【短編小説】「ある美術修復師の告白 ~半獣の肖像、あるいは400年の沈黙を破る絵~」
藍埜佑(あいのたすく)
【短編小説】「ある美術修復師の告白 ~半獣の肖像、あるいは400年の沈黙を破る絵~」
### I. 修復師
私の仕事は死者を蘇らせることだ。
といっても、医者でも霊媒師でもない。私は美術修復師のマルコ・ベネッリ。かつての巨匠たちの作品から時間の埃を払い、彼らの息吹を取り戻す仕事をしている。
ローマの古い美術館の地下にある私の作業室は、美術史の病棟のようなものだ。壁には気候を一定に保つ装置がうなりを上げ、棚には顔料や溶剤が整然と並んでいる。そして中央のテーブルには「患者」が横たわっている。
今回の患者は、16世紀の無名画家による「狐を抱く聖女」という小さな板絵だ。聖女の顔はかすれ、狐は茶色い影にしか見えない。修復前のX線検査で、この絵の下に別の絵が隠されていることが判明した。上塗りを取り除けば、もっと価値のある作品が現れるかもしれない。
「さあ、あなたが隠しているものを見せてください」
私は拡大鏡を通して絵を観察しながら、極小のヘラで上層の塗料を慎重に取り除き始めた。これは時間との勝負だ。早すぎれば元の絵を傷つけ、遅すぎれば私の人生が終わる前に仕事は終わらない。
私が修復を始めて三週間が経ったころ、妙なことに気づいた。聖女の右目の下から別の目が現れたのだ。しかし奇妙なことに、それは人間の目ではなく、動物の目のように見えた。狐の目だろうか? しかし構図からすると、それはありえない位置だった。
さらに作業を進めると、聖女の顔の下から別の顔が現れ始めた。半分は人間、半分は動物の顔。これは何だろう? 神話的な存在? それとも異端的な表現?
私は美術館の館長オルランディーニに報告した。
「極めて珍しい発見です」
彼は眼鏡の奥の目を輝かせた。
「おそらく検閲を恐れて上塗りされたのでしょう。宗教裁判の時代ですからね」
私は頷いたが、何か腑に落ちない点があった。上塗りの技術があまりにも巧妙で、16世紀のものとは思えなかったのだ。まるで…現代の技術のようだった。
### II. 歴史家
私の名前はルチア・モンティ。ローマ大学で美術史を教えている。
三ヶ月前、古文書館で興味深い手紙を発見した。1587年、ある司祭から宗教裁判所へ宛てられたものだ。それには「悪魔的な絵を描く画家」についての告発が書かれていた。
「この者は獣の姿を聖なるものと混ぜ合わせる冒涜的な技を持つ。その絵は見る者を魅了し、堕落させる」
名前は記されていなかったが、その画家は「狐の導き手」と呼ばれていたという。
私はこの手紙をきっかけに、「狐」のモチーフを持つルネサンス期の絵画について調査を始めた。そして国立美術館の地下で修復中の「狐を抱く聖女」の存在を知ったのだ。
修復師のマルコ・ベネッリに会い、作業の様子を見せてもらった。彼は物静かだが情熱的な男性で、細部への驚くべき集中力を持っていた。
「下から別の絵が出てきています」
彼はそう言って、部分的に現れた奇妙な顔を見せてくれた。人間と動物が融合したような顔。まさに司祭の手紙に描かれていたものではないか。
「ベネッリさん、この絵に関する歴史資料を見つけました」
私が手紙の内容を説明すると、彼は奇妙な表情を浮かべた。
「この修復の依頼、誰からですか?」
「オルランディーニ館長からです。なぜ?」
「いいえ、何でもありません」
彼は言葉を濁した。しかし、その日からベネッリの様子がおかしいことに気づいた。常に誰かに見られているように周囲を警戒し、作業室に鍵をかけるようになったのだ。
### III. 観客
私の名前はアレッサンドロ。特別なことをしている人間ではない。国立美術館の警備員として十五年勤めている、ごく普通の中年男だ。
先月から地下の修復室の警備を命じられた。理由は言われていないが、館長が特に気にしている作品があるらしい。
修復師のベネッリは変わった男だ。食事も忘れて作業に没頭し、時には絵に話しかけている。最初は熱心な職業人なのだろうと思っていた。
しかし先週から、彼の行動がさらに奇妙になった。夜中に修復室に戻ってきては、絵をじっと見つめている。そして誰もいないはずの部屋で、誰かと会話しているのだ。
昨夜、私は好奇心に負けて盗み見てしまった。ベネッリは絵の前にひざまずき、こう言っていた。
「なぜ私を選んだのですか? これ以上は進められません」
そして驚くべきことに、絵から囁き声が聞こえたような気がした。聞き間違いだろうか?
