消えない足跡
西川笑里
第1話 ハギワラさん
狭い路地に、ぽつんと古びたアパートが建っていた。
築五十年を超えたその木造の建物は、「あばらや荘」と呼ばれている。正式には「安原荘」という名前らしいが、住人たちも近所の人間もそうは呼ばない。長年の雨風に晒され、外壁はひび割れ、階段はギシギシと悲鳴を上げる。誰が名付けたか、「あばらや荘」という呼び名の方がずっとしっくりくる。
ここに住む人々も、どこか訳ありだった。職を転々とする者、過去を語らない者、近所付き合いを避ける者——つまり、あばらや荘は社会の隙間に落ちた人間たちの避難所だった。
そんな場所で、不可解な出来事が起きたのは、去年の秋のことだった。
当時、三階の一番奥の部屋には「ハギワラさん」という中年の男が住んでいた。誰とも親しくせず、昼夜を問わず部屋に閉じこもっていた。たまに出てきても、猫背でうつむきがちに歩き、挨拶すらしない。
だが、ある日突然、彼は姿を消した。
引っ越したわけではない。部屋には家具も布団もそのまま残っていた。だが、当のハギワラさんだけが忽然と消えたのだ。
もっと奇妙だったのは、彼の部屋の前の廊下に、足跡だけが残っていたことだった。
それは泥でできたような足跡で、裸足のものだった。しかも、まるで廊下にぬりつけられたかのように、どんなに拭いても消えなかった。
管理人さんが必死に雑巾で擦っても、翌日にはまた元通りに浮かび上がる。まるで何かを主張するように。
「なんか、気味が悪いねえ……」
住人たちはそう言いながらも、いつの間にかその足跡を避けて通るようになった。
だが、異変はそれだけでは終わらなかった。
ハギワラさんが消えて一週間ほど経った頃、夜中に足音が聞こえるという話が広まり始めた。
最初に気づいたのは二階に住む大学生の杉本だった。
「夜中の二時くらいになると、上から足音が聞こえるんです。最初はネズミかと思ったけど……なんか違う。ゆっくりと、廊下を歩くような音なんですよ」
杉本の話に、他の住人たちも顔を見合わせた。
「……私も聞いたことがある」
そう言ったのは、四十代のOL、田辺だった。
「真夜中に、スリッパを引きずるような音。でも、ハギワラさんの部屋には誰もいないはずなのに……」
この噂はまたたく間に広がり、誰もが夜中に廊下を歩く音を聞いたと証言するようになった。
だが、不思議なことに、それを実際に見た者は誰もいなかった。
ある夜、住人の一人が「証拠をつかもう」と思い立ち、スマホで録音を仕掛けた。
午前二時を過ぎた頃、静寂の中に、かすかに足音が響き始めた。
——ギシ……ギシ……ギシ……
それは確かに、三階の廊下をゆっくりと歩く音だった。
「やっぱり何かいる」
翌朝、録音データを確認した住人たちは震え上がった。なぜなら、足音の合間に、小さな呟き声が混じっていたからだ。
「……ここに、いる……」
それは男の声だった。しわがれた、かすれた声。それなのに、不気味なほどはっきりと録音されていた。
「ここに……いる……」
まるで、何かを訴えるかのように。
この騒動を聞きつけ、管理人さんはとうとう霊能者を呼ぶことにした。
やってきたのは六十代の女性で、質素な和服を着ていた。
彼女はハギワラさんの部屋の前に立つと、しばらく目を閉じ、やがて小さく呟いた。
「……この部屋、長くは持たないね」
その言葉の意味を、誰も理解できなかった。
だが、次の日——。
あの消えないはずの足跡が、忽然と消えていた。
それと同時に、夜中の足音も聞こえなくなった。
住人たちは胸をなでおろし、やがてこの奇妙な出来事は忘れ去られた。
ただし、ひとつだけ、誰も気づかなかったことがある。
ハギワラさんの部屋の前に残っていた足跡は消えた。だが、建物の外の路地に、今度は同じ裸足の足跡が現れたのだ。
それは、まるで誰かがこのアパートから外へ歩き去ったかのように。
だが、その足跡の主を見た者は、今もいない——
消えない足跡 西川笑里 @en-twin
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