ユキちゃんの手紙
天鳥カナン
第1話
ユキちゃんの手紙
窓の外を白いものがチラチラしている。
雪か、と思ったけれど、空は青い。
風花だ。
わたしは白いカバーが掛けられた病室のベッドからゆっくりと降り、明かり取りの小さな窓ガラスを指でこすった。曇りの取れたわずかなスペースから、フラクタルに飛ぶ小さな氷の結晶を眺める。鉄線の入ったはめ殺しの窓越しに伝わる冷気で身震いしたけど、これを見るのは好きだ。
最初に風花を見たときは雪が降ってきたのだと思って、看護師さんに許可をもらい、三階にある病室を出て下のテラスまで見に行った。気紛れに飛んでくる風花を手の平に受けるとすっと溶けてなくなってしまう。冷たい小さな雪片たちは、空気中の長い旅を終えてコンクリートの地面にたどり着いてもすぐに消え、黒い土のあるガーデンコンテナの上でも積もりはしない。
「あらまあ。ふっこしなんか見てると風邪引くよ」
背中からお掃除のおばちゃんの声がした。振り向いて尋ねる。
「ふっこしって何ですか?」
「街の人は知らんのかねえ。山ぁ越えて飛んできた雪のことをこの辺じゃそう呼ぶんだよ。きれいなことはきれいさね、ふっこしが飛んでくる日は風強くってあたしら嫌だけどさ」
おばちゃんはシワの多い顔に歯を見せて笑う。ふだん言動のきつい人だけど根はいい人なんだな、と思うのはこんなときだ。
わたしは今、山の中のクリニックに入院している。
わたしの意識がときどき飛んでしまうようになったからだ。
それが始まったのは秋の終わり、季節外れの台風が通り過ぎた朝だった。
バスが遅れて遅刻しそう、と急ぎ足で職場へ向かっていたときだ。
一瞬、前に進めないほどの風圧を感じた。吹き返しの強風が道路沿いにある建築中のマンションを襲ったのだ。
ガラララーンと頭上で何かが崩れる大きな音がしたのは覚えている。
外壁の覆いが外れ足場が崩れたために死者も出たそうだ。金属製の足場ではなく、厚いビニール製の覆いに打ち倒されたわたしの外傷は軽かったけれど、倒れるとき頭を打ったためか意識が安定しなかった。このままでは日常生活が難しいと退院できず、そのとき運び込まれた大学病院の紹介で地方にある精神科クリニックに転院した。それがここだ。たまたま空いている病室がなかったせいで個室なのはありがたかった。
「ほら、また手紙がきてるよ」と、お掃除のおばちゃんが薄いグリーンの清掃服のポケットからキティちゃん柄の封筒を出し、手渡してくれた。封筒には折りじわなどついていない。看護師さんに頼まれてすぐに届けてくれたのだろう。
ありがとう、と言ってそれを受け取る。
302号室のお姉さんへ、と宛名の書かれた切手のない手紙だ。
*
始まりは、わたしが彼女にお手紙セットをあげたことだった。
わたしと同じようにここへ入院していると聞いたユキちゃんと、お話ししてみたいと思ったから。でも会うのは難しかったので、お姉さんは302号室にいます、よかったらお手紙くださいとわたしは書いて、看護師さんからお手紙セットと一緒に渡してもらった。
『お姉さんへ。
ユキだよ。キティちゃんのお手紙セットかわいい、ありがと。
お手紙書いたら、看護師さんにわたすね。
お姉さんも、へんじを書いてね。』
そのお手紙をもらったときはちょっと驚いた。お返事はすぐには来ないだろうと思っていたから。でも、嬉しかった。
『ユキちゃんへ。
お手紙書いてくれてありがとう。
お姉さんは、ユキちゃんのお話いっぱい聞きたいです。
ユキちゃんは何才ですか?
お友だちはいますか?
ここを出たらやってみたいことはありますか?
