走馬灯
イグチユウ
走馬灯
「健吾なんてもう知らない!」
里美はそう俺に向かって怒鳴ると、カフェから出て行った。席には俺と二つのコーヒーカップだけが残されている。お客さんの楽しそうな会話で満ちていた店内が一瞬静まり変えてしまった。周りから好奇の目を向けられているが、そんなことは何も気にならなかった。自分のコーヒーカップを持ち上げ、コーヒーを口の中に注ぎこんだ。苦い。その苦味はまるで心の中にまで染み込んでいくようだった。コーヒーはもうすでに胃の中に入ってしまったが、口の中に苦味が残る。机の上にあるもう一つのカップからは、湯気が立ち上っていて、ついさっきまでは自分ひとりではなかったのだと、寂しそうなカップが教えてくれていた。お前はまた失敗したのだと。お前はやはり駄目な奴なのだと。もしそれが声であったのなら、哀れむ響きだったに違いない。その聞こえない声から逃れるためか、俺は自然と俯いてしまっていた。
――いや、違う。俺は悪くない。俺は悪くないんだ。
俺は心の中でそう呟いた。それの半分は本当の思いだが、もう半分には責任逃れの思いを孕んでいる。しかしどれだけ責任逃れをしようともここにいるのは俺一人だ。どんなに言い訳をしても空回りするばかりでしかない。どうにか自分のせいではないと思いこもうとしても、すぐにそれは自責の念へと変わっていく。
俺と里美は高校に入学したときに初めて出会い、二年になったときに付き合い始めた。元々、相思相愛の関係だったのだが一年のときは告白することは無く、二年の夏に勇気を振り絞って告白し、関係が始まった。今、俺たちは大学二年、つまり恋人同士になってから既に四年もの月日が経過したのだ。高校二年のときに、俺たち二人は同じ大学に行こうと約束をした。もちろんそのときの俺は里美のことが大好きで、同じ大学に行って、一緒に過ごすことが出来ればどんなに楽しいだろうかと思っていた。それは当然のことだった。
それからの俺は猛勉強をした。勉強は好きではなかったし、里美にそう言われるまで大学のことなんてほとんど考えたことも無かった。見通しがあったとするなら自分の成績で少し勉強したら受かるだろうというレベルの大学に、入学するだろうなぐらいだった。しかし、里美と同じ大学に行こうという目標が出来てからは勉強に熱中した。文化祭や体育祭でクラスメートたちが熱を上げている間にも、俺は目を向けることも無かった。俺が里美と同じ大学に行こうとするなら、他の事は全て犠牲にしなければならない。しかし、俺にとってそれは絶対にやらなければならなかったことだ。どんなに苦しく辛かろうと努力をやめることは無かった。
今でも断言できる。努力は精一杯した。実際に、担任の教師からも最初は受からないといわれていたが、模試を受けるたびに成績が上がっていき、受かる可能性も高いと言われるようにもなった。しかし、現実はそう甘くなかったのである。俺は、結局里美と同じ大学に行くことは出来ず、滑り止めに受けていた大学に行くことになった。1年浪人するという選択肢もあったのかもしれないが、里美が大学に行っているのに自分が浪人するということに耐えられるとは到底思えなかった。
受験に失敗してからは、しばらくの間里美に顔を合わせることも出来ずにずっと自分の部屋にこもっていた。里美にどんな顔をして会えばいいのだろうか。どんなに考えても分からなかった。どんな風に言われても辛いことには代わらないのだ。俺は深い海の底にいた。どんな光も俺のところまでは届かず、誰も俺のところには近づくことが出来ない。携帯電話には里美からの着信が何回もあったが、無視していた。しかし、ずっと会わずに自分の部屋にこもっているわけには行かない。家から出なくなって一週間後、里美と会った。
その日も確か、何の因果かは知らないがこの店だった。
そのときの事はあまりあまり覚えていない。そこだけ記憶のテープが切り取られてしまっているのだ。里美に慰められたということは覚えている。しかし実際にどんな言葉だったのかは、いつ振り返っても思い出すことは出来ないのだ。どんなに相手が優しさを持って言葉をかけようと、癒されることのない辛さというものがある。そのときの辛さは、まさにそれだった。
