【そのに・青息吐息の根を止めろ】

① 下僕(ぼく)っ娘は年齢不詳でもぬけぬけと




   ▼▼



 犬秋藍鬱いぬあきあいうつという俺の半生について語ることは、それほど難しいことではない。

 俺の人生には特に大した情報も情念も詰まっていないのだった。

 だからいて何かを話すとなれば、俺はいな先輩のことぐらいしか頭に湧いてこないのだが、しかしこれは稲穂先輩がわいしょうな存在だということではなく、俺の人生における交友関係が狭すぎるだけだということは明確にしておかなければならない。


 しかし、稲穂先輩を知る者ならばそんなことは説明しなくとも理解してくれるだろう。

 それほどに稲穂てんという人間は、存在感が強い。

 俺にとって────あの人は、世界そのものだから。



「で、あなたは人山ひとやまちゃんにフラれてここに来たってわけだ」

「違います。別にフラれてはいません」


 俺はきっぱりと否定する。

 すると稲穂先輩は声を抑えながら笑った。


「へえ? たしかに男のコに裸を見られたら、女のコは、『こんなカッコ見られたら、もうお嫁に行けないじゃない……この責任はちゃんと取ってよね!』ってツンデレになるのが普通かもしれないけどさ」

「そんな普通はライトノベルの中だけでしょ……」

「あはは! だとすれば下僕(ぼく)のような破綻した人格者こそが、そんなラノベの中でしかおがめないような光景を、あなたに見せてやるべきなのかな?」

「流石にツンデレは似合わないと思いますよ」

「それはそうだね。《軍隊》と呼ばれる下僕(ぼく)に、ラブコメは不釣り合いだろう」

「……いや、別にそこまで卑下ひげしなくてもいいとは思いますけれど。先輩、美人だし」

「嬉しいことを言ってくれるねえ。もしかして口説くどいてる?」

「まさか。先輩は母親みたいなものですよ。誘惑するつもりは毛頭ありません」

「下僕(ぼく)としては、母親じゃなくて姉として振る舞っているつもりなんだけどね。まあ母親というのも、それはそれで悪い響きじゃない」


 時刻は午前十時前。

 まだ日が照っているはずの時間でありながら、薄暗い室内。

 手入れがされていない旧校舎の窓は汚れやかびで黒ずんでおり、陽光のほとんどを遮っている。そのため、舎内は昼間でも日暮れどきのような暗闇を形成していた。


 人山に回し蹴りを喰らった後、そのまま全力で走り去っていった彼女に置いてかれた俺は、もう二時限目を半分過ぎていたことから授業をサボり、旧校舎の美術室へとおとずれた。


 数十年前に役目を終えた校舎。

 その美術室にいる稲穂先輩と、俺は話していた。


 一年九組所属、永遠の一年生・稲穂天地。

 俺が棚上たながみ学園に入学するよりも遥か以前から学園に籍を置く、万夫不当の留年生。

 ほとんどの授業は出席せずに、日がな美術室で絵を描いている年齢不詳の大先輩。自らを《軍隊》と呼称するその奇人っぷりから、学内では『旧美術室の悪魔』『悪童礼賛』『残存する征途』『群青衛星アンチグリーンライト』などの呼び名で親しまれている。


 ただ、「親しまれている」というのはあくまでも本人談で、実際生徒達からは要注意人物として酷く恐れられているのだった。曲がりなりにも悪魔と呼ばれているのなら、それはそうなんだろうけど……。

 なぜ恐れられているのかという理由については、眉唾まゆつばものの話ばかりで参考にならない。中には先輩に訊くことさえはばかられるようなエピソードもある始末なので、卑俗な衆目には呆れさせられるばかりだった。

 イメージというものはおぞましい。一度蔓延まんえんしてしまえば、ふっしょくには多大なる労力が必要になる。



 そもそも皆は稲穂天地という人間のことを知らないから、好き勝手にあることないこと言えるのだ。こうして美術室に足を運んで先輩の姿を見れば、きっと自身の誤解をすんなりと悔い改めることができるだろうに。


 黄金比とすら見間違うほどの整った美貌。長く美しい黒髪に刺さった大幣おおぬさのような髪飾りは、壮麗さを際立たせている。そして棚上たながみ学園とは別の──いずこの学校とも知れぬ学生服は、紫と黒色が基調。胸元まで開いたセーラーカラー、わく的なほど切れたサイドスリットをものともせずに着こなし、短めのプリーツスカートも見事に馴染んでいる。すねまでの美脚を覆い隠すタイツと、赤い上靴。きわめつけは、常時背中に背負っている赤いランドセルだ。年齢不詳の美女(巨乳)がランドセルを背負っているという、大人びた雰囲気の中にあるギャップは、見る者をしびれさせる。稲穂先輩の美しさには、美少女化した犬秋藍鬱でさえ太刀たち打ちできない。


