり返して撒き散らしたものの、二人とも、それどころではなくなっていた。
「ハイウルフだぁー!」
ひゅっと息を吸い込み、口を開ける。
ハイウルフが、なぜ、森林を離れ、こんな丘の下まで来ているのだ。
隣で警鐘に怯えていたエミリオが、「もしかして…」と呟いたことで、ミルフィにも彼の口にしたいことが理解できてしまう。
数日前、燐子がハイウルフを倒したという話が本当なら、その報復かもしれない。
ミルフィは、エミリオに安全なところに隠れておくように命じて、すぐに村の中心部へと駆け出した。
その途中で、自分の家の玄関に置いてある、狩猟用の弓矢とナイフを引っ掴むようにして持っていく。
ナイフと矢筒は腰のベルトに固定して、弓はしっかりと左手に握り、声の大きいほうへと飛ぶように向かう。
エミリオが森の奥に入ってハイウルフを刺激したことが事の発端なのだとしたら、この騒ぎの責任は姉である自分にある。
自分の尻は自分で拭くのが、私の流儀だ。
村の中心は酷い騒ぎだった。店先の食べ物は荒らされ、逃げ惑う人々を追いかけ回す獣の姿があちこちに散見された。
幸い、まだ死体は転がっていない。だが、それも時間の問題だろう。
矢筒から矢を抜き取り、番え、引き絞る。
今にも小さな子どもに飛びかかろうと唸り声を上げている獣の脳天に狙いを定めて、矢を放つ。
小さい頃から、猟師として生きてきたミルフィらしい、淀みのない動きの流れだった。
ハイウルフへの反撃の嚆矢となった一本の矢は、わずかに脳天を逸れてハイウルフの肩口に食らいついた。獣が短く悲鳴を上げてよろめくが、やはり致命傷には至らない。
二本目の矢を構える前に、獣は地を蹴ってこちらに走り寄ってくる。
(次の矢は間に合わない、だったら…っ!)
ミルフィは弓を左手に、ナイフを右手に構えて獣へと真っ向から突っ込んだ。
ハイウルフが大きな顎を開いて飛びかかってくるのを瞬きもせずに観察しながら、宙を飛んだ獣の下に滑り込む。
すれ違う瞬間に、ナイフの刃先を獣の首元に突き立てて転がり抜けた。獣は、そのまま地に伏し、血だまりを作った。
「よしっ、まずは一匹」
気を引き締めてナイフを抜きに戻り、辺りをもう一度確認する。
思いのほか、数が増えすぎている気がする。
五、六匹を想像していたが、一見しただけでも十匹以上はいる。
喜んでいる暇はない、と次の矢を番えて、女連中を狙っている次の標的へと放つ。
流星のように尾を引いて空を裂いた矢は、今度こそ目標の脳天に吸い込まれて、一撃のもとにハイウルフを絶命させた。
「良い調子…!」
そのとき、四方で悲鳴が上がった。
場の緊張感が、水が沸騰するように高まる。
再び、女連中と子どもが狙われ、ついに老人の団体も数匹の獣に囲まれてしまっていた。
自分の視界の外でも、誰かが襲われている気配がする。
(くそっ、駄目だ、全部は間に合わない、犠牲が出てしまう)
ミルフィは一瞬のうちに優先順位をつけて、弓矢を構えた。
その矛先は、子どもを狙っているハイウルフに定められていた。
何足も草鞋が履けないことを、ミルフィは知っている。
極力狙いを定める時間を絞り、早撃ちで一匹仕留める。
これならもう一匹、間に合うか。
そうして、矢筒から矢を取り出した次の瞬間だった。
「おーい!犬ども、こっちだー!」
空鍋を床に落としたときのようなくぐもった爆音が、周辺に鳴り響く。同時に、聞き慣れた声が耳に入ってきた。
獣も、人も、みんながその轟音のほうを一斉に振り向いた。
見れば、大通りに立つ小さな人影が、お玉で鍋を懸命に叩いて音を出していた。
その影と声に、ミルフィは真っ青になりながら叫ぶ。
「エミリオ!逃げなさい!」
まるで自分の声が攻撃の合図であったかのように、人々を狙っていたハイウルフたちが、一斉にエミリオのほうへと駆け出す。
「どうして逃げていなかったのよ!」
今さら背を見せて逃げ出した弟を追って、ミルフィは矢を番え、全速力で前進する。
しかし、地を蹴って進むことに特化した、四足歩行の獣の加速の前には手も足も出ない。
(嘘だ、間に合わない!間に合わない、このままじゃ、間に合わない)
獣たちとエミリオとの距離が縮まっていくのを見て、ミルフィの心臓は今にも破裂しそうなほどの早鐘を打っていた。
(もっと遠くへ、早く逃げて、お願い、それじゃあ追いつかれる!)
大通りに並んだ木箱や食べ物、一切合切を薙ぎ倒しながら、ハイウルフはミルフィたちの住んでいる家のほうへ逃げるエミリオを追い続けた。
ついに、エミリオが足をもつれさせて土の上に倒れこんだ。
「エミリオ!」
慌てて矢を射るが、ろくに狙いも定めていない一射は、大きく的を外れて民家の軒先に突き刺さる。
「こ、こっちに来なさい!犬畜生!」
波浪の中で揉まれるように呼吸が荒々しくなって、自分の足ももつれそうになったミルフィは、少しでも獣の注意が引ければと大声を上げたが、獣たちはわずかに振り向いただけで、まるで相手にしてくれない。
自分の命より大事なものが、獣風情に奪われてしまう。
そんなことが、許されていいはずがない。
それなのに、獣たちは汚らしい涎を垂らしながら、体を震わせて蹲るエミリオに近寄っていく。
やめろ、エミリオに触るな、そう叫び声を上げそうになったとき、ハイウルフたちが示し合わせたように面を上げて、通りの向こうを睨んだ。
「な、何…?」
何が起こっているのか、と獣の視線の先を辿ると、そこには西日を逆光に受けて悠然と歩いてくる一人の女の姿があった。
獣たちはそれを見ると、極度に緊張した様子になり、唸り声を強くして殺気立った。
だというのに、その矛先になっていた女は、まるで他人事のように瞳を伏せていた。
彼女は気でも狂ったかのように、獣が織りなす死の包囲網に自らその身を投げ込み、エミリオの隣に凛とした佇まいで立った。
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