いつかもきっと、ねがったこと
銀色小鳩
いつかもきっと、ねがったこと
ねぇ、あこがれの語源って、しってる?
そう言ったら、きぃちゃんはちらっと私を見返して、
「ん~~? 知らん」
と言った。
「考えて?」
「今それどころじゃないよ」
きぃちゃんはそう言うと、歴史の教科書からノートへと年表を書き写して表にする作業の続きをはじめた。そんなので覚えられるのか、私にはわからないけれど、きぃちゃんは表を完成させてトイレに貼ると言っている。最近寝られておらず、勉強する集中力もないから、目に入るところに貼るそうだ。
「ねぇ」
「愛、焦がれる」
仕方ないから少しだけ付き合う、といった様子で、きぃちゃんは私を見もせずに言った。
「ぶっぶー!」
「うぇ」
「検索で調べてみたんだよ。ええと、AIによる概要……平安時代に用いられていた『あくがる』です。本来あるべき場所を離れてさまようことを意味し、そこから物事に心を奪われる状態を示す言葉へと変わっていきました。……だって」
「へぇ」
眠そうで、少し面倒そうだったきぃちゃんは、「ぶっぶー」と言われたのが不服そうだ。
「でもさ、検索結果だろ。本当がどうだったかなんて、その時代の人しかわかんないだろ。私だって、姪っ子に「これなあに」って聞かれた写真、犬だったけど、面白いから「めけめけだよ」って言ったら、姪っ子は犬が通ると「めけめけだ」って言うようになったよ。そのうち尾ひれがついて、うちの実家の一地域の一部では犬のことをめけめけって言うって話になるかもな」
ずいぶん悪質なイタズラをする――とは思うが、それをやった後のきぃちゃんの悪戯成功したぜという表情が目に浮かぶようで、見たかった、という熱が胸にぽっと灯る。
「憧れの語源は、いいとこ突いてると思うけどなぁ。心ここにあらず、になるっていうの、わかる気がするんだよね……夜になると、確かに愛、焦がれる、みたいな感覚はあるけど、そのままふーっと自分の体は消えちゃって、相手の所に融合しに行きたくなるみたいな。私、ずいぶん前から、自分でいるっていうのがどういうことなのか、わからなくなってる」
きぃちゃんのシャープペンシルを持つ手が止まった。
「根津は根津だろ」
少し震えたように感じた声。私の方は見ないのに、きぃちゃんの手は止まったままだ。
「ちゃんと自分に戻れよ」
この言葉に、私はわざと答えなかった。
戻る自分なんて、ろくなものじゃない。自分が上手くいかなければいかないほど、憧れは焦げ付くように自分を責めてくる。いっそのこと自分なんて全部なくなってしまえればいいのに。
「会いにいってやるから。何度でも」
ぼそっと呟いたきぃちゃんは、頭をぐしゃぐしゃと搔きむしった。
「何言ってんだ……」
「会いにきてくれる?」
「ちゃんと戻ってきてくれないと、寝れないし集中できない。だから」
そのうちふっ、ぅ、という息を急に吸う音が聞こえてきた。きぃちゃんの広げている紙に、ぱたぱたっと水滴が落ち始めた。
「だから、こういう幻覚を見る」
その水滴はあまりに透明だったが、きぃちゃんの嗚咽を聞いたとたん、悲痛すぎて、聞いていたくないと思った。手を伸ばす。きぃちゃんの目元を拭い、抱きしめようとして、私の手は夢のようにきぃちゃんの体と融合した。体の中に入りこみ、入りこみ切れずに素通りする。違う、入りこみたいんじゃない……強く力を込めて包み込みたいのに。
戻りたい。この愛しい存在を抱きしめたい。どんなに痛くても、自分の体で。
ふらふらした気持ちが濃い霧のように集まり、方向性を持ち出し、私は次の瞬間天から自分を見ていた。
――戻ろう。
体がきりもみするように痛む。まるでガラスの破片だらけの布団に潜り込むようにして、私は痛む体に、ひりひりとした自分という霧を滑り込ませた。
目を覚ますと、ベットの傍らには、暗い室の中で緑色に数字を光らせている機器があった。もちろん、目を開けたことを喜ぶ父も母もその場には居なかった。体中が痛く、吐き気で頭がぐらぐらする。恐怖心に駆られてなんとか枕元にあるナースコールを探し出す。
助けを求めることのできなかった卑屈な私が、卑屈でもいいからと助けを求める私に、今、戻る。
そうだった。私はきっと、この体で、強く抱きしめるために、この世に肉を持って生まれてきたのだ。もう憧れは要らない。憧れの体にも顔にも能力にも恵まれなかった、でも、私には体がある!
きぃちゃんを泣かせたのが、こんなに辛いとは思わなかった。
どんなにみっともなくても、助けてもらってでも、生きたい。私はまだ地に繋ぎ止められていたい。
ぎしぎしする指で、ボタンを押した。
助けてください。戻りました。
いつかもきっと、ねがったこと 銀色小鳩 @ginnirokobato
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