あと、ここに来る前のこととかも、よかったら教えてね。』
それから、時々、手紙が届く。
『お姉さんへ。
ユキは八才です。
お友だちは、今はいません。
びょういんを出たら、やってみたいことは、犬をかうことです。
前に、おとなりに子犬がいました。
さわらしてもらったら、やらかくてあったかくて、コロンとしてました。
いっしょにおさんぽに行ったら、黄色と黒の小さいうんこをしました。
ユキもああいう犬といたいです。』
ユキちゃんはしっかりした文を書くなあと思いながら読んだ。鉛筆で書かれた丸い文字には消しゴムの跡もない。小学二年生って、まだ八才なのに。
わたしは白い便せんに青い万年筆でお返事を書く。
『ユキちゃんへ
お手紙よみました。すごくよくわかったよ。かん字をいろいろ知っていてすごいね。
お姉さんは今、風花を見てます。風花って遠くからとんできた雪のことです。小さくて、白くて、きれいです。
ユキちゃんも見てるかなあ。わたしは、風花が好きです。
ユキちゃんは何が好き?』
『お姉さんへ。
ユキの好きなものは、本と、いちごのチョコです。
チョコ食べながら本読むのが一番やりたいこと。
だけど、それすると本がよごれるからダメって、ママにおこられます。
本はね、ようかいの出てくるシリーズがおもしろいんだよ。
あと、外国のお話も好きです。扉のない花園のお話とか。
お姉さんはどんな本を読みますか?』
ユキちゃんに聞かれて、そういえば最近わたしは本を読んでいないなあ、と思った。病院の生活は案外に忙しい。特に午前中は決められた時間に朝食を摂り、体操やリハビリをしてできるだけ身体を動かすようにも言われている。
ただ昼食後は回診を除けば一人になれるし、午後の自由時間なら携帯を使うことが許可されている。ここにはFree‐Wi-Fiが入っていて、キンドルアプリで本を読むこともできるのだから何か読もうかと思った。そうしたらユキちゃんにお返事できるし。それともうすぐ、新しいお手紙セットがいるかもしれない。ネットで可愛い柄のを見つけて母に頼まなくては。
『ユキちゃんへ。
お姉さんも扉のない花園のお話を読んでみたよ。
ふきげんに見える女の子が主人公だけど、
遠い国からイギリスの知らないお家にやってきて、
一人でたいへんだったんだろうな、と思いました。
お姉さんも、てんこうしたことあるからわかるの。
ユキちゃんはお話のどんなところが好き?』
『お姉さんへ。
ユキが好きなのはブランコに乗るとこ。
自分のお家にブランコがあるなんてすごいと思うからです。
あと、友達のお母さんがパンとミルクをくれたとこ。
なんかすごくおいしそう。
ユキが食べてるパンとミルクと、どっかちがうのかなって思いました。』
ユキちゃんはなかなか鋭い。
イギリスの田舎で焼きたてのパンや搾りたてのミルクを食べたらそれは美味しいだろうとわたしも思う。でもそれをどうやって説明しよう?
『ユキちゃんへ。
お話の中の食べものってとってもおいしそうだよね。
お姉さんは本もののイギリスのパンやミルクを食べたことはないけど、
すてきなかすてらみたいなケーキなら食べたことはあります。
小さなてつのおなべでやくんだよ。』
『お姉さん、おなべでやくかすてら食べたんだ。
いいなあ。
ユキもおかし食べたいな。』
便箋の空いたところには、鉛筆でチョコとかショートケーキとかキャンディの絵が描いてある。ちょっと失敗したな、とわたしは思った。入院中とはいえ、ユキちゃんも好きなお菓子が食べたいに決まってる。ユキちゃんに喜んでもらえる方法を何か考えよう。
*
『お姉さんへ。新しいお手紙セットありがとう。
今日は、ここにユキが来たりゆうを書くね。
ここにユキがきたのは、院長先生を気に入ったからです。
なんかみんな、ユキのこと、へんな目で見る気がしてたの。
でもね、院長先生は「やあ」ってわらってあいさつしてくれた。それで、
「きみはいま、なれないところにいて、しんどいね。
でもきみがここにいるのは、いみがあるんだよ。
話したいことは、何でも話していいんだよ」って。
この人のゆうことは、わかりやすいなって思ったんだ。
だから、この人がいる病院なら、来てもいいと思った。
病院ってかん字、すっごくむずかしいね。
ママに聞いて、れんしゅうして、書けるようにしてみた。』
そうかあ。ユキちゃんは、あのクールな感じの院長先生が気に入ったのね。