その時からだろう。俺と里美の関係がギクシャクしだしたのは。今までは同じ学校だったのに、違う学校に行くことになって会うことが以前よりも格段に少なくなってしまったということも原因の一つなのかもしれないが、彼女が大学に合格し自分が失敗したことで自分より彼女のほうが上であるということを示された気がしたからかもしれない。俺は別に勉強が全てだと思っている訳ではない。彼女のほうが頭がいいのは以前からのことで、そのことを苦しく感じたことはなかった。しかしこのように成功と失敗がはっきりと俺と彼女に出てしまったというのが俺の心のどこかに傷をつけていたのだろう。彼女が自分のほうが俺よりも上だという態度をしているわけではない。俺が勝手に一人で思って、一人で傷ついているだけだ。分かっている。分かっていても感情というものは上手く操ることはできない。しかし、俺が劣等感を強く感じるようになってしまった。
そういったすれ違いからか、喧嘩が以前よりも多くなった。高校の頃も喧嘩が無かったわけではない、しかし大学に入ってからは些細なことで喧嘩をするようになった。理由は分かっている。俺が小さなことで突っかかるようになってしまったのだ。
――もう、終わりかな。
こういうときは大抵、すぐに出ていった里美を追いかけていっていたのだが、今日は追いかけようとは思えなかった。別に里美のことを嫌いになってしまったわけではない。彼女は変わっていない、俺が変わってしまったのだ。しかし、このままこんなギクシャクした関係を続けてしまって何の意味があるのだろうか。そういう疑問を感じずにはいられなかった。結局この後、いつものように仲直りしてしまうかもしれない。でも、追いかけようとまで思えるまでの情熱は俺の中に残っていなかった。俺はコーヒーを飲み終わると、代金を払ってゆっくりと店から出て行った。もちろん、そこに彼女の姿があるわけは無く、俺は自分のアパートに帰るため、バス停に向かった。
「すいません」
その声は、女性のとても透明感のある声だった。振り返ってみるとそこに立っていたのは中学生ぐらいの少女で、とても印象的な目をしていた。まるで吸い込まれそうなく漆黒の瞳を持ち、浮世離れした印象を受ける。髪は腰まで伸びていてとても綺麗なのだが、それとは対照的に服は随分と着古されててよれよれだ。
「この場所、どこだか分かりますか?」
そういって少女は住所と店名が書かれた一枚の紙を俺に差し出した。この町に住んでいるわけでもないので地理には詳しくないのだが、偶然にもそこに書かれている店名は死んでいた。
「あぁ、そこか。そこだったら――」
俺は説明するために、その少女に背を向けたのだが、その瞬間自分の体に冷たい鉄の感触が押しつけられ、強烈な電気が走った。一体何が起こったのか分からないまま、俺は気を失った。
目を覚ました場所は、ダンボールが山積みにされている狭い倉庫だった。一本の柱があり、そこに俺の腕が縛られており、足もしっかりと動けないようにぐるぐると縄で縛られている。そして目の前にはさっきの少女の姿があった。
「あ、やっと起きましたか。待っていたんですよ」
少女はデートの待ち合わせに遅れでもしたかのような調子でそう言った。気絶したときと今の状況から見てこの少女が犯人なのは間違いない。しかし、それでもこの少女が犯人であると感情の部分で納得できなかった。
「あぁ、騒がれると面倒なのであらかじめ言っておきますが、この辺りに人が来ることはまずありません。ですので、大声を出して助けを呼ぼうなんて無駄なことはしないでくださいね。そんなことされるとうっとうしいですから、ガムテープで口をふさがないといけないことになります。それは嫌ですよね? 息苦しいですし」
「これは、君がやったのかい?」
「それはそうよ。状況からだいたいのことは分かるでしょう?」
彼女はそう言って、一つのダンボールを持ってきてその上に腰を下ろした。
彼女は自分の口で、自分が犯人であることを認めた。しかし、やはり彼女が私のことを拉致した犯人であるようには思えない。しかし、いくら納得できないとはいえ、納得しなければ話は続かないのだ。俺はとりあえず、彼女が犯人であるということを無理やりにでも受け入れるしかない。
「じゃぁ、君は一体なんでこんなことをしたんだ?」
俺は彼女に会ったことは無い。こんな印象的な少女に出会っていたら、忘れることはまず無いだろう。会ったことも無い相手に恨まれる筋合いは全く無い。
「あぁ、あなたを殺すためです」
その少女の口調だと、それはたいしたことの無い宣告のようだったが、俺の心臓は一瞬にして凍りついた。誰でもまさかいきなりこんな少女に殺すといわれるなんて思いもしないだろう。冗談ではないのかとも考えたが、彼女の目は冗談を言っているようには見えなかった。何の慈悲も無く、俺を見下ろしている。
「俺に何か恨みでもあるのか?」
「恨み? そんなものは別にありませんよ。ただ単に、ちょうどよくあなたがあそこにいたから、それだけの話ですね」
誰でも良かった――俺は運悪く彼女に選ばれてしまったということである。偶然、雷にでも当たるように俺は殺されることになった。しかし、俺には彼女に誰でもいいから殺すというような猟奇性を感じない。彼女が一体何故、殺しを行おうとしているのかが全く分からなかった。
「なんで、人を殺すんだい?」
「私、他人の走馬灯が見えるんですよ」
「走馬灯?」
「はい。走馬灯です。知りませんか? 人が死ぬ間際に見るというあれ、ですよ」
「いや、それは知っているけれど……」
走馬灯がどういうものなのかはだいたい知っている。しかし、他人の走馬灯が見えるということがどういうことなのかが良く分からなかった。彼女にはそういう特殊な力があるということなのだろうか? それに一体何の意味があるのかも分からない。もしくは俺からしてみると意味を感じられないだけで、彼女にはその力に何かの意味を持っているのだろう。
「あれはですね、私がまだ小学生だったころです。多分四年ぐらい前ですかね? まぁ、いつだったのかにたいした意味は存在しないんですけれども。なんでもないような日でした。普通に目が覚めて、普通に朝食を摂って、普通にお母さんに“行って来ます”って言って、学校に行く。そんな普通の日。学校でいつもとなんら変わらない授業を受けて、いつものように下校していました。その下校のときです。私があれを見たのは。下校しているときになんとなく空を見上げていると、人が降ってきたんですよ。想像できますか? 人が空から降ってくるんです。まぁ、超常現象とかではなくただの飛び降り自殺だったんですけどね。ですけど、ふと見上げたところに人が落ちてくるというのは何と言いますか、とっても異常ですよ。とにかく、それは一瞬頭の中で何が起こっているのかを処理できなくなります。脳みそがぐしゃぐしゃになってしまったのかなとも思いました。そんなときにあれが私の頭の中に、入ってきたんです。その落ちてくる人と目が合った途端に、感情の洪水もような映像が頭の中に流れ込んできました。そして気づいたときには、その飛び降りた人は地面にぶつかって血まみれになっていましたよ。ショッキングな光景だったんだとは思います。私の心は突然頭の中に溢れてきた映像に向けられて、それに悲鳴を上げたりすることはありませんでした。頭の中に入ってきたのはこの人の走馬灯なんだって言うのはすぐに分かりましたよ。自分でも驚いてしまうほどに、すぐに自分にはそういう能力があるんだってね。割と自分の中にあるものって簡単に受け入れられるんだなぁって思いました。“ここに心臓があります。”“あぁ、そうですか。”――そんな感じです。でも、あれは本当にすごいですよ。その人の人生での経験やそれに伴う感情が一気に自分の所に入ってくるんです。私は普段大して感情が大きく出ることは無いんですよ。でも、その時は喜びだとか悲しみだとか怒りだとか、そういった感情が一気に自分の中に現れるんです。泣きたくなりました。叫び出したくなりました。走り出したくなりました。楽しくもなりました。苦しくもなりました。それ以来、私はそれに飢えるようになったんです。私はやったこと無いんですけど、麻薬とかに近いんじゃないかと思います」
