さよならの予感
サボテンマン
さよならの予感
ヒカルは今日も、赤いワンピースに身を包み、鏡の前で大きく深呼吸をした。胸元のリボンを整えながら、スマホの画面に目を落とす。
「今日はどこ行く?」
ムラタからのメッセージが表示されていた。思わず微笑む自分に気づいて、ヒカルは顔をしかめた。これはただのバイト、ただのレンタル彼女としての仕事なのだ。
――そのはずだった。
待ち合わせ場所のカフェに着くと、ムラタはいつものように気さくな笑顔を浮かべて手を振っていた。最初はただの客だと思っていた。けれど、ムラタの人懐こさに、ヒカルの胸は徐々に締め付けられるようになっていた。
「ここのコーヒー、前に話してたやつ。飲んでみたくてさ」
そう言いながら、ムラタは嬉しそうにカップを差し出した。その笑顔が、どうしようもなく心を揺さぶる。彼の笑顔の奥に、どこか寂しさが垣間見えたのは、何度目かのデートのときだった。
ムラタといると、気が楽になった。彼が笑うと、自分も笑いたくなった。何より、ムラタが自分の話を楽しそうに聞いてくれるのが嬉しかった。
「もっと一緒にいたい」
そんな思いが、次第に膨らんでいった。レンタル彼女としての枠を超えて、ムラタの言葉や仕草が心に染み込んでいったのだ。
「実はさ、俺、バツイチなんだ」
思いがけない言葉に、ヒカルは驚きで言葉を失った。ムラタは続けた。
「妻とは中学のころからの同級生でね。何度も告白して、やっとOKもらって結婚したんだ」
淡々と話すその声は、どこか自嘲気味だった。
「でも、結局……浮気されて、他の男と行っちゃったんだよ」
「……寂しかったんですか?」
思わず口をついて出た言葉に、ムラタは目を細めた。
「……ああ、寂しかったんだと思う。だから、こうしてレンタル彼女なんて頼んでさ」
ムラタの表情に浮かんだのは、どこかに置き忘れた温もりを探しているような、切ない笑顔だった。
その日以来、ヒカルの心は揺れ続けていた。ムラタの優しさ、柔らかい笑顔、ふとした瞬間に見せる寂しさ。そのすべてが愛おしく思えた。けれど、同時に心の奥底には迷いがあった。
――ムラタさんは、今でも元妻のことが忘れられない。
何度も思いを伝えようとしては、言葉が喉に詰まった。ムラタの笑顔の向こうに、元妻の面影がちらついて見える気がした。結局、私は「埋め合わせ」にすぎないのかもしれない――そんな不安が胸を締め付ける。
春の気配が近づいたある日のデート帰り、二人は川沿いのベンチに並んで座っていた。沈む夕陽が川面に映り、揺らめいていた。
「ヒカルちゃん、さ……」
不意にムラタが口を開いた。ヒカルはドキリとした。
「何ですか?」
「今日が、最後にしようかなって」
一瞬、時間が止まったように思えた。
「……どうして?」
震える声が自分のものとは思えなかった。ムラタは静かに目を伏せる。
「そろそろ前を向かなきゃって思って。いつまでも寂しさを埋めるために君に頼るのは……違うかなって」
「違わないです!」
思わず声を張り上げた。ムラタが驚いてこちらを見つめる。
「私……」
言葉が喉の奥でつかえる。自分の気持ちを伝えたい。けれど、それはムラタの元妻と同じじゃないのか――。
ふと、思い出した。最初のデートでムラタが「そのワンピース、似合うね」と言ってくれたこと。コーヒーを差し出して「飲んでみたくてさ」と笑ったときの嬉しそうな顔。そのすべてが、私にとっては大切な思い出になっていた。
「私……まだ、ムラタさんと一緒にいたい」
ついに言葉がこぼれた。目の前のムラタが目を丸くしている。ヒカルは続けた。
「元奥さんのことが忘れられないのも、今でも寂しいのも……知ってます。でも……それでも」
ヒカルは思いを伝えることを拒んだ。
わたしは、ムラタさんの、下の名前すらまだ教えてもらえていない関係じゃないか。
言葉に詰まるヒカルをじっと見つめて、ムラタはしばらく黙っていた。そして、ふっと柔らかく笑った。
「ありがとう」
それだけ言って、ムラタは立ち上がった。夕陽が彼の背中をオレンジ色に染める。
「これからは、もう寂しさを埋めるために君と会うんじゃなくて……一人でちゃんと向き合ってみるよ」
涙がこぼれそうになったが、ヒカルは笑った。
「……はい」
ムラタの背中が遠ざかる。けれど、その背中はどこか遠い場所に行ってしまったように感じた。
――この恋が、実らないまま終わる日が来るのかもしれない。
ヒカルはふと、胸元のリボンを指先でなぞった。最初にムラタが褒めてくれた、この赤いワンピースが、少しだけ色褪せて見えた。
夕陽が沈む空に、ヒカルはそっとつぶやいた。
「……さよなら」
さよならの予感 サボテンマン @sabotenman
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます