幸せな魂

またたびやま銀猫

第1話

「お願いです」

 男は教会で祭壇に跪き、神に祈っていた。

「妻の命を助けてください。助けてくださったならこの命がどうなってもかまいません」

 言った直後、教会の外がピカッと光り、ごろごろと雷鳴がとどろいた。


 男は音に驚いて顔を上げ、さらに驚いた。

 さきほどまで誰もいなかったのに、今、ひとりの男が目の前に立っていた。黒づくめで髪も黒く、その顔の造形はひどく美しいがどこか禍々しい。


「神などいない」

 男はにたりと笑ってそう言い、続ける。

「お前の魂をくれるなら、願いを叶えてやろう」


 祈っていた男はさらに驚愕した。

「本当ですか!?」

「ああ、願いはなんだ」


「妻が馬車に轢かれてしまったんです。医者によると今夜が峠、なんとしても妻を助けたいのです!」

 男は突如現れた男にすがった。


 きっとこいつは悪魔だ。教会に現れるなんて、きっとすごく力の強い悪魔に違いない。

 でも誰でもいい、妻を助けてくれるなら。


 長年の思いを実らせて結婚したばかり、これから幸せになろうというときにこんな形で神が妻を奪うなんて思ってもみなかった。

 それともあれは悪魔の仕業だろうか。

 どちらであっても気にする余裕なんてない。


 ただ妻が無事であるならば。

 悪魔に食われた魂は天の国へ行くことができずに消滅するというが、そんなことももはやどうでもよかった。


「願いはかなえる。そのかわりお前の魂は俺がもらう。この契約は誰にも言うな。言ったら家族全員の魂をもらう」

「ありがとうございます!」

 男は深々と頭を下げ、家に急いで帰った。


 家からは喜びの声が外にまで聞こえていた。

 男はノックもせずにドアを開けて中に入る。


「お帰り、奇跡が起きたよ!」

 老いた母が男を出迎える。

「妻は!?」

「ケガが全部治って元気だよ! みんなの祈りが神に通じたんだ!」

 つきそっていた彼女の両親も泣いて喜んだ。


 その夜の食事は彼女の生還を祝ってごちそうだった。

 みなが寝静まったあと、男は家の外に出た。

 たぶん、悪魔が待っているだろうと思ったのだ。

 果たして、悪魔は月光の下で男を待っていた。


「ありがとうございます。どうぞ」

 男は悪魔に跪く。

 だが、悪魔は首を振った。


「もう少し待ってやる」

「え?」

「もう少しお前が幸せを感じたあとのほうがおいしくなる」

 男はきょとんとした。


「お前が一番幸せだと思ったときにまた来る」

 悪魔はそう言って姿を消した。




 男はそれから不安な日々を過ごした。

 悪魔と取引したときには恐れなどなかった。

 だが冷静になった今、死の恐怖が襲って来る。

 こわごわと日々を過ごし、一週間がたち、一カ月がたつ。


 そうこうするうちに妻に妊娠を告げられた。

 大喜びしたのだが、次の瞬間には青ざめた。


 幸せを感じたあとに悪魔が来ると言っていた。

 まさに今日ではないのか。

 こわごわと過ごし、やはり悪魔は現れなくて、毎朝、目覚めを迎えてほっとする。


 やがて妻の腹が多くなってくると、この子が生まれたときこそ悪魔が来るのだと覚悟した。

 だが、子が生まれても悪魔は現れない。


 子が成長し、ふたり目が生まれ、三人目が生まれ、それでも悪魔は現れない。

 子が大人になり、結婚し、孫が生まれた。

 男は苦労を味わいながらも幸せを感じて過ごした。


 男は次第に、あれは悪魔ではなかったのだ、と思うようになっていた。

 なぜか悪魔の名をかたっていたが、きっと神だったのだ。

 神への感謝をかかさず行い、男は老いていき、とうとう寿命を迎える。


 死の床につき、悲し気な妻や子ども、孫たちに囲まれ、人生最大の幸福を感じる。

 これほど幸せな最期を迎えられる人がどれほどいるだろうか。

 そう考える男の前に、黒い髪の悪魔が現れた。


 悪魔は家族には見えないらしい。

 家族に割って入った悪魔は手を差し出す。

 男はその手を取って立ち上がった。


 体からするりと自分が抜け出たのがわかった。

 今、きっと自分は死んだ。魂だけになったのだ。

 家族が泣いて悲しむのを見たあと、悪魔とともに家の外にでる。


「今まで待っていただいて、ありがとうございました。おかげで幸せでした」

「そのために待っていたのだからな」

 悪魔は満足げに頷く。

「あなたは本当は神だったのでしょう。ありがとうございます」


 悪魔はくつくつと笑った。

 自分はときおり神と錯覚される。


「俺はまごうかたなき悪魔だ。これからお前の魂をくらう。お前は天へ行けずに消滅するのだ」

「妻を助け、子どもを授かり、孫にも会えました。悔いはありません」

 男が覚悟を決めて目を閉じる。

 悪魔は男に手をかざし、手の平から男の魂を吸い取った。


「うん、なかなかいい」

 悪魔はぺろりと下を出して唇を舐めた。


 幸せな魂は甘くておいしい。彼の好物だ。

 だから男の妻を馬車の事故に遭わせた。教会に救命の嘆願に来るだろうから。

 そこに契約を持ち出す。

 育つのを待つなんて、と笑う仲間もいるが、待つからこそ余計においしくなると思っている。


 悪魔に魂を食われてしまえば天の国で再会することができなくなる。

 妻は永遠に続く悲しみを得るだろう。

 だが、人間にはそこまで思いが及ばないのだ。生きている世界だけがすべてだと思って命を投げ出す。


 狂ってる、と思う。

 人間は愛のために生存の本能を捨てて命を捧げる。


「まあ俺には関係ないけどな」

 悪魔は住処にしている教会に戻る。

 教会は彼のために建てられたものだった。魂を代償として願いを叶える彼を神と勘違いしている人間はそれなりにいる。


 そうして悪魔は今日も人間を待つ。

 幸せな魂を得るために。




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