わたしは彼がちょっと苦手というか、あのスッキリした顔の裏で何かわたしの知り得ない別のことを考えている、という気がしてつい身構えてしまう。
でも、ユキちゃんが気に入ったというのならもっと信用すべきかもしれない。子どもの直感は鋭いというから。
わたしがここへ来たのは、弟の結婚が決まったからだった。
弟はまだ就職したばかりというのに、大学時代から付き合っていた彼女を妊娠させてしまったのだ。弟の彼女は初めて働く環境でとても緊張していて、生理が来ないのもそのせいだと思い込んでいたらしい。そして、気づいたらもう堕ろせる時期を逃していた。
予期しない妊娠に驚きはしたけれど、二人はいずれ結婚してもいいと思っていたし、産むのなら父親が必要ということで、慌ただしく双方の親が挨拶して結婚の日取りが決まった。
そんなときわたしは奇禍に遭った。どんな理由にせよ、精神科に入院している姉がいるとは先方へ言いづらいから、姉は事故に遭って以来体調がよくないので、と遠くのクリニックへ片づけられた訳なのだ。
まあでも、家にいても楽しそうではないからいいか。
昨日、着替えを届けに来た母が、面談室で露骨にため息をついたので、
「お母さん、無理にここへ来なくても大丈夫だよ。荷物は送ってくれればいいから」
と言ったら「違うのよ」と。
「結婚式の打合せに呼ばれたら、先方からねえ、高い学費を払った娘のキャリアを台無しにしてくれたって嫌み言われたの。嫌になっちゃうわ。そんなことになるのは共同責任じゃない。こっちはちゃんと責任取ってるのに文句言われる筋合いはないわ」
せっかく希望の会社に入社したのに一年目から休職したらいつクビになるかわからない、と弟の彼女が泣いたらしい。弟は、どうせいつか結婚するんだからいいだろと、開き直っているようだ。出産後も仕事を続ける予定の彼女は自分の実家近くに住みたいと言いだし、それも母には面白くないらしい。父はこういう母のグチはたいてい無視する。だからここに来て吐きだしているのだろう。
「あ、でもねえ、あなたの事故は出勤途中だったから労災扱いになるそうよ、会社から連絡来たわ、よかったわね」と、それだけは嬉しそうに母は追加した。
わたしはある保険会社の支店に勤めている。もしわたしが復職して、職場のみんなの前で突然気を失ったりしたら、なんと言われるだろう? たぶん同情されるよりも「あの人無理ー」とSNSでヒソヒソ言われるか「早く辞めてくれたほうが代わりが来るのに」とマジな顔で誰かに呟かれるだけだろう。そう考えると、とりあえずここで静かに日を送るほうが良い気がした。
『ユキちゃんへ。
わたしはここがしずかなのが気に入ってます。
いちごのチョコ、ふうとうに入れるから食べてね。
ユキちゃんのすきなやつだといいんだけど。』
そう書いて、母にコンビニで買ってきてもらった苺チョコを封筒に入れた。
しばらくして届いた返信を見て、久しぶりに頬が緩んだ。
『お姉さん、いちごのチョコありがとう。
細長いはこだから、ユキの知ってるやつとちがうかな? と思ったんだ。
いつも食べるのは、いちごの絵がついたひらたいやつ。
でも、食べたら同じあじだったよ。すきなチョコです。うれしい。
またお手紙書くね。』
*
『ねえお姉さん、聞いて。
こないだ、あたし帰り道でまい子になった。
そしたらママにおこられた。わるい子だって。
ママはるすばんしろとか、しゅくだいしろとか、いろいろゆう。
でも、あたしのゆうことは聞いてくれない。
パパにもいいつけられたけど、パパは気をつけなさいってゆうだけだった。
そのときゴルフのテレビ見てたから。
ママがもんくゆって、ケンカになったけど。
それ、あたしがわるい子だからかな?』
『ユキちゃんへ。
ユキちゃんは何もわるくないとお姉さんは思います。
道にまようことなんて、大人にだってあります。
だから気にしないでいいと思うよ。
わたしは、ユキちゃんはいい子だといつも思ってるよ。』
手紙を読んで、ああ、わたしにもこんなことあったなあと思い出した。わたしの父はいわゆる転勤族で、子どもの頃は何度か引っ越しをしたし、家を買ってからは単身赴任になった。
地方の町に引っ越したときのことだ。山と川に囲まれ、豊かな田園風景が広がる町だったけれど、そのせいで学校も遠かった。小学生の子どもの足で二〇分近くかかったと思う。弟はまだ幼稚園だったので、わたしは毎朝、お隣のお姉さんと一緒に登校した。でも、帰りは一人で帰らないといけなかった。
