花を装う
森陰五十鈴
白く咲け
政治なんてつまらない。常に腹の探り合い。
王女に生まれたら、問答無用。すれ違う人どころか、世話をしてくれる使用人、血の繋がった家族相手であっても、油断などできはしない。
愛だとか恋だとか信頼だとか、無縁の世界。胸がときめくことも、熱くなることもない。常に冷たい刃を研いで置かねばならぬ、そんな世界。
髪のセットが仕上がったとのことで、レギーナは本を閉じた。くたびれた表紙。黄ばんだ紙。何度この本を読んだことだろう。内容は当然覚えている。それなのに開くのは、この本の文字を追うのが、うんざりする時間の気を紛らわすのにちょうど良いからだ。
「殿下は、真にその御本がお好きですね」
髪を結ってくれていたメイドが、呆れ混じりに声をかける。馬鹿にされているのは、お見通しだ。この本は巷でも有名な少女向けの恋愛小説。それを愛読しているなんて夢見がちだとでも思っているに違いない。
だが、レギーナは無邪気な小娘を装って、花のような笑みを作った。
「だって、とっても美しい物語なんですもの。白馬の王子様との恋……女なら誰しも憧れませんこと?」
あえて主語を大きくし、目を瞬かせながら振り返る。無知な演技は、過剰なくらいのほうが効果的。
「ええ。そうでございますね」
子どもを見るような生温かい視線。十七の乙女に向けるものではなく、心底侮られているのを感じる。あまりに簡単で、取るに足らない相手だ。……まあ、このくらいのほうが、気を揉まなくて良い。そんなことを考えながら、レギーナは本の表紙を撫で、うっとりと溜め息を吐く。
「旦那様とも、このような素敵な恋ができると良いのですけれど」
「ええ。きっと」
おざなりな返事のあと、立つように促される。髪が終わったのなら、次はドレス。ゆるりとしたネグリジェを脱がされて、コルセットを締め上げられる。体型が整ったら、着せられるのは真っ白なドレス。上質な絹と細かな刺繍のAラインは、レギーナの〝少女性〟を飾り立てている。
今日、レギーナは結婚する。
お相手は、隣国の公爵。もちろん、政略結婚だ。会ったこともない相手。十一も歳上であるということくらいしか、レギーナは知らない。
ただ、隣国は今、後継者争いの最中であるという。その公爵様が、他所の王女を手に入れることで、争いの優位に立とうとしていることは、想像が付いた。
レギーナはもう一度溜め息を吐いた。演技ではなく、憂鬱を紛らわすために。
王族に生まれた。それだけで、ずっと権謀術数の最中に身を置いていた。利用するか、されるか。どちらかしかない世界で生きてきた。都合の良いように扱われるのは嫌だったので、馬鹿のふりをして相手をさりげなく転がすことでどうにか凌いできたのだが、さすがに自分より立場が上の者には、どうあっても歯が立たない。
この婚姻は、王太子である兄が進めたものだった。
本当に嫌になる。血の繋がった家族であってさえ、これだ。
親子の情、兄弟の情。愛だの、恋だの、総てが幻想。国益の前に、そんなものに価値はなく、夢見ることすら愚かしい。
――でも。
絨毯の敷かれた回廊を行く最中、ふと窓の外を見る。麗しき庭木の向こうには、城と街を隔てる壁があった。あの向こうには、レギーナが手に入れられない総てが、幻想でなく確かに在る。手にできる保証はないかもしれないが、物語のような展開を望むくらいは許される世界があるのだ。
空を鳥が翔けている。城を囲む高い壁を容易に飛び越えて、夢ある場所へと消えていく。
レギーナは、冷たい籠の中で見送るだけだ。
「殿下」
呼ばれ、我に帰る。レギーナは笑みを作って、苛立ちを隠そうとする女官たちを振り返った。
「良いお日柄ね。なんて素敵な日なのでしょう」
頭に花が咲いているとしか思えない言葉を紡ぎ、足取りを軽くしてみせて、式の会場に向かう。
観音開きの入口で初めて顔を合わせた旦那様は、なんとも冷めた目をした男だった。口元は作り笑いすら浮かべることなく。道具を見るような眼差しで、レギーナを見定めた。鍛えているのか、武骨な身体。だが、隙が見えないのは、武芸に通じているからではないのだろう。
手強そうな相手だ。頭の中が冷えていく気分を、レギーナは味わった。白馬の王子様など夢のまた夢。結局自分は、政略の世界から逃れることなどできないのだ。
「はじめまして。旦那様」
芳しい花の匂いを吸い込んだときの気分を呼び起こし、幸福な未来に胸を膨らませた純心な少女を身に降ろして、レギーナはドレスの裾を広げた。
「改めまして、レギーナと申します」
白いドレスに包まれるのは、真っ黒な腹の内。隣国の後継争いに一石を投じるのが、王女に当てられた務め。
「どうか、わたくしを、大事にしてくださいましね?」
言葉の裏に隠したのは、宣戦布告。
甘い物語の書かれた本を携えて。花の中にナイフを隠して。
レギーナは、彼の寝首を掻くために、嫁に行く。
花を装う 森陰五十鈴 @morisuzu
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