 まあ、ランドセルとか、ましてや大幣などに関しては……そういうところが悪目立ちしているのだと言われれば反論しづらいけれど。



「ところで犬秋くん。ここで下僕(ぼく)と話してくれていることには純粋に感謝したいけど、本当に人山ちゃんを追いかけなくてよかったのかい? 逃げるヒロインをそのまま放っておくなんて、ラブコメの主人公にあるまじき行為だよ」


 手入れが行き届かずにさびれた室内で、稲穂先輩はグランドピアノの上に座ったまま油絵を描いている。ピアノの上には筆洗器、絵の具が並べられたパレット、画用液のボトル、刷毛、ペインティングナイフなど様々な道具が置かれていた。イーゼルに載せたキャンバスに、鉛筆による下書きの上から油彩筆で色が加えられていく。

 俺は椅子に座って、さながら観客であるかのようにその姿を眺めていた。


「別に俺はラブコメの登場人物でもなければ主人公でもないですよ。それに、人山は裸を見るなって言いながら逃げたんですよ? それを追いかけたら、まるで変態みたいじゃないですか」

「犬秋くんは変態でしょ?」

「ああわかりますよ稲穂先輩。それは辛辣しんらつな発言に見せかけて、実は俺が女体化したことを──『形態が変わった』という意味で『変態』だと言っている、というひっかけ問題なんでしょう?」


 俺の早口な指摘を聞いた稲穂先輩は、さらりと一言。


「違うけど?」

「………………」


 ええ……違うんだ……。

 無駄に恥をかいただけだった。


「ま、まあ俺が変態かどうかはともかく…………しかし現実問題、俺なんかに彼女の強制能力スキルを解決できるのかという点には、なかなか反駁はんばくしづらいところがありましたからね……人山の意見も正しい。それに彼女が俺を拒絶したのも、本当に俺の学校生活を邪魔したくなかっただけかもしれないって思うと、気まずいものがありますし」

「じゃあ犬秋くんは、人山ちゃんが思いやりで言ってくれたその厚意を受け止めて、彼女の付添人を辞退すると?」

「いえ、そうは言ってません。明日に仕切り直してもいいかと思ったまでですよ」

「ふうん……」


 稲穂先輩はキャンバスに筆を走らせながら、含羞がんしゅうのある声を漏らす。


「犬秋くん。あなたは体が女の子になったからといって、おもむろに女心がわかった気になっていたりはしないよね?」

「流石にそこまで自惚うぬぼれてはいませんよ」

「本当かい? 人山ちゃんは犬秋くんに追いかけてほしかったのかもしれないぜ?」


 稲穂先輩はいたずらっぽい口調で言った。

 にやにやと笑っている。

 俺は先輩に訊いた。


「どうしてそう思うんですか?」

「あはは。ここで女の勘という言葉を使うのはずるっこかな。いやさ、今日転校してきた人山ちゃんってば研究所に棲んでいたんでしょ? もしかしたらっていう可能性の話だけど、果たして彼女にっていうのはあるのかなー、と思って。あなたは人山ちゃんの介抱を任されたんでしょ? だとしたら、そういう面倒も見てあげなきゃいけないんじゃないの?」

「な…………」


 まさか俺の家に居候いそうろうさせるってことか?

 それは盲点──というか。

 付添人っていうのは、そこまで重い役割を背負っているものなのだろうか。

「……………………」

 しかし言われてみると、どこか心配になってくる。


「別にかすつもりはないんだけどね。あなたとこうして話している時間は、下僕(ぼく)という《軍隊》にとってはとても凄絶な経験なんだから。それに犬秋くんが横にいてくれると、絵を描くのが捗るんだ」


 柔らかな笑顔を作る稲穂先輩。


「そうですね……本当はすぐにでも城口先生に確認を取ったほうがいいんでしょうけれど、今職員室に行ってもいるかどうかわかりませんし、昼休みに見送ります。というか、研究所の職員も『人山の下宿先を用意し忘れていた』なんていうポカはやらかさないだろうと、俺なんかは思ってしまいますが…………甘い考えであることは自覚してます」


 そう言って肩をすくめていると、稲穂先輩は目を細めてこちらを見た。


「そうだね。まあ難しく考え過ぎてもよくないし、犬秋くんは部外者だからこそ気楽に構えておきなさいな。でも、しばらくの間は人山ちゃんのことを気にかけてあげなよ? あなたが最低の俗悪人だとしてもね。彼女が実際に何を言ったのかはさておき、人山ちゃんの異能を解決できる可能性はあるんだから」