今朝、ルチア・モンティ教授が修復室を訪れた。彼女が帰った後、ベネッリは激しく動揺していた。そして突然、私に声をかけてきたのだ。
「アレッサンドロさん、この絵を見ていて、何か感じることはありませんか?」
私は正直に答えた。
「なぜか悲しくなります。そして…怖いような、懐かしいような…」
彼は深く頷いた。
「あなたにも感じるのですね。この絵には何かがいる。何者かが」
私は彼が疲れているのだろうと思った。しかし、その日の夜、私自身が奇妙な夢を見た。半分が人間、半分が狐の姿をした存在が、私に何かを伝えようとしている夢だった。
### IV. 館長
私はジョルジョ・オルランディーニ。国立美術館の館長を二十年務めている。
「狐を抱く聖女」の修復は、私の密かな計画の一部だ。表向きは単なる保存修復事業だが、実際には探索であり、確認である。
我が家には古い伝承がある。先祖の一人が「人間の皮を被った狐」に騙され、魂を失ったという。詳細は記録されていないが、その狐は画家に姿を描かせ、絵の中に魂の一部を封じ込めたとされる。それ以来、我が家は「狐の肖像」を見つけ出し、破壊することを使命としてきた。
三年前、ある個人コレクションの競売で「狐を抱く聖女」を見つけたとき、私は直感した。これが探していた絵だと。X線検査の結果はその直感を裏付けた。絵の下に別の姿が隠されているのだ。
ベネッリは優秀な修復師だが、彼が選ばれた理由は技術だけではない。彼の家系は、かつて「狐の導き手」と呼ばれた画家と関係があるのだ。本人は知らないが、彼の血には絵と交感する能力がある。彼なら隠された真の絵を引き出せるだろう。
しかし、最近のベネッリの行動は予想外だった。彼はただ絵を修復するだけでなく、その声を聞き始めているようだ。これは危険な兆候だ。歴史家のモンティ教授が介入してきたことも想定外だった。
今夜、最終的な決断をしなければならない。絵が完全に現れる前に破壊するか、それともリスクを冒して真実を明らかにするか。
### V. 画家
人々は私を「狐の導き手」と呼んだ。1580年代、私はローマで活動していた画家だ。
私の特異な才能は、人の内側に潜む獣性を描き出すことだった。誰もが隠し持つ野生の部分、社会の仮面の下に潜む本能を絵にするのだ。教皇から娼婦まで、彼らの魂の獣性を描き、その代償として金を得た。
しかし本当の目的は別にあった。絵を通して人間を理解することだ。なぜ彼らは獣性を恐れるのか? なぜ自然との繋がりを断ち、石の迷宮に閉じこもるのか?