帰り道の途中、いつも子どもたちが遊んでいる公園があった。前に住んでた街では「危険だから」と撤去されたブランコがそこにはまだあった。気になっていたけれど母から「寄り道しちゃダメよ」と言われていたので、そこで遊んだことはなかった。
その頃弟はぜんそくで、よく病院通いをしていた。今日も連れて行くと母が言っていたのが頭に浮かび、ある日ふいに思った。
どうせ帰ったって留守番だし。ちょっと遊んでいこう。
わたしは古びたベンチにランドセルを置き、まずは桜の木の下に行った。
ブランコは人気があるからすぐには空かない。今も二人組が何かおしゃべりしながら遊んでいる。その子たちが遊び終わるのを待つ間、一人で桜の落ち葉を拾っていた。赤くてきれいなのを拾うともっと鮮やかなのがまた見つかる。わたしは次々と拾っては好きなほうを残し、学校で習った押し葉にしようと思って何枚かスカートのポケットに入れた。
そうしてブランコが空くと、夢中で漕いだ。
鉄の綱をしっかり摑み思いっきりブランコを振ると、空の中に飛んでいけるような気がする。
クラスの意地悪な男の子に髪の毛を引っ張られたことも(わたしはその頃背中まである髪を一つに束ねていた)、みんなとは違う話し方をするといって馬鹿にされることも(わたしにはこの地方の方言がわからない)、どこかへ飛んでいけばいいと思った。
気付くといつのまにか辺りが暗かった。
秋は日の入りが早い。公園の街灯が、ぼうっと黄色い灯りを投げかけている。
わたしはあわてて帰ろうとランドセルをしょったけれど、公園の出口まで来て足が止まった。子どもの目には、昼間の道と夜の道はけっこう違って見える。
どうしよう……どっちに行ったらいいの?
その頃はまだ携帯電話は大人が使うもので、子どもは持たされていない。見覚えのない道に困って泣いていたら、通りすがりのおばさんが声をかけてくれて「迷子です」と交番に連れて行ってくれた。
紺色の制服を着た年配のおまわりさんは、ランドセルに付けられていた連絡先を見て家に電話した。
すぐ迎えが来ると言われたけれど、おまわりさんと二人でいるのが気まずくて「引っ越してきたから道がわからなくて…」と小さい声で言ったら「そうか」とうなずいて灰色の机の抽斗から飴を出してくれた。
金色の、鉱物のような形のその飴はかなり甘くて、おまわりさんでも甘い飴なめるんだ、と子どものわたしは驚いた。でも、口の中のそこだけ温かくなった。
しばらくすると、連絡を受けた母が弟の手を引いてやってきた。すみません、すみませんと何度もお辞儀をしておまわりさんに謝り、社宅に着くと「なんで寄り道したの!」と隣に聞こえないように抑えた声で叱られたっけ。
そうして、ポケットの中の落ち葉を見つけると母は「ゴミを拾っちゃダメでしょ」と言ってゴミ箱の中へ捨てた。
*
今日もはめ殺しの窓の外を眺めている。青空だ。
こちらの冬はたいがい晴れて、そしてすごく寒い。昼は太陽の光で暖かいけれど、夜はエアコンを止めると寒さでふとんから顔や腕を出すのも辛い。数分でも出していると痺れたように冷たくなるから、かまくらの中にいるようにふとんでドームを作って潜る。もちろんエアコンをつけたまま寝てもよいのだけど、そうすると喉がやられてしまうのだ。雨がずっと降らないので乾燥も酷い。何もしていないのに唇も手もカサカサになってきて、母にリップクリームとハンドクリームを送ってもらった。
しかし冬だから、ここにいられると思う。大嫌いな虫がいない季節だから。わたしは元から誘われても山には絶対行かない。だって山には、大きくて、鱗粉だらけの羽の、アレがいるから。
『お姉さん、ユキをいい子とゆってくれてありがとう。
でもユキは、やっぱりわるい子かもしれない。
前にね、友だちに、こっち来ないでってゆったことあって。
それからその子、あんまり学校来なくて。三学期にはいなくなった。
みんなが、いなくなったあの子はしんじゃったんだっていってた。
あたしのせい、なのかなあ。
なんか、すごく、こわい。
お姉さん、あたし、どうしたらいいんだろう。』
ユキちゃんの手紙を読んで、胸がざわめいた。
ずっと忘れていた、きえちゃんのことを思い出したからだ。