そう言いながら彼女が取り出したのは、細身のナイフだった。普通に彼女が切りかかってきたのであれば、それは恐ろしいことではあるものの、殺される可能性というのは低いだろう。しかし、今の俺は彼女によって手と足を縛られて動きを封じられている。彼女がそのナイフで、俺の心臓を一刺しすれば確実に俺は死ぬ。ナイフの煌きは、とても恐ろしい狂気的なものだ。
「あなたは、一体どういったものを私に見せてくれるんでしょうね」
彼女はダンボールから腰を上げると、俺に近づいてきた。
俺はこのまま殺されてしまうのだ。いきなり、ただの不運によって俺は殺されてしまう。
そう思った瞬間、俺の脳裏に今までの自分の人生が流れた。自分が忘れかけていたような小さいころのこと、小学生時代、中学生時代とつらかったことも楽しかったことも次々と脳裏に移る。それは短い時間であるはずなのに、とても長く感じられた。あらゆる感情が頭の中で、昔感じたまま現れる。
そして最後に出てきたのは、里美との思い出だった。今でこそギクシャクしているものの、楽しかった思い出が頭の中に鮮明に思い出される。付き合い始める前のこと、告白したときのこと、付き合ってから話したこと、二人で行った場所。もちろん喧嘩などの辛いことも思い出された。しかしそれを塗りつぶしてしまう程の幸福がそこにあった。
そして、自覚させられた。どんなにつらい事があってギクシャクしても、結局は俺はあいつのことが好きなのだ。受験に失敗して、一緒にいるのがつらくなり、喧嘩ばっかりしていた自分の情けなさが思い知らされた。気づくと、俺の目から涙がこぼれていた。
「それじゃぁ、さようなら」
彼女のナイフが俺の心臓に向けられた。もう俺は殺されるのだ。俺は反射的に目をつぶってしまう。
そしてその瞬間何故か胸にナイフが刺さることは無かった。またあの冷たい鉄の感触が押しつけられ、そして電流が流れ――気を失った。
「――起きてください。風邪を引きますよ」
俺は透明感のある少女の声で目が覚めた。目覚めたその場所は、バス停のベンチだった。俺の隣には俺を殺そうとしていたはずの少女が座っていた。俺は驚いて、ベンチから落ちて、その勢いでベンチに頭をぶつけてしまった。
「大丈夫ですか?」
痛がって頭を抑える俺に、その少女は心配そうに声をかけてくる。先ほどまで俺を殺そうとしていた少女とはとても重ならない。声や容姿は似ているが、到底同じ人物のようには思えなかった。
――夢、だったのか?
しかし、だとしたら一体どこまでが夢だったのだろうか? 考えてみたが、よく分からなかった。なんとなく、携帯電話をポケットから取り出すと里美からのメールが一件だけ入っていた。
――早く行かなくちゃ。
メールの中身を見る前からそう思った。そんな俺の顔を見て、隣にいる少女が俺に尋ねてきた。
「今から、家に帰られるんですか?」
「いや、行かないといけないところがある」
「そうですか」
少女は優しく微笑み、そこにちょうど良くバスがやってきた。俺はそのバスに乗り込んだ。
「では、頑張って来て下さい」
その少女の言葉に疑問を覚える。どうして彼女は俺に“頑張って来て下さい”などと言うのだろうか? 状況だけ見れば俺は眠ってバスを乗り過ごしただけの間抜けな男だ。そんな相手にエールを送ることなど普通はないだろう。夢だと思っていたが、もしかしてあれは夢ではなかったのだろうか?
――まぁ、どうでもいいことだな。
「頑張ってくるよ」
あれが夢であったにしろ、現実であったにしろ、俺のやることが何か変わるだろうか? 答えはノーだ。俺は今、生きている。自分の思いを見つめ、まっすぐに進まなくてはならない。それが生きていると言うことの正しい答え――俺はそう思った。
「君は乗らないのかい?」
「いえ、単純にバス停で寝ている人が珍しかったので」
ドアが閉まり、バスが発進した。
走馬灯 イグチユウ @iguchiyu
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