 稲穂先輩はペインティングナイフを手に取って、自身の方に向ける。


「それに下僕(ぼく)から犬秋くんに貸してあげられるもあるだろう。あなたと美術室には、いつでも下僕(ぼく)が憑いてることを忘れないでね」

「……稲穂先輩、今回は割と乗り気なんですね」

「下僕(ぼく)は《軍隊》として、いつだってあなたの味方をしてきたつもりだよ。人山ちゃんに関しても、その一環というだけさ」


 どうだろうか。

 先輩自身はそう言っているものの、信憑性は怪しい。


 実はこの永遠の一年生、成績が悪いから留年しているというわけではなく、むしろ頭の良さは冠絶しているために棚上たながみ学園に在籍し続けている。


 本人いわく、強制能力者スキルホルダーの研究、解析、治療など、幅広い仕事を担当する立場にあり、学園内において強制能力解析科統括室長という肩書きを持っているらしい。生徒の授業科目に能力指導シラバスを加えたのも先輩の発案だとか。


 そういった背景から、たまに「《軍隊》としての仕事」と称して、俺を実験体に妙な薬品を投与してきたりする。

 良いときは何も起こらないのだけれど、酷いときはそのせいで二日間腹をくだすことになった経験もある。稲穂先輩の頼みとはいえ、あれは流石につらい。


 ともかく、その姿勢のことを仕事熱心だと言えるのかもしれないが、それに付き合っている俺から見ると、やはりどうも遊び感覚が抜けていないような気がするのだ。

 あの人、俺が(先輩が投薬した注射の副作用で)全身痛風のような激痛に襲われていた時、床の上で転がる俺を見て爆笑していたし……また別の実験の副作用で幻覚が見え始めた時、俺はやっと自分がモルモットにされていることに気付いた。


 それでも俺が土下座すればすぐに体の異常は治してくれるので、俺も不承不承と実験に付き合い続けている。でもよく考えたら、副作用をすぐに治療できるってことは、稲穂先輩は、実験でどんな症状が起こるのかを事前に把握しているのか? ……あまり深くは考えないでおこう。


 もっとも、基本的に絵を描いている時は穏やかな人である。

 無気力なほどに。


 先輩も(付添人の俺や)人山と同じく授業出席の義務がないらしく、普段から美術室で絵を描くばかりで、そうでない時──つまり俺が美術室に来ているときは、いつも俺をトランプやボードゲームに誘ってくる。そんな誘いに素直に乗ってしまう俺も俺ではあるけれど。

 あの人にはどこか真剣さが欠けていて、遊んでばかりいるという印象が強い。


 元より稲穂先輩は周囲の人間と広く関わるタイプではない。

 以前、先輩も俺と同じ部活に入らないかとダメ元で勧誘してみたこともあるけれど、「絵を描く時間が減るから」とすげなく断られた。

 だから人山の話にしても、油絵より下に優先順位を置いてるであろうことは、容易に想像がつく。これは愚痴ではなくただの予測だ。稲穂先輩がそういう人だということを俺はよく知った上で、受け入れている。


 どうやら友達と呼べるような交友関係もないらしく、クラスメイトなどと話している姿は見たことがない。そもそも先輩は美術室から出ていく機会が少ないし、授業を受けていないことと、留年生であることを考えれば、それも仕方のないことかもしれない。先輩も俺と同じように寮生活のようなので、身内との密な交流もないだろう。


 ……というか、先輩って何才なのだろうか。


 本人に訊いても、永遠の一年生と繰り返すだけで教えてくれないし、わざわざ一年九組の担任に尋ねるのも過剰な気がするので、今も知らないままでいた。それで言うと、先輩は既に学園の職員として給料を貰って自活している、という話も聞いたことがある。

 そうなると、留年している生徒がその学校の職員になることで時給を得て、しかも、無料の学生寮に根を下ろし続けているということになるのだろうか? ちょっぴり羨ましい。留年が続いていることには違和感を覚えるけれども。職があるのなら学校は辞めればいいのに。


 進級することのない留年生という珍しい存在は、学内でも噂として広く膾炙かいしゃしている。


 あくまでも悪人ではないというだけで────決して善人でもない。

 稲穂天地という謎のお姉さんは、そういう人だった。


「ところで犬秋くん」

 油彩筆を筆洗器に入れて、稲穂先輩は体育座りのまま、体をこちらに向ける。

調?」


 先輩は薄ら笑いを浮かべながら、そう訊いてきた。

 意味深な声音。

 そんな質問に俺は首を傾げる。


「体調ですか?」

 先輩の意図が読めずに、素っ頓狂にそんなことを訊き返したところで、はっとして気付いた。

 そうか、なるほど。

 俺は科学者のような目つきをした先輩に言った。


。不可抗力というか、予想外の形ではありましたけど、違和感なく使えることは今朝に確認しています」


 そうして先輩はにこりと笑う。


「あなたのような症例は珍しいから、どれだけ小さな異常でもちゃんと報告してよね」

「わかってますよ」


 稲穂天地。

 母親代わりの存在。

 世界そのもの。

 そして俺は、世界の犬で。

 先輩のモルモットだった。




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