きえちゃんは、一学期の途中という中途半端な時期に転校してきたわたしに、声をかけてきてくれた。どこからきたの? と聞かれたのだと思うが、語尾が上がるこの地方のイントネーションが聞き取りにくく、わたしはあいまいに微笑んだ。
きえちゃんの着ているブラウスは少しきつそうで、袖口はうす黒くなっていた。正直、お家には連れていけないタイプの子だな、と思った。母は、わたしの友だち選びに口を出すことが多かったからだ。その子の見た目や親の職業にこだわって、「あの子をお友だちにするのはやめてね」「社宅だし周りの目もあるから」と言うのだ。
それでも、誰か「仲良し」がいないと学校での毎日はやっていけない。体育の授業は二人で組むことが多いし、昼休みに一人きりでいるのはとても目立つのだ。だから母がどう言うか予想はついても、わたしはきえちゃんと一緒にいた。
きえちゃんはきえちゃんで、周りに馴染めない何かがあるようだった。新入りでうまくおしゃべりができないわたしといるほうが、いっそ気楽なように見えた。きえちゃんは勉強は得意ではなさそうだったけど、絵がとてもうまい子だった。図工の時間に描いた絵が表彰されたこともあった。本人は何の絵でも好きで、頼むとアニメのキャラクターも描いてくれた。そして二人で、食べたいお菓子とか欲しい宝石の絵をノートに描いて遊んだ。
二学期になったばかりの朝だったと思う。この地方は二学期の始まりが早く、まだ夏の終わりだ。わたしは学校の前の歩道橋を渡ろうとしてギョッとした。歩道橋の床に何か平たいものがたくさん落ちている。近寄って見ると子どもの手くらいある大きな蛾の死骸だった。
薄茶色で、たくさんの毛と鱗粉をそなえ、特徴のある丸い模様。
ヤママユガだ。
夜の間、歩道橋の灯りに引かれて飛んできて、朝には力尽きて下に落ちたのだろう。
もちろんそのときのわたしはヤママユガの名前なんて知らない。何アレ、としか思わないが怖くてたまらなかった。半袖ブラウスの下の腕がブツブツとあわだった。間違っても触れないように、そうっと避けながら歩いていたら後ろから「おはよう」と声がした。
きえちゃんだ。私が振り向いたそのとき、夏休みの宿題をたくさん抱えたきえちゃんは、バランスを崩して転んだ。
わたしは声の出ない悲鳴を上げた。
アレ、アレがいるところなのに。きえちゃん、転んじゃった。スカートをパタパタさせるだけで、いいの? 嫌だ、こっちに来ないで。そう言ってあたしは歩道橋を急いで駆け降りた。明日から、もう絶対、ここは通らない。すっごく遠回りしても、あっちの信号から渡るんだ。
教室に入ってからも、きえちゃんのほうを見たくなかった。見れば、さっきのことを思い出してしまうからだ。休み時間になって、「ねえ、どうしたの?」ときえちゃんに聞かれてもそっちを見ようとしなかった。怖かったのだ、すごく。
それからきえちゃんは学校を休みがちになり、やがて来なくなった。先生に「何か知ってる?」と聞かれたけど、「何も知らない」と答えた。先生から言いつけられて「あなた、友だちをいじめるようなことしたの?」と母に責められるのが嫌だったから。わたしは「仲良し」がいない学校生活をなんとか耐えた。早く次の学校へ転校したいと願いながら。
*
「そろそろ問題がわかったようですね」
と、メガネの奥の瞳を鋭くして院長先生は言った。
「医師の立場からいえば、あなた方をこれ以上解離したままに置くのは良くないことです。あなたもそれはわかっていますよね、宗方有紀さん」
ユキちゃんへ手紙を書くことを最初に勧めたのは彼だ。
わたしが意識を失うと現れるその子と話をしてみたいと言ったら、では手紙を書いてみたらどうですか? と言ったのだ。
実際に手紙がきたとき、さすがに手紙そのものを読ませろとは言われなかったが、どんな内容かを報告してほしい、と言われた。それからわたしたちのカウンセリングは、ユキちゃんの手紙を元に行われた。
「退行した状態を終わらせるには、あなた自身の努力が必要です。インナーチャイルドと話し合い、問題があるなら解決して、納得してもらう作業が必要になります。僕が見たところ、問題は二つあります。一つはきえちゃんのこと、もう一つはあなたのお母さんとの関係です」
そうなのだ。母も弟も、ユキちゃんを気味悪がった。一度、弟の賢治が携帯の動画で撮った彼女を見たことがある。大人のわたしが子どもの声としぐさで話すのだから、それは傍から見たら気味悪いだろうなとわたしも思う。まして母は、過去の亡霊を見るような気になるんだろうか。
