第5話青い花の夢

バーベナが目を開くと、そこには見覚えのある景色が広がっていた。


風に揺れる青い花々。街の片隅で偶然見つけた、どこか懐かしい香りを放つ花。その青が今、視界いっぱいに広がっている。


けれど、ここはマルヴァーニャの街のはずれではない。


空は限りなく澄み渡り、雲ひとつない。陽光は柔らかく、決して暑すぎず、冷たすぎもしない。心地よいそよ風が吹き抜け、青い花の甘やかな香りが空気に溶け込んでいた。


(これは…夢かしら。不思議な夢…)


自覚すると、不思議と落ち着いた気持ちになった。


バーベナはゆっくりと息を吸い込み、そして吐く。肺の中に懐かしい香りが充満し、なんとなく胸が締め付けられるような、切ない気持ちが身体を支配する。


青い花々がざわめくように揺れ、どこからかワルツが聞こえてくる。バーベナはゆっくりと足を踏み出し、音に合わせて踊り始めた。


青い花畑の中央で、バーベナはまるで相手がいるかのように軽やかに舞う。王子妃教育で叩き込まれたすべてだが、今は自由に、ただ心の赴くままに、ダンスをする。


やがて、誰かがそっと手を取った。


驚いて顔を上げると、そこには優しい微笑みをたたえた女性がいた。


「おかあ…さん…?」


ふと漏れた音は、普段言い慣れない言葉に違いなかったが、口をついて出てきた。


「なぁに?なっちゃん。」


目の前の美しい女性は、小首をかしげて振り返り、くしゃりと笑う。どこか幼さの残る顔立ちに派手な化粧が絶妙にマッチしている。化粧は女の戦闘力よ!と言っていつも赤いリップをひいていた。そして、大きく巻いたロングヘアーが風に乗って流れていく。


「お母さんね…?」


「そうよ、なっちゃんのママ!」


コロコロと鈴の鳴くような母の声が頭に響く。懐かしい声音。もう二度と聞けないと思っていたその声が、今はこんなにも近くにある。


バーベナは、自然と涙が出てきた。


「あなたはずっと頑張ってきたわね。」


「そ、う、な゙の゙ーーーー!」


普段のバーベナは、鉄面皮と呼ばれるほど、怒りも、悲しみも、喜びも表情に出ることはなかったが、夢の中は違う。

バーベナは、転生前の母に頭を撫でられると、赤子のように顔をくしゃくしゃにしながら、おんおんと泣き続けた。


「わたし、思い出したの…!わたし…!この世界に転生してきたんだわ…!」


王子妃教育の日々。幼い頃から続いた厳しい指導。日本でぬくぬくと育っていた記憶を持つ私が、耐えられるはずもなかった。自分の身を守るために、鉄面皮と呼ばれるほど表情を封じたのだ。


「お゙かあ゙さん゙…!」


目の前で、泣き続けるバーベナの頭を、ニコニコしながら撫でている彼女は、転生前のバーベナの母だった。


(ああ、私は――。全部思い出した。)


転生する前、日本で暮らしていたこと。母が毎日、私の髪を梳かしながら、優しく微笑んでいたこと。母が愛用していた香水の香り。それがどれほど私を安心させてくれたこと。


「このお花、お母さんの香りがするの…!」


「うふふ。そうね、チュベローズの香りだわ。」


バーベナは、目の前の懐かしい母に伝えたいことがたくさんあるが、それを順序立てて説明することは難しい。暖かかった母の温もりが消え、貴族社会に馴染めるように努力し、幸いなことに両親はいい人たちだったが、突然始まった厳しい教育。辛かったのは当然だった。あんな教育に耐えられないのは、私が弱いからではない。貴族社会の当たり前に、誰も助けてくれない中で、必死に耐えた。それだけでも、十分すぎるほどだった。


「よく頑張ったわね…でも、きっともう一人じゃないわ。」


「一人じゃないの…?」


母の腕の中で、バーベナは顔を上げると、母は青い花畑の先を見ていた。その先には…誰かがいるように見えた。


「だれ…?」


バーベナが呟いた瞬間、夢の世界がふっと揺らいだ。青い花が、風に舞うように宙を舞う。その景色を最後に、バーベナの意識はゆっくりと現実へと戻っていった。

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