ある日、裕福な貴族オルランディーニが訪ねてきた。彼は自分の肖像画を依頼した。「本当の自分を知りたい」と。
私は彼の魂を見た。そこにあったのは狐だった。狡猾で、欲深く、しかし驚くほど繊細な魂。私は彼の人間の姿と狐の姿を融合させた肖像画を描いた。
彼はその絵を見て恐怖に震えた。
「これは悪魔の仕業だ!」
彼は絵を破壊しようとした。私は止めようとしたが、もみ合いの中で彼は窓から転落し、命を落とした。
彼の家族は私を魔術師として告発した。宗教裁判から逃れるため、私は最後の作品を描いた。自画像だ。しかし判事に収めるように命じられた聖女の絵の下に、私は真の絵を隠した。人間と狐が融合した自画像を。
そして呪いをかけた。この絵を見る者は、自分の内なる獣性と向き合わなければならないと。それは呪いであると同時に、祝福でもあった。
四百年の時を経て、私の絵が再び光を浴びようとしている。マルコ・ベネッリ。彼は私の血を引く者だ。彼なら理解してくれるだろう。私たちの芸術が持つ真の力を。
### VI. 交差点
マルコ・ベネッリは決断した。もはや引き返せない。
彼は修復作業を加速させた。館長の視線、歴史家の好奇心、警備員の監視。すべてを感じながらも、彼は絵と対話を続けた。
そして遂に、聖女の姿の下から真の絵が現れた。半人半獣の姿。しかしそれは怪物ではなく、調和の表現だった。人間の理性と動物の本能が完全に融合した存在。その目は見る者の内面を映し出すようだった。
その夜、美術館で奇妙な出来事が重なった。
ルチア・モンティは古文書館で新たな発見をした。「狐の導き手」の最後の記録。彼は処刑されたのではなく、失踪したとされていた。そして興味深いことに、その直後にベネッリという名の新しい画家がフィレンツェに現れていたのだ。
アレッサンドロは修復室の前で、半人半狐の姿を見た。しかしそれは絵の中ではなく、廊下に立っていた。彼が声をかけると、その姿は壁の中に消えた。
オルランディーニ館長は絵を破壊するために地下室へ向かった。彼の家系に伝わる「狐の呪い」を終わらせるために。しかし修復室に着くと、そこにはベネッリと完全に修復された絵があるだけだった。
「あなたの先祖は真実を恐れたのです」
ベネッリは静かに言った。
「私たちは皆、獣性を持っています。それを恐れるのではなく、理解すべきなのです」
オルランディーニは絵に近づいた。そこに描かれていたのは、確かに彼の先祖に似た顔を持つ半人半狐の姿だった。しかし恐ろしい怪物ではなく、威厳と知恵に満ちた表情をしていた。
「四百年間、あなたの家族は自らの一部を否定し続けてきた」
ベネッリは続けた。
「画家は魔術師ではなく、鏡を持つ者なのです」
その瞬間、美術館全体が震動し、停電が起きた。暗闇の中、絵だけが微かに光を放っていた。
四人は絵の前に立っていた。ベネッリ、モンティ、アレッサンドロ、オルランディーニ。彼らの影が壁に映ると、人間の形ではなかった。それぞれが異なる獣の特徴を持つ影だった。狐、猫、鷹、狼。
絵の中の半人半獣の姿が動き、彼らに語りかけた。
「私たちは皆、二つの世界に生きている。文明と自然、理性と本能、現実と芸術。その境界を認識できる者だけが、真の姿を見ることができる」
明かりが戻ったとき、絵は元の「狐を抱く聖女」の姿に戻っていた。しかし四人には見えた。聖女の目に宿る野生の輝きと、狐の目に宿る人間の知性が。
### 後日談
国立美術館では特別展「獣性と人間性—16世紀の象徴芸術」が開催されている。中心的な作品は「狐を抱く聖女」だ。キュレーターのルチア・モンティによると、この絵には二重の意味が込められているという。
修復を担当したマルコ・ベネッリは、現在自らのアトリエを開き、古典技法と現代アートを融合させた作品を制作している。彼の絵には常に人間と動物の境界を探求するモチーフが含まれている。
ジョルジョ・オルランディーニ前館長は引退し、家族の歴史に関する本を執筆中だという。その中で彼は「伝説と現実の境界」について考察している。
警備員のアレッサンドロは、今も美術館で働いている。来館者の中に時折、動物の特徴を持つ人々を見ることがあるという。彼はそれを誰にも話さないが、微笑みかけることはある。彼らもまた、境界を渡る者たちだと理解しているからだ。
そして夜、美術館が閉まると、絵の中の半人半獣の画家はほんの少しだけ動き、見る者の本質を映し出す目で、次の「理解者」を待っている——。
【短編小説】「ある美術修復師の告白 ~半獣の肖像、あるいは400年の沈黙を破る絵~」 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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