「あなたの主治医の方に、相談したいことがあるんだけど、どうしたらいいのかしら?」
少し前に、母にそう言われて驚いた。
「何? 退院とか転院のこと?」
「そうじゃないのよ。あの子、あなたの意識ない時に出てくるあの子が、最近あたしに酷いこと言うから。治してもらえないのかって思って」
「酷いことって、何?」
「ママなんか嫌い、ママも有紀が嫌いでしょ、来なくていい、だってさ。三時間もかけてここへ来る人の苦労も知らないで」
「……」
「あなたが演技して、わざとああ言っているんじゃないわよね?」
それは違うと思う、とわたしは答えた。記憶にはない、と。
でもそう答えながら、ユキちゃんにすまない気持ちでいっぱいになった。
ユキちゃんはわたしが昔、言えなかったことを、今、言ってくれてるだけなのに。
お願いがあるのですが…と母を交えての三者面接を提案すると、院長先生は快諾してくれた。そしてその日、カウンセリング室の椅子に座ると、挨拶もそこそこに母は切り出した。
「あたしはねえ、主人にも子どもたちにもずっと尽くしてきましたよ。この子だって、ちゃんと大学まで出して就職もさせて。それがなんで、今頃現れたうす気味悪い子に文句言われなきゃならないんです? しかもこの間なんか『ママ嫌い、帰れ!』って、人に暴言吐くんですよ。何かお薬とかで、ああいうおかしな子が出てくるのを止めることはできないんですか、先生」
母の剣幕にわたしはオロオロしたが、一方で不思議な気持ちよさも感じていた。転校を繰り返して、いつも知らない人ばかりに囲まれていたわたしの子ども時代に、母の言葉は絶対だった。仕事で家にはいない父の代わりに、家族を引っ張ってきたのは母だった。
その母が怯えている。
「最初から、その子は反抗的だったのですか?」
院長先生がゆっくりと聞いた。
「いえ最初はね、ママじゃない、ママはどこ? とか言ってましたよ。あたしがトシを取ったからすぐにはわからなかったんでしょうね。でも慣れたら、文句を言い出して。賢治ばっかり可愛がって有紀のことはいつもほったらかし、ママは嫌い、あっちへ行け、ですよ。弟ばかり可愛がるって言うけど、賢治は子どもの頃身体が弱かったし。男の子でしょう、いい就職してもらわなきゃ困るんだから、教育に力を入れるのも当然じゃないですか。有紀は聞き分けのいい子だと思っていたのに……あんな変な子に乗っ取られてちゃ、この先結婚も出来やしない。あの子を早く消してやってください」
「ユキちゃんに酷いこと言わないで!」
思わず母に向かって叫んでいた。
「お母さんにユキちゃんの、昔のわたしの辛さがどうわかるっていうの? 家にも学校にも居場所がなかった子の気持ちが。黙ってたのはあなたがわたしの言うことなんて何にも聞かなかったからよ!」
「有紀……」
母は困った顔をしてわたしを見たが、その目は病人を見る目つきで、ほら、乗っ取られてる、と言っていた。
「お母さんには納得いかないでしょうが」
院長先生がふだんよりも柔らかな声で割って入った。
「ユキちゃんの真実とお母さんの真実は、違うのですよ。人は、人の数だけ真実があるんです。どれが正しいというものではありません。ここはその子どもが間違っているように感じても受け入れてあげてくれませんか? そうすればあなたのお嬢さんの回復に繋がります」
「……受け入れるって、何をすればいいんですか? 私はこれまでだって、いっぱい我慢してきたんですけど」
不満そうに母は言った。
「お母さんから見て正しくない感情や意見をぶつけられても、『そうね、ごめんね』と謝ってみてください。あと、できたら『愛してるわ』と言ってハグしてあげてください」
「ハグって何ですか?」
「抱きしめてあげることです」
それはちょっとねえ、また文句言われたら嫌だし、と渋る母に院長先生は淡々と、では頭を撫でてあげてください、いい子、いい子と。簡単でしょう? それならできそうだわ、と母はうなずいた。そこへ、院長先生が言った。
「一つ質問させてください。今回の件を、ご主人、有紀さんのお父さんはどう思われているんですか?」
「あの人は昔から家のことはどうでもいいんです。最近はなんだかんだ理由を付けて、単身赴任先からもろくに帰って来ないんですよ。有紀が前の病院に入院したときは、連絡したら一度会いに来ましたけど」
