第6話

けれど、本当の彦佐を鈴はちゃんと見ていなかった。

 今思えば、彼は彼なりに、彼女に理解してもらおうと努力していた。話し合う機会を持とうとしていた。

 それを拒んだのは、鈴の勝手な思い込みだった。


 最初の晩、初めての時に、彦佐は鈴を壊れもののように優しく扱い、彼女のことを気遣ってくれた。

 それは巧妙な演技なのだと、鈴はずっと言い聞かせてきた。

 気持ちがないのに、あんな風に優しく、思いやりあるように振る舞える彦佐をとても狡く、卑怯だと思った。

 買われた男の思い通りに心まで奪われたくなくて、鈴は必死だった。

 行為の後、泣き出したのは、愛がないのにあんな風に出来る彦佐にも、それに応えていた自分にも絶望したからだ。

 彼の心を否定して拒み、自分の心が楽になるような彦佐を、鈴は作り上げた。


 そして、それは間違いだったと、今気付いた。

 彼は譲歩している。子供の為に、これからはきちんとした関係を築きたいと、鈴に話している。

 自分の子を産んで欲しいと、鈴に頼んでいる。


 彼の子供のために。


 鈴の気持ちは沈んだ。誤解していたことはわかった。

 これからは違う目で彼を見るようになれるだろう。

 なんらかの信頼関係は築けるはずだ。

 だが、それはすべて、子供のためなのだ。

 ずっと好きだったと言ったのは、子供の母親になった鈴への配慮なんだろう。

 子供の頃のある時期は、確かに好いてくれていたのかもしれない。


 けれど、ずっと好きだったなんて白々しい嘘をつく必要なんてないのに……。

 彦佐がたくさんの女性と浮名を流していたのを、鈴も知っている。

 今更、そのことをどうこう言うつもりもないし、彦佐くらいの男なら、それも当然だろう。

 見た目もよく、お金も地位ある。

 派手に昼間から遊び歩く軽薄さがないのは、素晴らしいくらいだ。


<font color="#cd5c5c">「……わかりました。私も……悪かったんです。勝手に思い込んでいたから。それから、子供はもちろん産みたい……あなたの子を産みます。少し…怖いけど……」</font>


<font color="#4682b4">「ありがとう、鈴」</font>


 少なくても、子供が出来たことを彼が喜んでいるのは確かだ。

 彼の表情を見つめて、鈴は思った。

 自分はともかく、子供は彼に愛されて育つだろう。


 それならば、きっと何とかやっていけるはずだ。

 鈴はそう思い、生まれてくる子供は男か女か、名前を考えておかないと…と、嬉しそうに話す彼に、そっと微笑みを浮かべた。





<center>#img1#</center>




 二人は、生まれてくる子供の為に行儀よく振る舞うようになった。

 お互いのことを知り合う努力は、着実に信頼関係を作り、二人の間の雰囲気も柔らかく温かいものに変わっていった。

 それにつれ、彦佐は鈴の身体を過保護なくらいに心配し、気を配るようにもなっていた。

 鈴が少し気分がよくないと言えば、慌てて医者を呼び、軽い目眩がしただけで一日中寝床から出してもらえない程の過保護ぶりだった。


<font color="#4682b4">「鈴の身体が心配なんだ」</font>


 自分の身を心配されて、嫌な気持ちになる者は滅多にいない。真面目な顔で訴えられると鈴も強く言えず、困った顔で笑うしかない。

 彦佐の誠実さは鈴が思った以上で、身重で大変な思いをしている彼女を、自分の欲の為に求めるなど言語道断だとはっきり言い、腕に抱きしめて眠るだけという、清い関係を続けている。

 ここまで大切にされるとは鈴自身も予想していなかった。

 彦佐には驚かされてばかりだ。


 鈴は、彦佐に大切にされて嬉しかった。

 こんな風に特別扱いをされたのは初めてだったし、彦佐はそれを隠そうともしない。それは温かで、優しく鈴を包む、彼の腕の中に抱きしめられているような幸せな日々だった。


 だが、幸せな日々は長く続かない。陰は必ず忍び寄ってくる。

 鈴は、それを思い知ることになる。


 身篭ってから五ヶ月目に入ると、身体の調子も安定して来たので、鈴は久しぶりに家族の元を訪ねた。

 もちろん、彼女の身体を心配しすぎる彦佐の許しを得ての帰宅だ。

 久しぶりの生家は懐かしく、くつろげた。

 子供が出来たことを彦佐は隠しもしないので、鈴が具合が悪くなる度に度々大騒ぎするのもあり、今や村中に二人の関係は知れ渡っていた。

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