「そうですか。有紀さんはお父さんに会ってどう思いましたか?」
急に自分に振られて、わたしは必死にその時の会話を思い出そうとした。
「『元気か?』と聞かれたから、『まあ身体は大丈夫』と答えたら『そうか』と。あと、『仕事はどうするんだ?』って聞かれて『しばらく休むと思う』って答えたらうなずいてました。どう思うかと訊かれても、父とは元からあまり話さないので」
ベッドサイドに立ったままわたしに声をかけた父は、しばらく所在なさそうに病室のあれこれを眺めていたが、やがて「大事にな」と言うと帰って行った。くたびれた冬物のスーツを着た父の背中は、少し小さくなったように見えた。
「そのときの有紀は普通でしたから。わかってないんじゃないですか、何も」
と横から母が口を出した。
「この間だって、賢治の結婚式に有紀は来ないのか? なんて今さら言ってるくらいだし。まったくね、あの人、『仕事だ』って言いさえすれば、なんでも通ると思ってるんですよ。急な引っ越しだろうが、生意気盛りの子どもたちの世話だろうが、息子の結婚式だろうが、面倒なことはみんなあたしに放り投げて。自分は何もしやしない。ねえ先生、働くのって、そんなに偉いことですか。そりゃ、お金を稼ぐのは大事なことですけども」
「たしかに、それは一度ご主人と話し合われたほうが良いですね」
母の愚痴はわたしには聞き慣れたものだったが、院長先生はどう思うかと気になった。けれど彼は気にしていないようで、少し考えてからこう言った。
「家族というのは不思議なものですよね。お互いにわかっているように思っていて、じつは知らないこと、わからないことも多い。でもそれでいながら、一つの船に乗って海を進むように時間を渡って行くんです。凪の時も嵐の時も。……今回、小学生のユキちゃんが言いたかったのはお母さんのことだけじゃなかった、家族のことだったんだなと、僕は今思っています」
その後「今日はありがとうございました、お越しいただいて治療の進展にとても役立ちました」とハンサムな院長先生に言われて、母は険しくなっていた表情をようやく緩めた。「この後お嬢さんと少し話しますので先に病室にお戻りいただいていいですか?」と問われ、「あたしは用事があるからこのまま東京へ帰ります、先生、娘をよろしくお願いしますね」と笑顔に近い顔でカウンセリング室を出て行った。
「さて…」
院長先生は明るい顔でこちらを見た。
「ユキちゃんの力を借りて、言えましたね。お母さんに刃向かうのは初めてですか?」
「そう言われれば、そうかもしれません」
「小学生の子がこれだけ頑張っているのですから、次は大人のあなたの番ですね」
*
次に来たユキちゃんからの手紙に、文章はなかった。
誰かお友だちなんだろうか、女の子二人の絵が描いてあった。一人の子は髪が長く、本を手にしている。もう一人の子はショートカットで手には鉛筆を持っていた。きえちゃんかもしれない。
わたしはユキちゃんが愛おしかった。いつのまにか本当の妹みたいに思っていた。賢治のような弟でなくてユキちゃんのような妹がいたら、わたしの子ども時代はまた違っていたんだろうか。
だけど、ユキちゃんが消えてくれないとあなたは退院できませんよ、と院長先生は容赦なく言う。もう一つの問題も解決しないといけません、永遠にここに入院していることはできないでしょう? と。
どうしたらいいのだろう。
考えた末に、わたしはあるSNSに登録してみた。あの小学校で、同級生だったきえちゃんを探すために。
「××小学校で○○年に二年生だった方たちへ。わたしは〝きえちゃん〟を探しています。ご存じの方、情報をお知らせください」
そう書き込んでも、すぐに役立つコメントは来なかった。幾人かは、宗方さんって転校生だったよね、今何してるの? などと声をかけてきてくれた。わたしは、今は東京で仕事していること(入院はさすがに伏せた)、きえちゃんに謝りたいことがあるんだ、それを思い出したから探してるの、と彼らに説明した。
そのうち、一人が「別のSNSでエッセイマンガをアップしてるハラダキエさんが、あの〝きえちゃん〟らしい。昔と名字は違うけれど。主人公の名前が〝きえちゃん〟で背景も僕らの町に似てる」と教えてくれた。
わたしはあわててそのマンガを検索した。そこには、父親のDV(ドメスティックバイオレンス)からなんとか逃れようとしている母と、その母を励まして一緒について行こうとする女の子が描かれていた。最初はおばあちゃん家へ逃げたけどすぐお父さんに見つかってしまったこと、母の姉であるおばさんが警察と役所に掛け合ってくれてシェルターに逃げ込んだこと。やがてシェルターから出て遠くの町に移り、そこで母が働き出したこと……。
予想もしなかった物語を、何回も検索して一話ずつ読んでいった。そうして、わたしはメンションでリプを送ってみた。
「@kie-harada わたしは宗方有紀といいます。××小学校二年の時、同級生でした。もしあなたがわたしの探しているきえちゃんでしたら、わたしはあなたに謝りたい。転校生のわたしと仲良くしてくれたのに、傷つけるようなことを言ってごめんなさい」
ドキドキしながら何度も携帯をチェックした。けれど、返信は来なかった。甘かったなあと反省した。マンガを発表すればいろんな人から反響があるのだろうし、知り合いのようなことをいって図々しいやつと思われたかもしれない。そして、名前や背景は似ていてもやっぱり人違いなのかもしれない。
本物のきえちゃんを探すにはどうしたらいい? 何年も前にいなくなった人を探す方法なんてあるんだろうか? 探偵に頼むとしたらいくら料金がかかるのだろう? と必死に検索していたとき、そのリプは来た。
「@yuki_yukichan 子どもの頃、一緒に絵を描いて遊んだ子がいたような気がしたけど、あなたかな? あたしのマンガを読んでくれてありがと。感想をきけたらうれしいです。
原田貴江」
*
『ユキちゃんへ。
大人になったきえちゃんと、けいたいでんわのお手紙で何どかお話ししたよ。
学校に来なくなったのは、きえちゃんのお父さんとお母さんが、りこんしたからです。
きえちゃんはお母さんについていったけど、お父さんに行き先を知られたくなかったんだって。だから、先生もみんなに行き先をいわなかった。
しんじゃってない、生きてたけど、しんじゃったふりをしてたのね。
「こっちに来ないで」ときえちゃんにいったことはお姉さんがあやまりました。
そうして、友だちになってくれたことに「ありがとう」といいました。
そしたら、「あたしをおぼえていてくれてありがとう」ときえちゃんはいいました。
今のきえちゃんは、お姉さんなんかよりずっと強い、大人の人でした。
お姉さんはきえちゃんをわすれてました。
ユキちゃんのこともわすれてました。
ユキちゃん、いてくれてありがとう。
これからは、いつもいっしょだからね。』
わたしは今、退院のための荷造りをしている。退院することを母も院長先生も、そしてお掃除のおばちゃんも喜んでくれたけれど、わたしの手はすぐに止まってしまう。
わたしが送った最後の手紙を読んだとき、ユキちゃんはそのまま眠ってしまった、とお掃除のおばちゃんが教えてくれた。
「あんたがそんときどっちなのか気になるからさ、手紙を渡すときは気をつけて見てたんだよ。しばらくして部屋に行ったら手紙持ったまま寝てるから、どうしたんだい? って聞いたんさ。したらあの子の声で、なんか眠いって答えたんだよ。手紙、箱にいれようか? って言ったら、うん、て言うからそうしたよ」
わたしからの手紙が入っている綺麗な箱には、わたしがユキちゃんにあげた苺チョコも入っていた。細長い箱の中に一枚だけ残っていたそれをつまむ。濃いピンクの包装紙を開いて口に入れると、人工的な苺の香りと甘さがすっと溶けた。
窓の外では風花が、ふっこしが、たくさん飛んでいる。まるで吹雪のようだ。どうみても雪なのに、これはただの一時的な現象なのだ。強い風に吹かれて山を越えて飛んできた雪になんの罪があるだろう。どうして飛んできた先ですぐ消えなければならないのか?
あれからユキちゃんの手紙はこない。
ユキちゃん。
ユキちゃん。
ユキちゃん。
わたしはあなたからの手紙を、恐れながら、ずっと待っていたよ。
わたしの中にいるあなたを、この腕で、抱きしめてあげたいと思ったよ。
わたしは自分の手で自分の身体を抱きしめると、いなくなった小さな女の子を悼んだ。
*
家に帰ったら犬を飼おう。コロンとした、柔らかくて温かい子犬を。
その子と一緒に散歩して、黄色と黒の小さなうんこを拾ってあげるのだ。
了
ユキちゃんの手紙 天鳥カナン @kanannamatori
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